アプロディーテの大殺界

佐藤ののり

第1話

「ねぇ、あれを見て。おかしくない?」

「どうされたのですか?」

「ロエリューイ山脈にかかる雲が動いていない。」

帝都ミダス方面からサリモア地方に陸路で行くにはロエリューイ山脈を超えるか鉄道で大きく迂回しなくてはならない。ロエリューイ山脈はどこを掘っても必ず破砕帯はさいたいがあり、トンネルを掘るのはリスクとコストの割に効果が少ないため陳情ちんじょうも上がってこない。今回の公務でサリモアに行くにあたって当初は飛行機で訪問する予定だったが、予定外のトラブル対応のためにレオンハルト殿下のスケジュールの都合でヘリコプターで向かうことになった。それがロエリューイ山脈山頂付近の風が昨日から明日にかけて強く吹いており、墜落の危険があるということで急遽陸路で向かうことが今朝決まった。鉄道、車(乗用車とトラック)、馬車(山登り)、馬(山越え)という順で乗り換えるという無茶苦茶な工程が組まれることになった。

ロエリューイ山脈を越えるのは空路が一般的で、東の海から吹き込む風で削れた山は斜度がきつく車が通れる道など無い。山麓までも整備された道が無くガススタンドも無いため念のため馬車を使うとのこと。

馬車なんて歴史ドラマか観光地でしかお目にかからない乗り物だ。普段なら馬車体験も楽しめるのだろうが、今のような不測の事態が、敵の手の内にいることを示していて心穏やかにいられない。


山頂付近に風がないので天気予報が外れた、なんてことはないはず。もともと侯爵のシナリオ通りなのだろう。どのような策を練るかは不明だったものの、こちらもある程度覚悟して罠にはまりにきたので不安はあっても絶望に陥るようなことは無い。

思索を巡らせるよりもダメ元だけど、今からヘリコプターを用意できないか急いで確認したほうが良い。私たち一行が休憩しているレストランに戻ろうとドアノブに手をかけて外に出ようとして開かないことに気付く。

「外からロックされています・・・」

ガタンという振動と共に予告もなく車体が動き出した。動き出してしまった以上、今度は外部から侵入されないように内側からかけられる電子ロックとアナログの鍵を両方かける。

「敵はこう来たか。手の込んだ罠だな。」

「問題は罠の先にある目的がまだ明確にならないことですね。」

今回の狙いは私のようだけれど、私をさらってその後はどうするつもりだったのだろう。


小娘一人を攫うためにしては手の込んだ罠だ。

両陛下不在中にピロットノブ子爵領の工業地帯で労働者のストライキが決裂し、一部が暴徒化して対応が必要だったこと。

その対応に追われて移動手段が飛行機からヘリコプターになったこと。

急な外交対応で皇太子の側近が人手不足になったこと。

その人手不足により、大捕り物を前に保護対象だった私が殿下に同行せざるをえなくなったこと。

急に天気予報が変わったこと。(天気予報は実際には変わっていなかったわけだけど。)

一つ一つは起こり得るトラブルだが、このように立て続けに起これば意図的に仕組まれたと思わざるを得ない。

今更こんなことを言っても仕方ないが、殿下は傍で泳がせていた間諜をもっと早く切り捨てておいたほうが良かったのではないだろうか。

「侯爵だけじゃなくて、他にも関わっている者がいるのかもな。」

殿下はもう誰が関与しているのか検討がついているのかな。

気持ちを切り替えて、渡された有事の際の行動マニュアルを見直す。30年近く前のものだけど。

「殿下、緊急時の対応を取ります。」

立ち上がって天井にあるボタンを押す。私が座っていた椅子が浮き、椅子の下が開けられるようになる。

エマージェンシー用の赤い箱を開き絶句する。

「えっ」

「どうしたんだ?」

「中身が・・・空になっています。」

私は狼狽ろうばいしながらも自分を叱咤して昨夜、ベルンハルト陛下と衛星電話で話した内容を思い出す。不測の事態が起きたら隠しボタンを開けるように言われていた。

レオンハルト殿下は唇に指をあてて声を出すなというジェスチャーをしてきた。

私はうなずいてから天井の隠しボタンを2つ長押しするとカチャっと音がして、椅子下収納のさらに下が空いた。

この隠し収納は緊急時のマニュアルには記載されていなく、存在はごく一部の人間しか知らない。

中には2丁の短銃、2口の剣、ロープ、20個程の手錠、ナイフ、医薬品と包帯などの衛生用品そして塩が入っていた。

(滅多に開けない収納箱だから保存食は入っていないのね。人は水だけで1週間生きられるらしいけど、水と塩があると1ヶ月ほど生きられるんだっけ。)


