天才ラノベ作家のクソガキみたいな女をわたしは殺したい。

水無月ナツキ

天才ラノベ作家のクソガキみたいな女をわたしは殺したい。

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 その日、わたしは殺意を知った。


 わたしは一冊のライトノベルを読み終えて、放心状態のようになっていた。

 そのラノベはわたしと同じ中学生が書いたもので、SNSでは【最年少ラノベ作家爆誕!?】という宣伝により話題になっていた作品だ。

 その作者の名前は明野海浜あけのうみはま


 期待なんてあんまりしていなかった。

 同い年でデビューを果たした。

 ただそれだけで興味を持った。


 それだけだった。

 手に取り、読み始めたのはそれが理由だった。

 読み始めたのは自分の意思だったはすだ。


 でもページを捲った途端、わたしの意思は消え去り読まされていた。

 冒頭から一発でわたしの心を握ってきた。

 その手は強く決して放してくれなかった。


 文字を追う視線もページをめくる手も、止めることを許してくれない。

 気がつけば読み終わっていた。


 天才。


 それが最初に浮かんだ言葉だった。

 ただの天才じゃない。

 鬼才、神童に達しているとすら言える。


 才能の塊だ。

 それはもはや圧倒的な暴力だった。

 放心状態になってしまうほどの暴力。


 あっという間にわたしのが剥がれ落ちた。

 今まで自分の心を守っていたものが粉々になった。

 目をそらしていた現実が一気に襲いかかってきて、わたしは絶望へと叩き落された。


 勝てない、そう思った。

 思ってしまった。


 瞬間、わたしの心が折れた音がした。

 わたしは顔も知らない明野海浜という作家に殺されたのだ。


 でもわたしには叶えたい夢があった。

 立ち上がらなくてはいけなかった。

 そのためには強いなにかが必要だった。


 その思いに呼応したのだろう。

 折れた心を補強するように、その断面から強い感情が溢れ出した。

 それは――。


「……殺してやる」


 どうしようもない、殺意だった。

 初めて抱いた感情だった。

 明野海浜はわたしにはない、わたしがほしいものをすでに持っている。


 そしてなによりも、わたしの大切なものを奪おうとしたから。

 これは誰かに理解されるような感情ではないのかもしれない。

 わたしだけが抱える醜い感情なのかもしれない。


 でもそれでも関係なんてなかった。

 誰にも理解されない醜い感情であっても、わたしは抱いてしまったのだ。

 だったら明野美浜を殺さなければいけない。


 そうしなくちゃこの感情は消えない。

 だから周りなんて関係ない。

 わたしは明野美浜を殺したかった。


「いつか絶対っ、殺してやるッ!」



 1


 わたし――黒田凜香くろだりんかが作家を目指そうと思ったのは、小説家だった母さんの本を読んだことがきっかけだった。

 母さんはわたしが物心ついたときには亡くなっていて、どんな人だったのか人伝や写真でしか知らない。

 だから母さんがその小説をどんな想いで書いたのかも知らなかった。


 その小説のタイトルは【波打ち際の境界線】。

 表紙に海の写真が使われている。

 その海は綺麗なエメラルドグリーンだった。


 当時のわたしは実のところ小説を読むのことに興味がなかった。

 でもわたしは母さんのことを少しでも知りたくて、その本のページをめくった。

 最初は読み慣れていないせいか、文字を追うのに時間がかかった。


 でもそうやって読み進めていくうちに、どんどんと惹き込まれていった。

 面白くて、楽しくて、切なくて。

 読んでいくといろんな感情が湧き出した。


 読み終えたときにふと思った。

 自分もこんな物語が書きたい、と。

 そうしてわたしは作家の夢を持ったのだった。


 窓の外を眺めながら、わたしはそんな昔のことを思い出していた。

 所属している文芸部の部室から見える空は青く、夏の太陽が燦々と降り注いでいる。

 わたしは椅子に座り静かな時を過ごしていた。


 あれから――作家という夢を持ってから数年が過ぎて、わたしは十七歳になった。

 今でもわたしは小説を書いている。

 違うのは、書きはじめた当初は書くことが楽しかったのに、今は楽しいと思えなくなったこと。


 どうしてあのときのわたしは、小説を書くことがあんなにも楽しかったのだろう。

 今ではもうわからない。

 わかることはあの頃の楽しさを忘れてしまった今でも、わたしは小説を書くことをやめられずにいるということ。


「読み終えたよ」


 その声に、わたしは思考を中断する。

 顔を上げて声の方を見る。

 長机を挟んだ対面に、女子高校生が座っていた。


 彼女は栗色のミディアムヘアをサマーパーカーのフードで隠し、棒キャンディを口に咥えている。

 背はわたしよりも少し低くて、幼さの残る可愛らしい顔立ちをしていた。

 彼女の名前は美山愛梨みやまあいり


 わたしと同じ高校二年生で、同じく文芸部に所属している。

 今美山の前の机上には紙の束が置かれていた。

 わたしが書いた小説の原稿を印刷したものだ。


 今の今まで美山はわたしの小説を読んでいた。

 わたしがアドバイスを求めたからだ。

 ……本当はこいつに頼みたくなんてなかったけど。


 わたしは美山愛梨が大嫌いだ。

 それでもこいつにアドバイスを求めたのには理由があった。

 それを思えば我慢だってしてやる。


「……で、どうだった?」

「んー……」


 美山は腕を組み、天井へと視線を向ける。

 なにか言葉を選んでいるような、そんな様子だった。

 わたしは美山からの言葉をじっと待つ。


 やがて、美山は天井からわたしへと視線を戻した。

 棒キャンディの棒を持って口から引き抜くと、ぴっとその先をわたしへと突きつけるように向ける。

 そして。


「ぜんっぜんダメっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

