逃げるしかないだろう

だるっぱ

譲治 一九七九年十二月

第1話 似顔絵

 クルクルと変化する人の表情を見て、僕は万華鏡みたいだなと思った。

 楽しい気分の時には、なぜ目元が緩み口角が上がるのだろう。

 怒りを感じた時には、なぜ眉間にしわが寄り唇がとんがり始めるのだろう。

 また、そうした表情は絶え間なく変化を繰り返していて、まるで雲の流れのように見える。

 見ていて全然飽きない。

 とっても面白い。


 どんよりと曇った十二月。大阪ミナミの道頓堀に架かる戎橋の上で、行き交う人々を眺めながら、僕はそんなことを考えていた。


 今日は、仕事の面接だ。約束の面接時間まで、まだ余裕がある。仕事は、大学で仲の良かった友達が紹介してくれたのだ。


「俺の代わりに仕事をしないか」


「代わりに?」


 妙な紹介の仕方だ。

 理由を聞くと、急な事情で、友達は職場を辞めることになったそうだ。ただ、その職場は人手が足りていない。「代わりのスタッフを探してくるように」と、職場から厳命されたそうだ。

 大学を卒業したばかりの僕は、定職にも就かずにアルバイトをしていた。忙しい割には、給料が安い。もう少し条件の良い仕事に移りたいと考えていた。だから、友達の話に心が動かされた。

 ただ、この話には少し問題があった。給料面での待遇はかなり良くなる。勤務時間が夜になることは構わなかった。問題は、その職場というのがキャバレーだったのだ。


 ――キャバレー。


 何だかとても怪しい世界に感じた。女を侍らせて、お酒を飲み、乱痴気騒ぎをする。そんなイメージが漠然と浮かんだ。僕の知らない、夜の世界。


 ――僕なんかで務まるだろうか?


 少し自信がない。

 だけど、この話は仲の良かった友達からの紹介だ。それに、僕の懐は、十二月の寒さ以上に寒かった。貯金なんか全然ない。


 ――きっと、これは何かの縁なんだ。


 僕は、そう思うことにした。


 欄干に凭れながら、辺りを見回した。

 しかし、なんという人の多さだろう。川の流れのように、ひっきりなしに人々が押し寄せて来る。十二月だから、忘年会やクリスマスといったイベントが多い時期ということもあるだろう。

 可愛らしい服装に身を包んだ女の子の集団が、楽しそうにおしゃべりをしていた。これからミナミで遊ぶのかな。

 若い男が、女の子に声を掛けている。ナンパだな。断られても断られても、アタックを繰り返している。その根性に感心した。

 旗を持つガイドに連れられて、観光客の御一行様が横切っていた。珍しそうに辺りを見回している。どこから来たのだろう。

 耳をすますと、哀愁漂うフォークソングが聞こえてきた。振り返ると、ギターを弾きながら男が歌っている。寒風の中を、声を絞り出していた。

 その横で、サンタクロースの衣装を着た男が走り回っている。声を張り上げて呼び込みをしていた。


 ――描きたい!