衛星電話を確認し、レオンハルト殿下は目を閉じた。そして、レオンハルト殿下は紙に短く指示を書いて私に見せてきた。私は声を出さずに頷く。

”盗聴されているかも”と紙には書いてあった。

「クソッ。衛星電話が使えない。」

衛星電話はほんの短い隙を突かれてバッテリーを抜かれていた。

「電源が落ちてもGPSは発信する設計になっているが、それはバッテリー残量を5%残してシャットダウンする仕組みになっているからだ。バッテリーを抜かれているとGPSで場所を検知してもらうことはできない。」

「さきほど、チェスター家の情報室のスタッフに盗聴器等の有無を調べてもらいましたが、通信具のたぐいが仕込まれているということはないのでしょうか。盗聴器とは周波数が違いますよね?」

私たちの動向を調べるのであれば、オンラインで会話が確認できないと意味がない。

「オンタイムで俺たちの会話を聞くなら必ず通信している。人工衛星は必ず政府の監視が入っているし、俺たちが行方不明になったら捜索のためにこの地域で使われている回線を調べて俺たちの場所は特定されるだろうな。」

「しかし、他国の人工衛星を使用している可能性もあるのでは?」

「ここの通信を拾える人工衛星はパリシナの静止衛星のみだから、情報開示の同盟に基づいてトラッキングしてもらえる。」

私たちの会話を聞かれているか否かは不明だ。しかし、もし会話を聞かれているのであれば今の一連のやり取りを聞いて、相手は音声の通信を切るはずだ。諸々、策士に判断を仰いで決定するまで30分から長くて1時間といったところだろうか。


レオンハルト殿下は腰に帯剣し、私は銃弾を確認した。しばらくたって、腕時計を確認してからレオンハルトは口を開いた。

「剣を振った経験はあるか?」

「ありません。」

「じゃあ、ロープと手錠を出して隠し収納を閉めろ。止まるまでは何もしてこないと思うから、難しいとは思うが座ってなるべく緊張を解して。」

「はい」

レオンハルト殿下が冷静に振る舞ってくれたおかげで私も落ち着いてきた。

「あ、そうだ。お父様が持たせてくれた衛星電話!」

「え?何それ?無断持ち込みしてたの?」

しまった!申請しないで持ち込んでいたんだった。ポシェットの中をまさぐった。

「あった!・・・充電が切れてる・・・」

「・・・」

持ち慣れていないんだもの・・・。いや、言い訳は良くない。使用人任せにせずに自分のことは自分でやらないといけない。


30分ほど走ってから停車する。

ドアに近づいてきた人物を見て思わず声をあげた。

「あの人!?」

想定外の襲撃者に驚く。防音になっているので私の声は向こうには届いていない。

いつも見ていた穏やかな表情は見る影もなく、彼は斧を振り上げてニヤけながらドアを破壊しようと打ち付ける。

現皇帝が結婚のお披露目用にお金を貯めて私費で購入した馬車の車体は強化防弾ガラスでできており、さらにスケルトンとスモークを切り替えることができる。今はスモークになっていて外から中は見えないが中から外は見えている。

レオンハルト殿下は襲撃者の人数を確認している。

「1人しか見当たらないな。こんな誘拐の実行犯を素人の男1人のはずがないんだけどな。」

何はともあれ彼を制圧して追撃に備えるしかない。そのためには彼に使う銃弾を最小限で仕留める必要がある。

斧を振り下ろすも、防弾ガラスにひびが入ってもなかなか穴が空かず、彼は苛立ち始めたようだ。


「防弾とはいえ何度も強い衝撃を受ければ穴が開く。穴が空いたら内側のロックを外しに手を入れてくるだろうからそのタイミングで打つ。ヒビが入ってから3、4回の衝撃で手が入るほどの穴が開くはずだからそこまでは猶予がある。まずは銃の安全レバーを引いて俺の合図で構えて。」

「わかりました。」

「相手はライフルや剣は持っていないが、短銃の有無は不明だから警告しても襲い掛かってくるならば発砲する。俺があの男の利き手を狙い、次に足を撃つ。リリーシアはあいつの仲間が追撃してくるか確認してくれ。できるか?」

できるもできないも無い。

「やります!」


今の状況は相当ツイてないが不幸中の幸いだったのは、新卒の公務員を対象とした緊急時の訓練を受けたばかりで、暴徒の対応を学んだばかりだったことだ。

ガンッと音がしてガラスに小さな窪みができてヒビが入る。

「構えろ」

亀裂が入ってから斧が4度目に振り下ろされた時、ガラスのドアに穴が空いた。銃を構えた私とレオンハルト殿下は将来を嘱望しょくぼうされていた彼と対峙した。


0.1秒くらいのほんの一瞬、ふと思いだした。

キャッチセールスに遭ったあの時、占いの館で水晶を買って厄払いをしていればこんな目に遭わなかったのかもしれない。

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