「っ! びっくりした……。急に大声出すな!」

「鼓膜破れた? ねえねえ破れた?」

「なんだその煽り、うるせえよ!」

「うるさいってなによ! 信じられない! あたしたち別れましょ! 離婚よ、離婚! 慰謝料は100億円よ!」

「……マジでうるせえ。ふざけないで真面目にやってくれ」


 というか100億円って……ガキかよ。

 なにが楽しいのか、美山は「あはは」と笑い声をあげる。

 ひとしきり笑って、美山は棒キャンディを口に戻した。


「でもホント、この出来じゃあまだまだだよ」

「はぁ……、やっぱりか。でも前も言ったが、ラブコメは得意じゃねえんだよ。ファンタジー書かせてくれたらまだマシなもんが」

「凜香ちゃんに足りないのはなんだった?」

「……魅力的なキャラ」

「そう! だからラブコメを書かせてるんだよ。ラブコメはキャラが命だからね」

「ファンタジーだってストーリーだけじゃなくキャラも大事なんじゃねえのかよ」

「もちろん。でもラブコメはもっともっとキャラが重要なんだよ。ラブコメはキャラの魅力を出しまくらなくちゃいけないの。だってキャラの魅力が足りないとラブコメはつまらなくなるからね」

「そういうもんか?」

「うん。ラブコメはキャラを魅力的にしないと成り立たない。だからこそ魅力的なキャラを作ったり書いたりする練習になるんじゃないかって、そう思ったの」

「お前もそうやって身につけたのか?」

「え、違うけど」

「おい!」


 美山はキョトンと首を傾げている。

 なんかちょっとイラッとした。


「やってないことやらせるな! 意味あるかわかんねえだろ、それじゃあ」

「だって、あたしはそんなことしなくても最初からできたし……」

「――ッ」

「なに、どうしたの? 殺し屋みたいな顔してるけど」

「……うるせえ。ホント腹立つ、お前のそういうところ」


 わたしはときどき美山をぶん殴りたくなる。

 憎くて、憎くて、たまらなくなる。

 だってこいつはわたしにないものを――。


「あははは! 凜香ちゃんは本当にあたしのことが大嫌いなんだね?」


 美山は笑いながらわたしを見つめる。

 なにがそんなに楽しいのだろうか。

 わたしには一生わかりそうもない。


 美山はわたしが彼女を嫌っているのを知っている。

 知っていてなお、美山はわたしにアドバイスをくれるのだ。

 変な奴だ。


「でもね、凜香ちゃん。あたしも根拠がないまま言ってるわけじゃないよ」

「……ホントかよ」

「あたしは何もしなくても書けたけど、でも今は……一応プロだから。分析はしてるんだよ」

「……プロ、か」


 そう。

 実のところ美山愛梨はライトノベル作家なのだ。

 それも超がつくほどの売れっ子作家。


 まだ高校生なのに、だ。

 それこそが美山にアドバイスを求めた理由だった。


「そう。……面白い作品とつまらない作品。そこにどんな違いがあるのか。それを自分なりに考えて結論を出したの。そうしたらラブコメはキャラが最重要だってわかったんだよ」

「……だからわたしに書かせてるのか、ラブコメを」

「うん。だからね、もう一回書き直してきて」

「……わかった」


 これはチャンスなのだ。

 超売れっ子作家が素人に直々にアドバイスをくれるなんてことは、そうそうあることじゃない。

 そうであるのなら、嫌いな相手であっても突っぱねることはできない。


 だからわたしはこうして、美山愛梨に教えを請う日々を過ごしているのだった。



 2


 美山愛梨のペンネームは明野海浜。

 超がつく売れっ子作家であり、界隈では鬼才とまで呼ばれる才能の持ち主。

 わたしにとんでもない衝撃を与えやがった高校生作家だ。


 高校生やそれ相応の年齢で作家デビューを果たした人間は、実のところそれなりに多く存在する。

 だけど明野美浜はそれよりも下、中学生の頃にデビューを果たした。

 前例がないわけじゃない。


 むしろ小学生でデビューした人間だっている。

 それでも圧倒的に数は少ない。

 ラノベだけで絞ればゼロだ。


 デビュー当時は彼女の話でもちきりだった。

 その年齢はもとより、年齢に見合わぬ才能、そしてデビュー作は彼女の処女作だという事実。

 話題にならないはずがなかった。


 わたしはわたしより才能がある奴が嫌いだし、ムカつく。

 それがどんな相手でも、だ。

 でも明野海浜はそいつらよりも遥か上の才能を持っている。


 だからわたしは明野海浜が特別大嫌いだ。

 殺したいと思うほどに、大嫌いだった。


 美山愛梨がそんな超売れっ子作家だと知ったのはついひと最近のことだ。

 それは偶然だった。

 わたしのバイト先である喫茶店に美山がきたのだ。


 わたしがシフトの時間に喫茶店へ行ったときにはもうすでにいて、着替えてホールに出たときにわたしは美山に気がついた。

 美山は女性の誰かと対面して喋っていて、わたしには気が付かなかった。

 気が付かれたら面倒だと思ったが、だからと言ってサボるわけにはいかない。


 なるべく視線を向けないようにすれば気が付かれにくいかもしれないし、最悪気が付かれてもこっちが気が付かないフリをすればいい。

 わたしはそうやって自分自身に言い聞かせて、普段通りに仕事を始めた。

 しばらくして、美山の席の近くにいた客の対応を終えたときだった。


「明野海浜の作品を待っている読者がたくさんいるんです」


 美山たちの席からそんな声が聞こえてきた。

 わたしは思わず美山の方を見てしまった。

 美山の対面に座った女性が身を乗り出すような姿勢で、真剣な表情で美山に話をしている様子だった。


 女性は続ける。


「だから明野先生。ゆっくりでもいいんです。どうか続きを書いてください」

「……でも。もうあたしは」

「大丈夫です。また書けるようになるまで、我々編集部がサポートしますから」


 ほとんどの話は耳に入らなかった。

 女性が美山を明野先生と呼んでいる。

 その事実だけが頭の中を埋め尽くしていた。


(あの美山が、明野海浜……?)