 戎橋には、色んな表情が溢れかえっていた。

 僕は腕時計を見る。面接の時間まで、まだ余裕があった。モデルになってくれそうな人がいないか探してみる。

 欄干に凭れかかている一人の女の子を見つけた。年の頃は十八歳くらいだろうか。薄い茶色のオーバーコートに赤茶色のマフラーがよく似合っていた。


「ねえ、誰かを待っているの?」


 道頓堀のランドマークであるグリコの看板を見上げていた女の子が、振り返る。僕を見て、驚いた表情を浮かべた。


「何か……御用ですか?」


 警戒心が顔に表れている。そんな風に目を細めて、僕を睨むんだ。話しかけながら、僕はその女の子の表情をつぶさに観察する。


「僕の名前は、譲治。ちょっといいかな?」


「……」


 女の子は、口を噤んだまま自分の肩を抱いた。僕は笑顔を見せて、紳士らしくお願いをする。


「君にお願いがあるんだけど」


「なにかしら?」


「絵のモデルになってくれないかな?」


 僕は、両手を合わせて片目を瞑って見せる。女の子は、身体を斜めに向けた。目を動かして、僕の頭から足先までをジロリと眺める。


「新手のナンパなの?」


 女の子の疑いの目が強くなった。


「違うよ。ただ、純粋に君の絵を描きたいだけなんだ。本当だよ」


 まだまだ僕を疑っている。あまり信用されていないようだ。本当なんだけどな……。


「……」


 黙っている女の子に、優しく微笑みかける。


「さっきもナンパされていたよね。君って、すごく可愛いから……」


 僕の言葉に、女の子の表情が和らいだ。眉間からシワが消える。僕はその瞬間を見逃さなかった。


「今の表情、凄く良いよ」


 了承も得ていないのに、カバンの中から、クロッキー帳と鉛筆を取り出した。女の子が、驚いた表情を見せる。クロッキー帳を開いた。女の子が、興味深そうに近寄ってくる。納得してくれたようだ。

 先程とは違って、女の子から警戒心が消えた。それどころか、身体をくねらせてポーズを取っている。

 女の子の表情を観察しながら、僕は手に持っていたクロッキー帳に丸いアタリを描く。


「五分くらいで描けるからね。そのままね、そのまま……」


 女の子の表情を観察しながら、鉛筆を走らせた。慣れたもので、クロッキー帳にその女の子の似顔絵が描き出されていく。

 ところが、高まっていた僕の興奮は、段々と沈んでいた。

 不信感で固まっていた表情が、僕の一言でパッと開きかける。あの雪解けのような表情を描きたかった。

 今の表情は、不自然だ。そんな媚を含んだ笑顔を描きたかったわけじゃない。

 眉間にしわを寄せて、クロッキー帳を見つめる。実に残念だ。

 作り物の笑顔を貼り付けた女の子が、クロッキー帳の中で笑っていた。


「すごーい。お兄さん、上手ね」


 モデルの女の子が、目を輝かせて僕を見つめた。

 好奇心に溢れたその笑顔の方が、僕は好きだ。描きたい衝動が、また、僕の中から沸き上がってくる。


「もう一枚、良いかな?」


 僕は、直ぐにクロッキー帳を捲った。

 女の子の、好奇心に溢れた笑顔を観察する。女の子も、僕を見つめていた。二人の時間が交じり合い、時間がゆっくりと流れる。


 ――面白い!


 まるで格闘技のように、お互いに視線を交わし合った。とても興奮する。鉛筆を握る手に力が入った。


「へー、同じ笑顔なのに、全然違うね。お兄さん、天才じゃない」


 女の子の評価に照れてしまう。

 その時、一人の女の子が不思議そうに近づいてきた。


「真由美。だれよ、その人」


 どうやら、モデルの女の子のお友達が到着したようだ。もう直ぐ面接の時間。モデルを引き受けてくれた女の子に、お辞儀した。


「モデルになってくれてありがとう。お礼にこの一枚を君にあげるよ」


 作り物の笑顔を貼り付けた似顔絵を、キレイに切り取る。その女の子に手渡した。


「ありがとう。とっても上手よ。ねえ、ねえ、お兄さん、これから一緒に遊びに行こうよ」


 僕は、顔を曇らせる。


「ごめん、この後、用事があるんだ。また、機会が会ったら一緒に遊ぼうね」


 その女の子達と別れた。

 用事があるのは本当だ。だけど、実際のところ遊ぶお金なんか僕にはない。

 腕時計を見る。面接の時間まで、まだ三十分もあった。

 店は直ぐそこにある。だけど、今から行くには、ちょっと早すぎた。

 その時、通行人でごった返している戎橋の真ん中で、女性の叫び声が聞こえる。


「だから、行かないって言っているでしょう!」


 振り向くと、一人の女性が、三人の男に囲まれている。

 その女性は、男たちから遊びに誘われていた。その誘いを、きっぱり断る。ところが、男たちは引き下がろうとしなかった。諦めの悪い男たちに囲まれて、その女性は不機嫌になっていた。

