第25話 混じり合う

 甘い香りがもっとほしくて殿下の首に腕を巻きつける。そのままゆっくりと口づけるとぶわりと香りが入り込み、ますます興奮した。

 薄暗い寝室の中では、いまが昼なのか夜なのかもわからない。食事を取るどころかベッドから一歩も下りていないから、何日過ぎたのかもわからなかった。


「まったく衰え知らずだな」


 苦笑するような殿下の声に、首に回した両腕にぎゅうっと力を込めた。たしかにずっと抱きついている気はするが、まだ足りない。もう終わりだと言われたくなくて、力いっぱい抱きつく。まるで我が儘を言う子どものようだと思いながら、さらに力を込めて抱きついた。


「こういうランシュも、可愛くていい」

「ん……殿下」


 殿下が首筋にチュッと口づけ、背中を撫でていた指でうなじをスルッと撫でた。それだけで僕のうなじからは殿下を捕らえようとする香りがあふれ出す。それに呼応するように殿下の香りも強くなり、ますます僕の体は香りを放とうと熱くなった。


(僕たちからはきっと、ミルクセーキのような香りが、しているんだろうな)


 ふわふわと漂うような意識のなか、そんなことを思った。

 殿下の濃いミルクの香りより、いまは僕の甘い香りのほうがわずかに強い。その香りを殿下はミルクセーキのようだと表現したが、これはバニラの香りだ。殿下の濃いミルクと僕のバニラが混ざり合って、殿下が言ったような極上のミルクセーキの香りになっていることだろう。


「あぁ、またランシュの香りが強くなった。甘くておいしそうな、わたしのランシュの香りだ」

「んっ」


 耳たぶを少し強く噛まれる痛みでさえ気持ちがいい。こうして抱き合っていると体全体に殿下の熱を感じることができる。背後から抱きしめられるのも好きだが、こうして自ら抱きつくのもいいなと思った。


(そういえば、発情中なのに、意識がはっきりしているな)


 心許ない感覚ではあるものの、こうして何かを考え感じることができる。これも前回までの発情と違う点だ。


(あとで、いろいろ思い出しては、情けなくなりそうだけど)


 そんなことを思っていたら、殿下に耳を噛まれて「あっ!」と高い声を上げてしまった。


「何か、考えごとか?」

「ちが、」

「発情中は、わたしのことだけを考えろ」


 返事をする前に後頭部を掴まれた。殿下がこんな乱暴なことをすることに少し驚きつつ、こういう殿下は僕以外に知らないに違いないと思うとうれしくなる。

 そう思って口元を緩めていると、下から噛みつくように口づけられた。唇を甘噛みされ、驚いて少し口を開くとすぐさま殿下の舌が入ってくる。こういう口づけもあるのだと教えてくれたのは殿下だ。口の中で互いの舌を絡め合わせると気持ちいいということも、殿下との口づけで初めて知った。


「んっ、んぅ、んっ」


 鼻でなんとか息をするものの、濃すぎるミルクの香りで窒息しそうになる。気持ちがよくて苦しくて、すべてが怖くなってきた。それなのに体も気持ちも昂ぶって「もっと、もっと」と催促してしまう。


(僕の全部が、殿下に染まっていくみたいだ)


 同じくらい殿下も僕の香りに包まれている。二人の香りが混じり合い、溶け合い、境界線がわからなくなるような不思議な感覚だった。


(ここは、僕たち二人だけの場所だから、当然だ)


 こうなるために二人だけの場所を作った。そうして殿下の香りに包まれた僕は、ようやく本格的な発情を迎えることができた。

 殿下を香りで捕らえ、僕が作った安心できる場所に誘い込んだ。誰にも邪魔されず、殿下のすべてを僕に捧げさせることもできた。


(いや、いまがまさに、その最中だ)


 殿下の舌に自分の舌を絡めながら、殿下の背中に手を回す。そうして離さないとばかりに爪を立てた。

 どんなにくっついても足りない。発情が終わるまでもっと満たされたい。殿下に満たされた僕の体は、ますます濃い香りを放出するだろう。香りが濃くなればなるほど僕のΩ性は強くなる。僕の香りが濃くなれば、殿下のα性もより強くなり濃い香りを放つ。


(そうだ……互いに高め合うことができるαとΩは……僕たちは、唯一の相手なんだ)


 口づけが終わっても離れたくなかった。これで終わりじゃないと訴えるように、目の前にある殿下の首筋にかぷりと噛みつく。離してなるものかと言うように抱きしめている背中にますます爪を立てた。


