梓日誌

梓翠

俺たちの心には百合がある?― Āという表象 ―

 梅雨が明けたばかりの頃であったろうか、私と梅村と酒井の3人は後楽園で酒を飲んだ後ふらふらと街を彷徨って、飯田橋にほど近い筑土八幡神社に足を踏み入れた。境内は長い石段を登った高台にあり、山手線内部にしてはかなり眺望が効く。参道の御影石の上には砂利一つなく、地元の人に大切にされていることが伺えた。

 

 参拝も早々に社殿の階へと座り込み、コンビニで買った缶チューハイを開けた。梅村は少しだけ口をつけるとグデっと寝転がってしまった。

 石段の方からコツコツと靴音が近づいてくると、ふっと人影が参道を横切り、こちらを一瞥することもなく裏手の住宅街へ消えていった。大都会の中で私たちの音だけが響いているような感覚になった。貧相な星空がその静寂を際立たせるので、私はここ最近胸の内でくすぶる思いを吐き出さねばならなくなった。

 

「俺、投資銀行があまり好きじゃないんだよね。確かに彼らがいないと市場にお金が回らないという面はあるよ。それでもさあ、サブプライムローン問題を皮切りにリーマンショックへ至った責任の多くは彼らにあるはずだろ?自分たちですら実態をつかめぬデリバティブ取引に邁進していたんだから。さらに、政府から資金援助を受けて救ってもらってもいる。多少は反省して然るべきなんだ。

 それなのに、高い社会的地位を保ったまま、今もバブルの拡大に拍車をかけているように見えるだろ?反省したように見える?だから、あまり好きになれないんだ」

 持つべきではない偏見だと自覚はしてるけど、そう付け加えて私は二人に目を向けた。急な告白にも動じず、先を促す視線だけが交わった。


「加藤がさ、そんな投資系銀行に転職したいと言ってるだろ?俺は上昇志向が強い彼を尊敬しているし、高校時代から今までずっと応援してきた。なんたって親友なんだから。

 でもね、なんというか少し怖くないか?今までと変わらない関係性が続くのかわからない。自身がないんだ。加藤がどこか遠いところに行ってしまう、そんな気がしてね。」

 私はどうしたらよいのだろう。行き場のない言葉は東京の空に溶けて消えていった。ああ、都会の星空は幾重にも積み重なったこうした思いに覆われるから輝きを失っているのだなと、なぜだかそう思った。

 

「なんか、”百合”みたいだなあ。」

 どこか楽し気に体を起こした梅村が深淵から私を引き戻した。

「え、ユリって女の子がイチャイチャするあれのこと?」

異性愛者であり、男である自分の今の話と百合との共通性はどこにあるのかと私は尋ねた。梅村は少し誤解がある言い方だったと断った上で感想を続けた。


「女の子2人がイチャイチャするという表面上のジャンルの話ではないんだ。百合作品において、愛や友情といった表現しがたい感情が2人の人間の間で交わされていることがあのイチャイチャの裏に潜んでいるんだよ。そこに共通性があると思ったんだ。」


 そこから“百合”と文芸表現の話にそれていった梅村の主張は次のようなものだった。文芸の表現において、あえて読み手からの距離が遠く、共通項の少ない人物を登場させることで伝わるものがある。それは、博愛、親子の愛、性愛を含む様々な形の愛や友情、哀愁、勇気といった感情だ。何故この感情を伝えるのに読み手から遠い存在を描く必要があるのか。それは、読み手に近すぎると表現された感情のみに注目することが難しいからだ。

 男として百合作品を読むとき、女性ならば気にしてしまうことがあったとしても、それを無視して百合作品の本質にのみ注目できる。つまり、女の子二人がイチャイチャする行為の表現それ自体ではなく、その裏に存在する感情のやり取りを純粋に受け取ることができる。そこに読み手の需要があって、百合というジャンルが成立している。