 通行人が足を止める。面白がって見物しようとした。しかし、仲間の一人がそんな野次馬を睨みつける。男に凄まれた所為で、みんなその場から逃げていった。


 そうした騒動の中、引き寄せられるようにして、その女性に僕は近づく。近くで見てみたい衝動に駆られていたのだ。

 とても綺麗な女性だった。日本画で描かれているような立ち姿の美しい女性だった。年齢は多分、僕とあまり変わらない。二十台前半くらいだろう。身長は、平均的な女性よりも少し高い。黒くて長い髪の毛は、うなじのあたりでセンス良くまとめられている。派手すぎる赤いコートを自然に着こなしていて、とても感じが良かった。

 中でも、僕の興味を引いたのは、彼女の鋭い目つきだった。氷のように相手を蔑むその目つきに、僕の目が吸い寄せられていく。

 何の迷いもなく、クロッキー帳を開いていた。


 ――もっと近くで見てみたい。


 歩みを進める。

 しかし、近づき過ぎたら、あの男たちに見つかってしまう。

 でも、もっと近くで見てみたい。

 スルリスルリと近づきながら、僕はクロッキー帳に鉛筆を走らせていく。

 集中力が加速を始めた。僕の視界が狭くなっていく。周りの雑踏の音が聞こえなくなった。

 僕は、彼女の冷たい瞳だけを見ている。

 彼女が、男たちの言葉に反応した。

 彼女の右目の涙袋が、少しだけ持ち上がる。

 些細ながらも変化していく怒りの表情に、僕の動機が激しくなる。


 ――もっと怒りの表情を見せて欲しい。


 押さえきれない興奮を胸の中に抱きながら、僕は彼女の似顔絵を描き続けていった。


「兄ちゃん、何してるねん。なあ、兄ちゃん」


 男の声に、僕の集中力が途切れた。

 夢うつつの状態から、現実に帰ってくる。僕は、呆けた表情を男に向けた。


「僕に構わず、どうぞ続けてください」


 男の表情が変わった。

 僕に馬鹿にされたと感じたようだ。僕の前に、足を一歩踏み込んでくる。

 やっと状況を理解した。

 僕は顔を引きつらせる。左足を後ろに引いて、その場から逃げ出そうと身構えた。

 その時、男が僕の肩をドンと押した。

 バランスを崩した僕は、足がもつれて、尻もちを付いてしまう。倒れた拍子に、通行人にぶつかった。


「危ないやろ!」


 怒声を浴びせられた。通行人が去っていく。


「どうしたんや?」


 仲間の男達が振り返った。尻もちを付いている僕を見下ろす。

 彼女も振り返った。睨んでいた目を和らげる。不思議そうに僕を見つめた。


 ――これはやばい!