 周りのことなんて見えなくなった。

 わたしはふらふらと美山の傍に寄った。

 隣に誰かの立つ気配を感じたのだろう美山が、ゆっくりとわたしの顔を見上げてきた。


 目があって、しばらくわたしたちは黙ったまま見つめ合った。

 やがてわたしから口を開いた。


「……美山」

「……凜香ちゃん。あの、これは――」

「お前っ。……明野海浜だったのか?」

「……」


 それが美山愛梨がラノベ作家の明野海浜だと知った瞬間だった。



 3


 部活終わりの下校時。

 わたしと美山はバスに乗っていた。

 わたしたちは最後列の長椅子に並んで座っていた。


 最初に美山が隣に座ってきたとき、わたしは彼女に別の席に行けと言った。

 でもまったく聞いてくれなかった。

 自分が移ろうとするも美山に窓際へ追いやられて、その小柄な身体で閉じ込められてしまった。


 無理矢理に通ろうとすれば絶対に騒がしくしてしまうだろう。

 周りに迷惑をかけるわけにはいかない。

 そんなわたしの心を見透かしたように、美山に「ホント真面目だね」と言われた。


 バスの中で騒がないようにするなんて普通のことだろ。

 美山はよくわたしのことを真面目だと言う。

 課題を忘れたことがないだとか、授業をサボったことがないだとか。


 ゴミ箱の周りに散乱したゴミをちゃんと捨て直したり、校則に則った学校生活をしたり。

 そんなわたしのあたりまえの行動を知る度に、美山はわたしに真面目だと言ってくるのだ。

 わたしから言わせれば美山が不真面目すぎるだけだ。


 課題はしょっちゅう忘れるわ、遅刻はあたりまえだわ。

 授業はよくサボるし、持ち込み禁止物の携帯ゲーム機を学校に持ってくる。

 授業中に棒キャンディを舐めるなんて言語道断だ。


 それなのにテストの成績はいいのが謎で、めちゃくちゃ腹が立つ。

 とにかく不真面目というのが美山愛梨という女だ。

 だからわたしは美山が嫌いだった。


「凜香ちゃんって、なんであたしのラノベばっかり読んでるの?」


 バスに揺られてどれくらい経ったか。

 美山がそんな質問をしてきた。

 美山の――明野海浜のラノベを読んでいたわたしは、顔を上げて美山に視線を向ける。


「……別にばっかりじゃねえよ。違うのだって読んでる」

「それはそうだけど。でもあたしのが圧倒的に多いじゃん」

「そんなことねえって」

「そんなことあるよ。しかもそんなに付箋貼りまくってるし、読みすぎてちょっとボロボロになってるし」


 わたしは手元を見下ろす。

 そこには明野海浜が書いた【俺の青春ラブコメに不可能はない】ーー通称【おれない】の第三巻。

 タイトルにある通り青春ラブコメだ。

 それははたしかに少しよれよれになっているし、付箋も大量に貼ってある。


 天才や鬼才と呼ばれる明野海浜のラノベだ。

 本当は大嫌いで読みたくはないが、参考や勉強になることは間違いない。

 だから繰り返し読んでるだけに過ぎない。

 ……本当にそれだけだ。


「全冊、もう何周もしてるでしょ?」

「しかたないだろ。お前がずっと新刊出さねえんだから」

「……それは今、関係ないじゃん」


 美山は不貞腐れたような顔で言った。

 美山にとって彼女の新刊については言われたくないことのようで、いつもわたしがそれを話題に出すと今と同じ顔をする。

 わたしは美山が不貞腐れようがどうでもいいから、気にせず話題に出しているが。


 明野海浜がラノベを出さなくなって二年が経った。

 本人曰く書けなくなったという話だった。

 どうしてそんなことになっているのか、わたしにはわからない。


 美山がそれ以上語らないからだ。

 本人が言わない以上、わたしにわかるわけがない。

 天才の気持ちなんてわからない。


「あたしのことはどうでもいいの。いいから理由教えてよ」


 参考や勉強になるから。

 そう言えばいいだけなのはわかっている。

 でもこいつにそんなことを言うのが癪だった。


「……つまらねえとこを探してるだけだ」

「ふうん。……ねえ、ここなんで付箋貼ってるの?」


 急にわたしの手元の本を覗いてきた美山が言った。

 わたしは「は?」と言いながら美山の視線を辿る。

 わたしが開いていたページにはたしかに黄色い付箋が貼ってある。


 そこは主人公ととあるヒロインのシーンだった。

 いつも主人公の飲みかけの缶ジュースを奪い、平気な顔して飲めていたボーイッシュ系幼馴染ヒロイン。

 そんな彼女がいつものように主人公から缶ジュースを奪ったあとで、それを飲もうとして直前に「やっぱ気分じゃない」と言ってやめるというシーンだ。


 そのしばらくあとで、彼女が主人公への恋心に気がつく展開がある。

 つまりこのシーンは伏線になっていたのだ。

 ここの上手いところはさり気なさすぎてこの時点では伏線と気がつけないように書いてる点だ。


「ここ伏線だと思わせない書き方してるだろ? 普通に書いたら伏線かって疑っちまうが、お前はめっちゃ自然に書いてるからなにも疑えない。でもあとから読むとめっちゃ伏線じゃねえかってなる。このさらっとした書き方で、なおかつあとでやられたってなるのがすげえんだよ」

