日常の列車

きむこ(人間)

第1話

 起床、朝食、身支度、登校。毎日変わらない日常。それは何も刺激が無いと感じさせる一方で、世界で起きている戦争とか飢饉とか事件とかから切り離され、身の回りで大きな変化が無い平凡という幸せを享受しているのだと実感されるもの。

 彼は日常に逆らおうとはせず、改札を抜けてホームに向かう。


 ――ブッ


 だが、過去に戦争や災害が予兆もなく避けられず突然起こるのと同じように、高度情報化された現代においても、非日常は日常に逆らってやってくる。

『今日、転校生が来るんだって!どんな子なのかめっちゃ気になる〜!!』

 受け取ったのは、可愛らしいスタンプが添えられた一文であった。だが、そのうちの一言は学生にとって大きな非日常の始まりを告げる言葉だった。

 転校生か、たしかに楽しみだな、などと考えながら車両に乗り込んだせいか、はたまた画面に表示されたスタンプに注意を向けられていたのか、トン、と軽い音を立てて、彼は降りる人とぶつかり、ホームに戻された。本来は降りる人が優先だと己を恥じた彼は、

「すみませ――」

 謝罪をしようと軽く顔を上げた時、ぶつかってしまった人と目が合った。

 眼鏡の内に見える丸い瞳、レンズ越しでもわかる長いまつげ、ひと目で可愛い女性だと判断できるその目に、誰もが少なからず心を掴まれるだろう。

 彼もその一人だった。とっさに出た謝罪の言葉は空に散り、形を失った。

 乗るはずの車両はドアが閉まっていく。

 目があったときほど気まずいものは無い。お互いが視線を逸らすタイミングを見失った時はなおさらだ。二人は視線を合わせたまま、電車が去る音をゆっくり聞いていた。

 否、ゆっくり聞こえるように感じていた。朝の忙しい時間に、車掌は定刻通り電車を運行できるよう、秒刻みのダイヤを第一に考えるのだ。

 どのくらいの時間が経ったか。1秒か、1分か、彼にとってもっと長い時間だったように感じられるが、現実は一瞬だった。

「君、同じ学校の人だよね?」

 その言葉を皮切りに、お互いの視線がゆっくり解ける。確かに、彼の通う学校と同じ制服を着ていた。気がつけば、女性に見えるが、男子生徒と同じブレザーにスラックスだ。

 だが、可愛らしい目だけでなく、丸みのある輪郭や、長くつややかで手入れが行き届いた黒髪、小さな身長、シルエットは、間違いなく女性のそれであり、目をみはるほどの可愛らしさを決定づけるものだった。

 それゆえ、彼は目の前の存在が同じ次元に存在しているものか、同じ学校に通う人間か判断できず、「同じ学校ですね」という一言を返すことができなかった。

「ああ、動きやすいしかっこいいデザインだからこの制服着てるんだよ。」

「そっ、そうですか、同じ学校ですね。」

 気を利かせてくれたのであろう、彼女が無言の疑問にそう答えると、彼は行き場がなかった言葉をやっと返すことができた。

「さっきはぶつかってしまいすみません。でも、どうしてここで降りたんですか?学校はまだ先の駅ですよ。」

 口は彼の思う言葉を素直に紡ぎ出した。アクシデントが無ければ、自分もさっきの電車に乗って学校という目的地に着いていたのに、という意味も含んでいる。とは言っても見とれていたのは彼自身だが。

「私、今日転校して来たの。だから、サボりたくって。」

「転校初日にサボりたくて降りたんですか?!」

「そう、だって初日からサボるなんて、すごく非日常で魅力的じゃない?日常の列車に乗って、このまま転校生って駅で降りるくらいなら、どこかの駅で、一人で乗ってくる同じ学校の生徒がいたら巻き込んで飛び降りようって思ったの。」

 バカバカしい理由だ。一人で非日常を非日常で塗り替えるばかりでなく、心中相手を探していたなどとは。

 しかし、非日常という言葉に、学生としては確かに強い魅力があった。

 人生で経験できるかできないかわからない、転校というイベント。今までの関係性を無かった事にして、新しい環境へ踏み込んでいく機会。その非日常な経験を、あえてサボってしまうという非日常。彼にとってはそれはとても輝いて、美しく、冒涜的で、羨ましい出来事であるように思えた。

「実はねぇ〜、一人だったら誰でも良かったんだ。二人以上だと誘いにくいし、急に腕掴まれたりしたら怖いでしょ?ぼーっとしてる人で助かったよ。ぶつかりに行っちゃってゴメンね!」

「えぇっ!」

少女は悪びれもせず、ホームがまるで舞台かのように、スラックスに包まれた長い足でステップを踏む。

「だから今日、私の非日常に付き合ってよ!」

 ここから、彼が心の隅で求めても乗ることは無かった非日常の列車は、まるで目的地を乗り過ごしたかのように、あるいは行き先の違う列車に乗ってしまったように、「少し遅れても、戻れば大丈夫」という気持ちを置き去りにして、進み始めた。

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