 焦った。でも、身動きが出来ない。

 その時、彼女の後ろから、大きな声を張り上げて走って来る男がいた。


「お嬢さ〜ん、大丈夫ですか〜」


 彼女が、後ろを振り向く。頭を傾げて、ため息をついた。目を細めて、その男を睨みつける。顎をクイッと上げた。


「この男たちを、とっとと追っ払ってよ」


 駆け寄ると、男は大きく胸を開いた。鋭い目つきで男たちを睥睨する。

 人相の悪い男だった。百八十を優に超える熊のような体躯を左右に振りながら、男たちに近づく。

 黒地に白い縦縞が入った背広を着ていた。ひと目でヤクザ者だと分かる。

 男は、角刈りの頭を少し傾げた。ドスの利いた声で、叫ぶ。


「お前ら、大事なお嬢さんに、何さらしとんじゃ!」


 空気が震えた。三人の男たちが縮み上がる。


「すっ、すみませんでした」


 リーダーの男が、咄嗟に頭を下げた。可哀想なくらいに顔を引きつらせている。

 ヤクザ者は、その男たちを睨みつけながら、指の関節をポキポキと鳴らした。


「すみませんで、済むわけがないやろが。この落とし前、どない付けるつもりや」


 立ちすくんだ男たちは、返事が出来なかった。俯いたまま怯えている。黙っている男達に、ヤクザ者が痺れを切らした。恫喝する。


「コラッ! 黙っていたら分からんやろうが。お前ら、これから……」


 ヤクザ者が、更に何かを言おうとした時、お嬢さんがヤクザ者の肩を掴んだ。


「木崎、そこまででいいよ」


「ですが……」


 お嬢さんが、三人の男たちを睨みつける。


「あんたら、さっさといね! このままだと、コイツに殺されるよ」


 リーダーの男が、素早くお辞儀する。脱兎のごとく逃げ出した。残りの男たちも、慌ててその後を追いかけていった。


 座り込んでいた僕は、そんな様子を見守っていた。お嬢さんが訝しそうに僕を見下ろす。木崎と呼ばれたヤクザ者も僕を睨みつけた。


「こいつも、そうですか」


 凄みを効かせながら、ヤクザ者がお嬢さんに問い掛ける。


「いや、こいつは、なんだろうね、よく分からない。さっきの男たちに突き飛ばされていたのは確かだけど……」


 慌てて立ち上がった。二人に向かって、僕は頭を下げた。


「す、すみません。あんまり綺麗なので、貴女の絵を描いていました」


 木崎というヤクザ者が、僕の言葉に目を剥く。

 ところが、お嬢さんは違った。木崎の肩を掴み、寄り掛かる。体をくの字に折って、小刻みに体を震わせ始めたのだ。

 お嬢さんの異変に、木崎が動揺する。ガバッと振り返った。


「大丈夫ですか、お嬢さん」


 慌てている木崎を見て、お嬢さんが息を止める。人が行き交う戎橋の真ん中で、お腹を抱えて笑い出した。


「アッハッハッハッ! こんな馬鹿、初めて。これからケンカになろうかって時に、絵を描いてましたって……」


 彼女の、氷のような瞳が解けた。笑いながら、涙まで流している。そんな彼女に、僕は、また魅入られてしまう。


 ――顔を歪ませた、その馬鹿笑いを描きたい。


 僕の中から、強い衝動が沸き上がる。抑えることが出来なかった。

 手に持っていたクロッキー帳を広げる。僕は、お嬢さんを見つめた。

 鉛筆を走らせようとした時、彼女が手をかざした。僕の動きを止める。笑いをやめて、僕を睨んだ。


「それ以上やったら、笑えない。もうやめて」


 彼女の強い語気に怯んだ。クロッキー帳を閉じる。


「す、すみません」


 頭を下げて謝った。彼女が笑う。


「だけど、あんた面白い。あんた……絵描きさん?」


 その質問に、僕は本来の目的を思い出した。慌ててしまう。


「い、いえ、絵は僕の趣味です。実は、今からキャバレーの面接に行くところなんです」


 腕時計を見た。あと五分前しかない。彼女が驚いた表情を見せた。


「なんて、キャバレー?」


「ジュエリーボックスです」


 彼女が、面白そうに笑った。


「へー、そうなんだ。じゃ、一緒に行こうよ。私も向かう所だから」


 彼女は、僕の手を掴み引っ張った。歩き始める。そんな彼女に向かって、ヤクザ者の木崎が走り寄った。


「お嬢さん」


 彼女が振り返る。目を細めて、木崎を睨みつけた。


「今日は、助けてくれてありがとう。でも、私は子供じゃないの。さようなら」


 飼い主に見放された犬のように、ヤクザ者の木崎が情けない表情を浮かべた。

 彼女は、そんな木崎を放っておいて、スタスタと歩き出す。僕もお嬢さんに歩調を合わせた。


「木崎さんは、もういいのですか?」


「いいのよ。頼んでもいないのに、私のお目付けをするの。それよりも、行くわよ。アンタ、面接なんでしょう」


 目的のキャバレーは直ぐそこだった。小汚いビルの一階にあるその店は、目立つことを優先した派手な装飾が、かなり下品だと思った。夜になれば、また違うのかもしれないが……。

 看板には「ジュエリーボックス」と書かれてあった。

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