「へえー」

「それにヒロインすらまだなにも気がついてないのに、身体が勝手に反応してるんだよ。つまり無意識ではもう気がついてたんだ。その表現方法が上手いんだよ」

「上手いんだ、へえー」

「へえーってお前な、自分でそういうふうに意図して書いたんだろ。なんで知らないみたいな反応するんだよ。」

「だってそんなこと意図してないもん」

「……は?」

「むしろそこヒロイン本当に気分じゃなくなっただけだし。その時点じゃまだ無意識的にも気がついてないよ」

「……」

「っていうかめっちゃ褒めてくれたね」

「……何の話だ」

「え、すげえとか上手いとか言ってたじゃん。つまらないとこに付箋貼ってるんじゃないの? 本当はめっちゃ好きだったりする? ねえ、ねえ? 好き? あたしのこと好き?」

「好きじゃねえよ!」


 大声を出してからハッっと気がついて、周りの乗客に頭を下げる。

 美山は隣でケラケラ笑っていた。

 ……誰のせいだと思ってやがる、あとで覚えておけよ。


 わたしは美山を睨みつけたが、彼女はそれでも笑っていた。

 ……本当に腹が立つ奴だな。

 ひとしきり笑ったあとで、美山はわたしに視線を戻した。


「……凜香ちゃんを見てると、あたしときどき思うんだ。あたし――、ううん。明野海浜の作品が本当に嫌いなのかなって。好きなんじゃないの? って」

「……好きじゃないって言ってるだろ」

「ホントに?」

「うるせえな、大嫌いだよ」

「……ふうん」

「なんだよ」


 美山が目を細めてわたしを見てきた。

 その目はなにかを言いたげに見えた。

 だからわたしは聞いたのだ。


 美山は「別に」と言って、わたしから視線をどかした。

 それっきりしばらくはなにも言わなかったが、数分後にまたわたしに声をかけてきた。


「……あのさ、凜香ちゃん」

「今度はなんだ?」

「凜香ちゃんがあたしに言った言葉、憶えてる?」

「言葉……?」

「ほら、凜香ちゃんがあたしの正体を知った次の日の部室で言ったことだよ」

「……ああ」


 それで美山の言っていることがわかった。

 部室でなにか言い訳をしようとした美山の言葉を遮って、わたしが言った言葉のことだろう。


「……憶えてる」

「凜香ちゃん、開口一番に『いつか絶対にぶっ殺してやるから覚悟してろ!』とか言うんだもん。びっくりしちゃったよ」


 わたしは同い年でデビューした明野海浜が大嫌いだった。

 憎くて憎くてたまらない。

 彼女のデビュー作を読んだとき浮かんできたのは殺意だった。


 殺したくて殺したくてたまらなかった。

 それが今のわたしを形作った。

 そんな感情を本人に暴露した日のことを、わたしは当然憶えている。


「……それがどうした」

「今でもちゃんとその気持ち、持ってる?」

「なんでそんなこと」

「いいから教えてよ。……ねえ、本当に殺したいの?」

「あたりまえだ。わたしは明野海浜を殺したい」

「……そっか。よかった」


 変な奴だ。

 誰かにお前を殺したいと言われて、「よかった」なんて言う奴がいるか。

 そんなの美山愛梨以外にいないだろう。


 ……どうしてよかったなんて言うのだろう。

 何を考えているのだろう。

 わたしは聞きたいと思った。


 だけど不思議なことに聞きたくないと思う自分もいた。

 どうしてか聞いてしまったらなにかを失うような気がした。

 なにか、大切なものを――。


 揺れるバスの中、わたしはなにも言えなかった。

 手の中の本が冷たくなったような気がした。



 4


 思えば、そのやりとりは予兆だったのだろう。

 あのときなにか言っていれば、問いただしていれば。

 なにかが変わったのだろうか。



 5


「また落ちた……」


 自室の机の上に置いたノートパソコン。

 その画面には某ライトノベル新人賞の一次選考の結果ページが映っている。

 作品名と作者名が簡素に並べられていた。


 そこに【海原うなばらリンカ】という作者名は載っていなかった。

 わたしのペンネームだ。

 今までいくつものライトノベル新人賞に応募してきたが、箸にも棒にもかからなかった。

 どうにかしたいとは思っているが、どうすればいいのかわからなかった。

 だから美山に頼ったのだ。


 美山はわたしに二つの課題を出した。

 一つはキャラの魅力。

 これはどうすればいいかの指導を受けている。


 問題はもう一つの課題。

 美山が言うには、わたしの小説からは「誰に何を伝えたいのか」というものが伝わってこないらしい。

 それを言われたとき、たしかにわたしはそんなことを考えたことはなかったと思った。


 でもそんなことを考えて意味なんてあるのだろうか。

 面白ければそれでいいんじゃないのか。

 たとえそこに作者の伝えたいことを入れたら、空想の物語として成り立たない気がするのだ。


 でもそんなわたしに美山は言うのだ。

 そういうことじゃないと。

 メッセージ性を求めているわけじゃないと言う。


 具体的にと聞いても「自分で気がつかないと意味がない」なんて言われる。

 ますますどうしていいかわからない。

 でもあの天才が言うのだから大事なことなのだろう。


 わからなくても考え続けた方がいいのだろう。

 でもどう考えればいいのかさえもまだわからなかった。

 それが手に入れば、わたしは作家という夢に一歩でも近づけるのだろうか。


「はぁ……」


 キャスター付きの椅子の背もたれにもたれて、天井を仰ぎ見る。

 思わずこぼれ出たため息。

 ……本当に、わたしは明野海浜を殺せるのだろうか。


 新人賞で芳しい結果を残せない現状。

 デビューできるかどうかもわからないのだ。

 明野海浜を殺す以前にスタートラインにすら立てないかもしれない。


「……なに考えてんだ、わたしは」


 一瞬よぎった不安を払拭するために両頬を叩く。

 気持ちを切り替えるためにPC画面にSNSサイトを表示させた。

 青い鳥が出迎える。


