第36話

「―――な、何かゴメンね蓮人くん。……顔、大丈夫? 眼鏡のフレーム曲がったりしなかった?」

「うん、明るくなってからじゃないとよく分からないけど、多分大丈夫」

「もしおかしなトコあったら後で言ってね? 本っ当にゴメン。あたし……」


 小学生じゃあるまいし、おじいちゃんの影を見てガチ絶叫するとか……ないわー。


 さっきの醜態を思い出して少々ヘコんでいると、そんなあたしを見た蓮人くんが気を取り直すように言った。


「懐中電灯がひとつあるだけでもだいぶ違うね。岩本さんも落ち着いたみたいだし」

「うん……。こんな小さな灯りなのに、心強く感じるから不思議だよね。雷もちょっと遠ざかったみたい」


 まだピカピカゴロゴロはしているけれど、さっきに比べたらだいぶ音は小さくなってきた。


 雨も少し弱まってきたみたいで、窓を叩くような激しさはなくなり、暗闇にも目が慣れてきたあたしは、蓮人くんにタックルまがいのアタックをかましてしまった辺りからの一連の出来事を思い返して、全身を沸騰させながら、心の中で頭を抱え込んだ。


 ―――あたしっ……今思うとめちゃくちゃ抱きついていたよね!?


 以前胸を貸してもらった時の比じゃなくて、かなりしっかり、がっしり、自分からしがみついていた。


 でもって、蓮人くんもそんなあたしの背中に優しく手を回してくれていた。


 だから―――だから、今も蓮人くんの感触が身体のあちこちに残っている。


 あたしはカーッと頬を紅潮させながら、自分の腕を抱くようにしてその余韻を抱きしめた。


 あったかくて、骨組みががっしりした、あたしとは全く違う硬い質感。


 男の人の身体の質感。


 ―――あいつさ、意外と着やせしてると思わねぇ?


 いつかのノラオの言葉が耳に甦ってきてしまって、ただでさえ落ち着かないあたしの動悸を、ますます落ち着きのないものにさせていく。


 ―――見た目文化部っぽいのに、けっこう引き締まったカラダしてるっつーかさ……。


 当たり前だけど、今日はシャンプーも石鹸もおじいちゃんちのものを使っているから、蓮人くんからはあたしと同じおじいちゃんちのお風呂の匂いがした。けれど、それとは違う蓮人くん自身の香りがあって、しがみついている時にふと感じたその香りに、どこか安心感みたいなものを覚えている自分がいた。


 今になってそれを思い出してしまったら、きゅうっ、と胸が苦しくなって、止まらなくなって、あたしは思わず浴衣の上から手でそこを押さえた。


 ―――ヤバ。何か、スッゴいぎゅうってする。ほっぺた熱くて、落ち着かない……。


 その時だった。


 ぐんっ、と唐突に意識を引っ張られて、まったくの無防備だったあたしは、気付いた時にはあっという間に深層意識の底に追いやられてしまっていた。


 ―――ノラ……!? 目が覚めたの!?


 驚いて目を見開くあたしの意思に頷き返すような気配が伝わってきて、目の前の窓みたいなところから徐々にアップになっていく蓮人くんの顔が見えた。


 ―――ノラオ!? 何―――。


 いぶかしむあたしの前で、立ち膝になったノラオに至近距離から顔を覗き込まれるような格好になった蓮人くんが、怪訝けげんそうにあたしの名前を呼んだ。


「……岩本さん?」

「……。改めて見ると、浴衣、良く似合ってるなぁと思って」


 どういうつもりなのか、あくまで陽葵あたしを装って話しかけるノラオに、蓮人くんは少し面映おもはゆそうに小首を傾げた。


「え? そう、かな? ありがとう」

「ふふ。蓮人くん、スゴくセクシー。……何でだろうね、浴衣姿って色っぽく感じるよね」

「えっ?」


 瞬いて、思わずそう聞き返す蓮人くんに微笑みながらにじり寄るノラオは、戸惑う彼のことなどお構いなしに、座っているその膝の上にまたがってしまった。


 ―――ぎゃあ!? ちょっ、あんたっ、何すんの―――ッッッ!?


「!? 岩本さ―――」


 驚きの声を上げかけた蓮人くんは、一拍置いて何かを悟ったような顔になると、自分の頬にピタリと添えられたノラオの手首を掴み、確信を込めてこう言った。


「―――ノラオだな」

「当ったり~」


 途端におちゃらけた口調になったノラオは、あっさりとそれを認めて彼から手を離した。


 その時、停電の影響で消えていた室内のスタンドライトが点滅したかと思うと、次の瞬間一斉に点灯して、カーテン越しにも全ての明りが街に戻ったのが分かった。


「お、停電が解消されたみてーだな」


 呟いて周りを見渡すノラオの視界下で、真っ赤になった蓮人くんが眼鏡を押さえて不自然に顔をそむける光景が映り、嫌な予感を覚えた直後、立ち膝で蓮人くんの足をまたいでるノラオの浴衣が着崩れて、下前の部分がはだけている様子が「窓」に映り、そこからしっかり自分の太腿がはみ出てしまっているのを確認したあたしは、思わず悲鳴を上げた。


 きゃああぁぁぁ!


「あ」


 あ、じゃなーいッ! ノラオのアホーッ!


 このはだけ方、蓮人くんの位置からはもしかしたらチラッとパンツが見えてしまっているかもしれない。


 ―――バカ―ッ! 何してくれてんの!? 今は自前のパンツじゃなくて、おばあちゃんから借りた未使用品のパンツをはかせてもらっている状態なのにぃぃぃ!


 決して、決して蓮人くんに見せていいパンツじゃないのに―――っっ!


 ノラオのアホ! 早くどいて浴衣を直して―――っっ!


「いや、まさかこんなタイミングで停電が復旧するとか思わねーじゃん? わりわりぃ」


 てへっ、てなくらいの詫び方で、こっちのダメージなんてどこ吹く風のお気楽口調で浴衣を直したノラオは、赤くなって顔を逸らしたままの蓮人くんに少し悪い顔で尋ねた。


「見えちゃった? レント」

「聞くなよ!」

「お、珍しい口調ー。あのな、あれ、タケの嫁さんのパンツなんだって。決してヒマリの趣味じゃねーらしいから」

「その情報はいらないし、そういう問題じゃない!」


 うう、蓮人くん、お目汚ししてスミマセン……!


「ははっ、思春期コワー! んじゃーオレ、ちょっくらタケのトコに行ってくっから、その間に煩悩ぼんのう鎮めるついで、怒りの方も鎮めといてー」

「……!」


 真っ赤な顔で口をわななかせる蓮人くんに煽りでしかないコメントを残したノラオは、逃げるが勝ちと言わんばかりに、すたこらさっさとその場を後にしたのだった。


 ゴメ~ン、蓮人くん!

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