 「百合の良さが今まで全くわからなかったんだけど、最近気づいたんだよ。だから誰かに話したかった」

梅村はそう言うと、満足気に頷いた。


「でも、それはお前の感想だろう」

 それまで黙って聞いていた酒井が淡々と述べた。

 そして、百合の読者が男性に限らないこと、女の子同士のイチャイチャが主目的で読んでいる人がいても不思議ではないことなど、梅村の主張に対して反論を重ねていく。その一つ一つはまさに正論だ。しかし、梅村が伝えたかったことを正確に捉えられているかというと必ずしもそうではない。梅村は頭をかくと再反論を始めた。


「それはその通りなんだけど、今の話は百合に限ったものではないんだよ。カンデミーアグミの『静かにたたずむミーアキャットが立ち上がる勇気をくれる』という商品があるけれど、あれでたたずんでいるのがおじさんではダメなんだよ。パチンコ以外することがないようなクソかもしれないとか、余計なことを考えてしまうじゃん。近すぎるんだ、近すぎて元気を与えるという目的が達成できない。

 対して、立ち上がるミーアキャットと聞くと普通の人は天敵から仲間の身を守るために見張りをしているというイメージを抱くだろう。健気さを感じるんだ。だから元気づけられるんだよ。

 もっとも、本当のところは見張り番のミーアキャットも進んでやっているわけではないんだって。群れの中で一番序列が低い個体の役割だっていうんだよ。その背景を知っていると元気づけられる以前に色々考えてしまうでしょ。でもそんな事情は大抵知られていない。だから何かしらの感情を主題にする時には、伝える相手からの距離が遠いということが必要になってくるんだ」


相変わらず変なお菓子に対する造詣が深いなと感心を抱きつつ、少し考えてみる。酒井の疑問に対して完全に反論できているとは言えないかもしれない。それでも、何かであることではなくて、何かではないことに本質がある、という主張はよく伝わった。もはや私の話と何が関係あるのかわからないけれども。

「いや、面白い視点だと俺は思うよ。以前からBL作品の主要購読層が恐らくヘテロセクシャルの女性であることに疑問を持っていたけど、梅村の考えだとある程度説明がつくよね。男生同士の肉体的絡みだけが読者の目的ではなくて、その背後にある2人の関係性および感情のやり取りこそが主題だったということか。俺たちヘテロ男性からすると、純粋に男性2人の間にある感情を見るというのは難しいが、男性から距離のある女性ならば可能である、という訳だね。そうだろ、梅村?」

「そうそう、そういうこと。百合に限らず言えることだよ。ありがとう、アズサ。理解してくれる人がいてよかった」

 満足げに頷くと、再び梅村は社殿の階に腰をかけた。

「それでも、俺は今の主張は梅村の感想にすぎないと思うよ。どんなことを考えても構わない。ただ、人に押し付けるなよ、そう言いたいだけだ」

 酒井の言葉だけを受け取ると、とても冷たい。けれどもそれは氷柱のような鋭利なものでなく、真夏に食べるアイスクリームのように柔和な冷たさだ。長年の信頼関係が伺えるようで私は嬉しかった。


 ただしいくら私たちの仲が良いからといって、これ以上理性的に話を続けられるほどアルコールは甘くない。


「冷たいなあ、別にいいだろう何を思ったって。いいかい、アズサの話には“百合”があった。酒井、それは俺たちも変わらないんだ。俺たちの心には“百合”があるんだ!みんな、誰しも持ち合わせているんだ!」

 ちょっと待て、今までの話はどこ行ったんだ、と二人で突っ込むも後の祭りだった。酔っ払いの主張を正すなど夢でもありえない。ワイワイと発散していく会話に胸のつかえも和らいだ気がした。根本的な解決ではないけれど、今はまだ大丈夫だと。

 軽くなった心に任せて空を仰ぐと、相変わらず鈍い星の瞬きがこの都市を見下ろしていた。

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