 流れていく情報を見ていけば嫌なことを少しでも忘れられる。

 そう思った。

 でもそれは悪手だったかもしれない。


 ふと見たトレンド一覧に【明野海浜】という文字があった。

 そのひとつ下のトレンドは【引退】という二文字。

 なんだか胸騒ぎがして、わたしはその文字をタップした。


 瞬間表示されたのは大混乱の呟きばかりだった。

 曰く、『明野海浜引退ってどういうこと!?』やら『は? え? は? 明野海浜が引退!? 嘘だろ』やら。


「……は?」


 わたしは思わずつぶやいていた。

 意味がわからなかった。

 夢なんじゃないのかと思った。


 目についたまとめサイトのリンクを踏む。

 そこにはこう書かれていた。


『大人気ライトノベル作家である明野海浜が、自身のツイッターにて突然”ラノベ作家を引退します”と発言。約二年ぶりのこのツイートはファンへと大きな衝撃を与えている。明野海浜作品を刊行しているレーベルには問い合わせが殺到。それに伴い、公式ツイッター及び公式サイトは声明を発信。レーベル自体も寝耳に水だった様子で声明には”現在確認中です。詳細がわかり次第お知らせします”と記載されている。明野海浜といえば中学生でデビュー――』


 わたしは途中で読むのをやめて、慌てて明野海浜のツイッターページへと飛んだ。

 どうか嘘であってくれ。

 わたしの願いは虚しく、そこには『ラノベ作家を引退します』という一文が確かにあった。


 美山に電話をかける。

 出ない。

 ラインを送る。

 どれだけ待っても既読にならない。


 なんで、どうして出ないんだ……。

 どういうことだよ……。

 なんで……。



 6


 明野海浜の引退発言騒動から一夜明けた。

 わたしは学校にいて、部室に向かって廊下を歩いていた。

 夏休み中の校舎内はいつもより人の気配が少なく、いつもよりも静かだった。

 

 一晩開けた今、わたしは昨日よりはいくらか冷静になっていた。

 でも胸の中はモヤモヤでいっぱいだった。

 そのせいかイライラとした気持ちになっている。


 美山はいったいなにを考えているのだろうか。

 大人気作家の影響力がどれほどあるのか、まさかわからないわけはないだろう。

 だからいくら美山が不真面目であろうと、引退発言は冗談で発したものじゃないはずだ。


 ……なんであんなことを言ったんだ、あいつは。

 あれだけの才能を持っていながら引退?

 信じられない。


 バカだ。

 バカとしか言いようがない。

 それだけの才能をどれだけの人間が欲していると思ってるんだ。


「……クソったれ」


 歩きながら悪態が口から漏れ出てしまう。

 イライラが美山への怒りに変わっていくのを自覚しつつも、それを制御することができなかった。

 だって許せるわけがない。


 どれだけの人間がその才能によって振り落とされていると思ってる。

 筆を折った人間だって多くいるはずだ。

 それをたったの一文で捨てようとするなんて、あまりにも馬鹿げている。


「クソ、クソっ、クソ!」


 ふざけるなと言いたい。

 だからなんとしてでも問い詰めてやる。

 そのために今日はここにきたのだ。


 それは今朝のことだ。

 ようやく美山からラインの返事がきた。

 曰く『今日の部活で説明する』とのことだった。


 それ以上にメッセージはなく、こちらがメッセージを送っても既読すらつかなかった。

 電話も相変わらず繋がらなかった。

 わたしは仕方なく部室まで行くことにしたのだった。


 部室の前にたどり着く。

 扉の向こう側に人の気配がした。

 どうやら美山はもうすでに来ているらしい。


 わたしは部室の扉を乱暴に開け放った。

 部室の中で、美山は椅子に座っていた。

 その口はいつものように棒キャンディを咥えこんでいて、その視線は窓の外へと向けていたようだった。


 わたしが扉を開けてから数瞬あけて、美山はゆっくりとこっちを向いた。

 そして――。


「おはよー、凜香ちゃん」


 まるで昨日しでかしたことなんてなかったかのように、美山の表情はいつも通りに笑顔だった。

 いくら美山であってももう少し殊勝な態度になっているだろうと思っていた。

 それが蓋を開けてみればなにも気にしていない様子を見せられるだなんて、わたしはまったく思ってもみなかった。


 ……本当に、なにを考えているんだ。

 なんでこんな平然としてられるんだ。

 わたしにはまったくわからない。


「あ、ごめんね。ラインも通話も出られなくて。いやね、担当編集とかレーベルの編集部からひっきりなしに連絡くるからさ。スマホの電源切ってたんだよね。あはは、困っちゃうよn――」

「美山。お前、自分がなにをしたのかわかってんのか?」

「ん? ……あー、昨日のことか。すっごいよね、あんな話題騒然になるなんてさ」

「あたりまえだろ。お前、自分が明野海浜だって自覚あんのかよ」

「さあ?」

「さあじゃねえだろ! だいたいなんで辞めるんだよ!」

「……もう書く気がないからだよ。もうさ、どうでもいいんだ。明野海浜も作家って仕事も。だから辞めるんだ」

「どうでもいい……? どうでもいいってなんだよ。……なあ、なんだよそれ。……わたしに対してそれを言うのか、お前が? どうでもいいって?」


 ……ああ、本当にムカつく。

 明野海浜がわたしになにをしたと思ってる。

 お前はわたしに――。


 なのに勝手に辞めていいわけないだろうが。

 そんなこと、許せるかよ。

 ……ふざけんなよ。


「ふざけんじゃねえぞ!」


 わたしは美山に詰め寄って、その胸ぐらを掴み上げていた。

 やっぱりこいつのことは許せないと思った。


「お前は天才なんだよ! たくさんの奴が手にしたくて必死に手を伸ばしても届かない、そんな才能を持ってるんだよ! わかってんのか! それなのに、才能があるくせに作家を辞めるなんて……お前はバカだ! ぐだぐだ言わずに書き続けろよ!」

「嫌だよ。……というかどうして止めるの? 凜香ちゃんに止める理由なんてないじゃん」

「……どういう意味だよ」

「だって凜香ちゃん、明野海浜を殺したいんでしょ?」

「それは……」

「だったらあたしを止める理由、凜香ちゃんにないじゃん。むしろそのほうがいいでしょ? なにもしなくても明野海浜が消えるんだから」


 気がつくと、わたしは美山から手を放していた。

 美山の言葉が胸の奥深くに入り込んだ。

 入り込んだそれはだけど溶けていかない。


 まるで拒絶するかのようで。

 でもそれはおかしいのだ。

 だって美山の言うことは正しいのだから。


 たしかにわたしは明野海浜を殺したい。

 でもそれは現状では難しいことで。

 いつか達成できる保証なんてどこにもなくて。


 ”……本当に、わたしは明野海浜を殺せるのだろうか”


 昨日浮かんできた不安を思い出す。

 もしデビューというスタートラインに立てたとして、明野海浜を殺すというゴールまでの道のりは長く険しい道のりだ。

 その道をわたしは歩き続けられるのか。


 スタートラインに立とうとしている今でさえ、未だに四苦八苦しているというのに。

 でもここで明野海浜が勝手に消えてくれたら、わたしはデビューして作家を続けることだけ考えればいい。

 鬼才と呼ばれる明野海浜を殺すよりも、達成できる可能性はぐっと高まる。


 大嫌いな明野海浜自身もいなくなる。

 それは殺すこととなにが違うのか。

 きっと同じだ。


 なら別にいいじゃないか。

 それなのどうして、モヤモヤとした気持ちが消えないのだろう。

 わたしにはわからなかった。



 7


 部室で美山と話した日の夜。

 時計の秒針がたてる音を耳にしながら、わたしは自室のベッドに仰向けで倒れ込んでいた。

 わたしは考えていた。


 どうしてモヤモヤが消えないのか。

 それを考え続けていた。

 でも答えなんて出なかった。


 頭の中はずっとごちゃごちゃしていて、上手く考えられない。

 どう考えていいのかもわからない。

 ただただ時間が過ぎていく。


 横向きに寝返りをうつと、本棚が目に入った。

 無意識に何かを目で探していることに気がついた。

 わたしは何を探しているんだ?


 答えはすぐに見つかった。

【茜色に染まれ】というタイトルが目に留まっていた。

 明野海浜のデビュー作。


 わたしにはじめてとんでもない悔しさを、絶望をくれたラノベ。

 殺意のきっかけ。

 どうして、わたしはそれを探していたのだろうか。


 答えは見つからない。

 でも身体は動いていた。

 立ち上がって、その本を手に取った。


 気がつくと読んでいた。

 美山愛梨の、明野海浜の暴力的な才能が叩きつけられる。

 当時中学生だったとは思えないほどの才能。


 身体が震えた。

 居ても立っても居られなくなった。


「……書かなきゃ」


 意味のわからない衝動だった。

 でも心がうずいている。

 どうしても書かなきゃいけないと思った。



 8


 中学生の頃のわたしは、きっと自分には才能があると思っていた。

 ただ経験や技術が足りないだけで、努力を積み重ねてそれを手に入れればいいだけだと。

 思えば【本物の才能】というものを知らなかったのだ。


 今はその努力を積み重ねる期間で、まだ焦る必要はないと思っていたのだ。

 だからどんなに面白い小説を読んでも悔しいと思わなかった。

 相手は経験も技術もある。


 対して自分はまだまだ足りない。

 プロで活躍している作家より上手く書けないのは当然。

 逆に言えば経験さえ手に入ればそいつらにだって負けないと思っていた。


 でもそれは自分に対する言い訳にすぎなかった。

 それを明野海浜がぶち壊していった。

 自分と同じ中学生でありながらデビューを果たした天才。

 しかもデビュー作は処女作で、初めてとは思えないクオリティ。


 思えば彼女の本を手に取ったとき、もうすでにわたしの心には亀裂が走っていたのかもしれない。

 明野海浜の小説を読んだとき、今までわたしを守っていた言い訳が粉々にぶち壊されてしまった。

 面白かったのだ。


 今まで読んだどの作品よりも圧倒的に面白かった。

 本物の才能というものを知った。

 それは努力の積み重ねすらも一瞬で凌駕していくものなのだと知った。


 世の中には本当に鬼才と呼ばれるべき人間がいるのだと思い知った。

 経験なんてあっても勝てない相手がいる。

 そんな奴に自分を守っていたメッキを剥がされた。


 自分には才能がある?

 経験や技術が足りないだけ?

 それを努力を積み重ねて手に入れればいいだけ?

 悔しいと思わなかった?


 本当にそう思っていたのか?

 ……違う。

 そんなものはただ自分に言い聞かせていただけだ。


 現実から目をそらして、塗り固めていたメッキでしかない。

 自分の心を守るための。

 自分自身の弱い部分を覆い隠すための金メッキ。


 本当は自分に才能があるか不安だった。

 世の中の、面白い物語を書く奴らになんて勝てないんじゃないかと。

 そんな不安を覆い隠すように、わたしは自分にメッキを貼り付けた。


 自分にはちゃんと才能がある。

 プロより上手く書けないのは経験が足りてないだけ。

 そうやって自分の中の不安を隠していたのだ。


 そんなメッキを明野海浜はいとも簡単に引き剥がしていったのだ。

 それを自覚したとき、もういいんじゃないかと思った。


 本物の才能を持っている人間がいる。

 誰がどう見てもわたしとそいつは圧倒的に離れた場所に立っている。

 その差を埋めるビジョンは浮かばなかった。


 だったらもうわたしは書く必要がない。

 自然にそう思ったとき、心の中でビシリという音がした。

 それは心がへし折れた音。


 だけどまだかろうじて繋がっていたのだろう。

 その部分がわたしを我に返させた。

 そして恐怖した。


 大切な夢だったはずだった。

 それを自分で捨てようとした事実が、わたしを恐怖させたのだ。

 自覚した瞬間、ふつふつと怒りがこみ上げてきた。


 その怒りは憎しみへと変わっていった。

 わたしが欲しいものをすべて持っているくせに、わたしの大切な夢まで奪おうというのか。

 その憎しみがわたしの心を支配していき、やがて殺意が芽吹いた。


 きっとそれは逆恨みなのだろう。

 でも逆恨みだろうとその殺意は必要だった。

 へし折れた心を再び繋ぐ強い感情がなければ立つことなんてできなかった。


 憧れじゃだめだ。

 悔しさだけじゃ足りない。

 殺意こそが立ち上がるための燃料たり得る。


 だからわたしは決めたのだ。

 いつか絶対に明野海浜を殺してやる、と。



 9


「……わたしは明野海浜を殺さなきゃいけないんだ」


 書きながらつぶやく。


 わたしは明野海浜が大嫌いだ。

 わたしに足りないものをすべて持っているから。


 わたしは明野海浜を殺したい。

 わたしの大切な夢を奪おうとしたから。


 わたしは明野海浜に死んでほしくない。

 わたしの手で殺さなくちゃ意味がないから。


 そのためにわたしは明野海浜の作品を繰り返し読んできた。

 明野海浜だけを見てきた。

 ずっと、ずっと見てきた。


 だから今殺意を失うわけにはいかない。

 明野海浜が勝手に死んでしまったら、この殺意は叶えられることなく消えてしまう。

 そうしたらわたしの心は今度こそ折れてしまう。


 だからこの手で殺すのだ。

 でもただ殺すだけじゃだめだ。

 成長し続ける明野海浜を殺したときにこそ、わたしの殺意は叶うのだから。


 明野海浜は死なせない。

 明野海浜に書かせ続ける。

 わたしの殺意を叶えるために。


 ……そうか。

 書きながら気がついた。

 これは明野海浜に伝えるために書いているのだ、と。



 10


 数日後の部室。

 わたしは部室の扉を開けた。

 美山はすでに来ていた。


「おはよー、凜香ちゃん」


 美山は相変わらず普段通りだった。

 やっぱりその態度が気に食わない。


「美山……いや、明野海浜に話がある」


 そういうと、途端に美山は不機嫌そうな顔になった。


「そっちの名前で呼ぶってことはさ、……もしかして昨日の話? 凜香ちゃんにとっても悪い話じゃないっていうことになったでしょ。もっと楽しい話しようよ」

「嫌だ」

「なんで」

「わたしは明野海浜にいてもらわなきゃ困るんだよ」

「……そんなの、無理だよ。だってあたしは作家を辞めるべきなんだから」

「なんでだよ」

「あたしには向いてないからだよ」

「なに言ってやがる」


 美山が作家に向いていないならわたしはどうなる。

 向いていないどころじゃない。


「お前が向いてないわけ――」

「あたしは臆病なんだ」


 わたしの言葉を遮って、美山は言葉を続ける。


「デビューしたばっかりのころは嬉しかった。みんながあたしの作品を褒めてくれて、面白いって言ってくれて。本当に嬉しかった」


 彼女の顔に嬉しさなん見当たらない。

 彼女の中ではもうすでに遠い過去になってしまっていて、他人のことでも思い出しているかのようだった。

 懐かしんで淡い笑みを浮かべることもしないし、できないのかもしれない。


「あのとき……。【おれない】の三巻が発売されたとき、あたしはいつものようにSNSでエゴサしてた。いつもみたいにみんなが褒めてくれてた。でもそこで気がついた。、褒めてたんだ」

「……みんな」

「否定的な感想をだれも書いてないんだよ。それに気がついたら心がざわついた。不安に思っちゃったんだよ。あたしは慌てて感想をネットで探しまくった。ブログ、個人サイト、読書感想の投稿サイト、レビュー動画、通販サイトのレビュー欄、ネット掲示板。調べられるものを片っ端から全部。でも低評価なんて見つからなかった。たった一つも。アンチすらいなかった」


 それは異様なことだ。

 どんな作品にも否定的な感想はある。

 どれだけ世間的に評価の高い、所謂国民的なんて呼ばれるような作品でも。


 世界中で愛されていると言われる某アニメ会社の作品にも。

 アカデミー賞を受賞した作品にも。

 一定の低評価はつくものだ。


 それがまったく見当たらないのはありえない。

 世間や世界に比べれば小さいラノベ界隈とはいえ、それでもありえないことだった。

 今まで、は。

 だからこそ、明野海浜は鬼才と呼ばれた。


「あたしは急に怖くなった。みんながみんな褒めるからじゃない。もし失敗したとき。みんなの期待に応えられなかったとき。一気に反転するんじゃないかって。思った。こんなにも持ち上げられてるなら、反転したらありえないところまで落とされる気がした。何万何十万の人たちの手で、地獄に突き落とされると思ったら。……あたしはそれが怖かった」


 わたしにはわからないことだった。

 明野海浜のように脚光を浴びたこともない。

 大勢に面白いと称賛されたこともない。


 それどころか賞に応募しても芳しい結果が出ない。

 きっと才能なんてない。

 明野海浜の足元にも及ばない。

 

 わたしはまだ底辺物書きでしかない。

 目の前の彼女の気持ちなんてわからない。

 わかる日が来るのかさえ、わたしにはわからない。

 彼女の恐怖をわかってあげることはどうしたってできない。


「それであたしは書けなくなった。書きたい気持ちはあったけど、恐怖を乗り越えられなかった。……臆病、だよね。そんなことで書けなくなるなんてさ。……あたしは臆病で弱い」

 

 美山は自嘲気味に笑った。


「あたしさ、思うんだ。そんな臆病な人間は作家になんて向いてないんじゃないかって。作家は他人の評価に左右されない、強いメンタルが必要なんだって、そう思うんだよね」

 

 だからね、と美山は続けて。


「あたしは明野海浜を辞めることにしたんだ」


 うるせえな、と思った。

 美山はわたしにはわからない恐怖を抱えていた。

 書けなくなるほど怖かったのだろう。


 それはよくわかった。

 でもだからなんだ。

 それでもわたしは書いてほしいんだ。


「臆病? 知るかそんなこと!」


 明野海浜を辞める?

 そんなこと許せるわけがない。

 明野海浜の才能もセンスも捨てるなんて、他の誰が許してもわたしが許さない。


「そんなことって、あたしにとっては――」

「他の読者なんて見るな!」

「……え?」

「わたしだけを見ろ!」

「なにを言って」

「わたしだけを見て、わたしのためだけに明野海浜で居続けろ!」

「どうして? 明野海浜を殺したいんじゃなかったの?」

「だからだよ! 言っただろ、明野海浜にいてもらわなきゃ困るって!」

「……どういうこと?」

「初めて明野海浜の作品を読んだときわたしは心が折れそうになった。でも殺意なんて醜い感情で補強してでも立った。夢を諦めたくなかった。小説を書くのをやめたくなかったから。わたしはもう小説から離れられないんだ。だったらもう書くしかない。書かずにはいられない。きっとお前を、明野海浜をこの手で殺さない限り止まれないんだよ。もう進むしかないんだよっ。わたしにはこれしかないから。だから、明野海浜にはいてもらわないと困るんだよ! だから勝手に死ぬのは許さねえ!」

「……意味わかんないよ。凛香ちゃんが何言ってるのかわかんないよ」

「これを読め! ここに全部つめこんだ!」


 わたしはスクールバッグから、印刷した紙の束を引っ張り出した。

 それを美山の胸に叩き付ける。


「こ、れは……?」

「わたしの小説だ!」


 口で伝える言葉はひどく曖昧なものだ。

 だってそれは簡単に嘘になる。

 自分の言葉すら嘘になっている気がしてならない。


 本当は嫌いという言葉だけでは片付かない感情を抱えているくせに、簡単に嫌いという言葉を口にしてしまうのだから。

 だから伝えたいことが伝わっているのか不安になる。


 もしかしたら相手には届かないかもしれないと疑ってしまう。

 今だって上手く伝わっていない。

 不安はいつだってそばにいる。


 自分自身の言葉すら信じられない。

 わたしはそれを信じることがどうしてもできない。

 でもわたしは文字だけは、文章だけは信じている。


 物書きだから信じられる。

 そして美山愛梨も――明野海浜も物書きだ。

 だからきっと伝わるはずだ。


 美山に――明野海浜にわたしの想いを伝えるために。

 わたしは小説という術を使った。

 小説という形にすべてをつめこんだ。


「……頼む、読んでくれ。お前に読んでほしいんだ」

「どうして」

「読めばわかるはずだ」

「……」


 美山が紙の束を掴む。

 その手付きは緩慢で、なにかを恐れているようにも見えた。

 わたしはそっと美山から離れた。

 

 わたしの小説をじっと見つめる彼女を、わたしもまたただ黙って見つめる。

 やがて静寂の中で、美山はただ「わかった」とだけ口にして。

 わたしの小説を読み始めた。



 11


「読んだよ」


 どれくらいの時間が流れただろう。

 空がオレンジ色になり始めたころ、美山は静かにそう言った。

 窓際で外を眺めていたわたしは、椅子に座る彼女を振り返る。


 どうだった?

 なんてことは聞かない。

 伝わっているのなら、きっと美山から言葉を口にすると、わかっていたから。


「……凛香ちゃんはさ、本当に自分勝手だね」

「言っただろ。わかってるって」

「あたしの気持ちなんて何もわかってないね」

「わかるわけがない」

「凛香ちゃんのために明野海浜であってほしいなんて、自分のことしか考えてないセリフだよね」

「そうだな、その通りだ」

「明野海浜がそんなに大切?」

「ああ。明野海浜がいないと海原リンカじゃいられない」

「……そっか」

 

 美山はそっとわたしの小説を撫でた。


「明野海浜がいるってだけでまた歩き出せるんだね。……すごいな」

「お前も海原リンカだけ見てくれ。大勢の読者のために書けないならわたしのために書いてくれ」

「じゃあこれからもあたしだけを――明野海浜だけを見てくれる?」

「ああ、目を離してやるもんか」

「そっか……」


 美山はそこで笑った。


「……ねえ、凜香ちゃん」

「なんだ?」

「いつか絶対、明野海浜あたしを殺してね」

「ああ、絶対に殺してやる」



 fin.

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天才ラノベ作家のクソガキみたいな女をわたしは殺したい。 水無月ナツキ @kamizyo7

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