「つ……っ。ランシュは、少し凶暴になるな」

「んっ! まだ、まだだ……もっと、もっとだ」

「わかっている。まだ発情は終わらない。その間はずっとこうしていよう。片時も離れず、触れ合っていよう」

「もっと、もっと……」


 濃厚な香りが僕の体に入ってくる。僕の中がこれでもかと言わんばかりに殿下で満たされていく。


「殿下……ノアール殿下……僕だけの、殿下……」

「そうだ。そして、ランシュはわたしだけのものだ」

「ふふ……ははっ、うれしい」

「何があっても絶対に手放したりはしない。誰が割り込もうとしてもだ」

「ん……殿下は、誰にも渡さない、から」

「死ぬまでわたしはランシュのものだ。安心しろ」

「はは……うれしい」


 そうだ、殿下は死ぬまで僕のものだ。僕の香りからは絶対に逃れられない。いや、逃してなるものか。


「そしてランシュも死ぬまでわたしのものだ。何人たりとも割って入ることは許さない」

「んっ、ふ、んぅ、」


 うなじを撫でられて体が震えた。気持ちがよくて肌がぞわぞわする。


「だから、金色の真珠は銀色の犬にくれてやることにした。小賢しい邪魔などさせはしない。それに、忠犬を躾けるためには褒美を与えることも必要だからな」


 金色の……なに? それに、銀色の……駄目だ、気持ちがよくてうまく聞き取れない。それなのに、なぜか一瞬だけ背中がぞわっとしたような気がした。


(そういえば、殿下の雰囲気が、いつもと違う、ような……)


 そう思ったのも一瞬で、すぐに濃い香りに意識が持っていかれてしまった。再び二人だけの世界に溺れた僕は、止まらない発情の熱に浮かされ続けた。




「それにしても、発情とは段々凄まじくなるものなんだな」


 ベッドの上でハーブティーを飲みながらそんなことを考える。今回の発情は七日間続いたと殿下から聞いた。五度目にして最長記録の更新だ。

 発情の間、僕も殿下も一度も寝室から出なかったらしい。ということはつまり、ノアール殿下の執務が七日間滞ったということで、迷惑をかけたのではないかと心配になった。しかしそこはビジュオール王国、αとΩの王族に慣れている周囲が滞りなくあれこれ手配してくれたのだそうだ。

 ちなみに、発情中も水や果物は口にしていたそうだ。今回はある程度意識がはっきりしていたと思っていたが、そのあたりはさっぱり覚えていない。


「まぁ、飲食を一切しなかったのでは体がもたないか」


 そもそも閨というのは体力が必要なのだ。とくにαとΩの閨事は尋常じゃないと今回でよくわかった。あれだけの交わりで水すら飲まないのでは本当に干からびてしまう。


「何度か湯も使ったと聞いたが……駄目だ、まったく覚えていない」


 それに寝具の交換も何度かしたそうだ。そのときベッドの傍らに水や果物も用意されていたらしい。

 僕と殿下が湯を使っている間に侍女たちが手早く完璧にベッドを整え直したそうだが、とんでもなくぐちゃぐちゃな状態を見られてしまったのかと思うと若干恥ずかしくなる。


「いやまぁ、そういうことも彼女たちの仕事ではあるんだろうが……」


 僕が王太子の立場だったら恥ずかしく思うことはなかったのかもしれない。しかしここでの僕は妃という立場だ。受け入れる側だと思うと、ぐちゃぐちゃの原因が僕にあるような気がして……。


「いや、考えるのはやめよう」


 それに、これから何度でもこうした発情を迎えることになるんだ。いちいち恥ずかしがっていては身が持たない。殿下の妃として堂々としていなければ。


「それよりも、今回の発情は全然違っていたな。とんでもなく香りが強かったということは、今度こそ希望が持てるかもしれないということだろうか」


 あんなに強く香りを感じたのは初めてだ。おかげで自分の香りを認識することもできた。


「それにしても、二人の香りが混じり合うとミルクセーキになるなんて、ちょっと可愛らしすぎやしないか?」


 口ではそんなことを言ってしまうが、どうしようもなく口元が緩んでしまう。だって、こんなに早く香りをはっきり感じられるようになるなんて想像していなかったんだ。ようやくちゃんとしたΩになれたような気がして気分がいい。


「そういえば、発情中はずっと高揚した感じだった」


 興奮していただろうから当然といえば当然だが、どちらかというと大きな絵画を仕上げたときの感覚に近かった。ようやくすべてがはっきりしたような、そんなすっきりした感じもする。


「それに、やけに強気になっていたような……」


 傲慢とまでは言わないが、殿下に対してやけに強気だった気がする。覚えている範囲ではあるものの、投げかける言葉も強めだった。それに、何か大事なことがいろいろわかったような気もする。それが何だったのか何一つ思い出せないのが残念だ。ああいうのも発情の影響だとしたら、普段の自分と少し違っているせいか思い出すたびに変な気持ちになる。

 同じくらい殿下も普段と違っていた。いつもは穏やかで理知的で理想的な王太子といった雰囲気だが、発情中はなんというか……。


「野性的というか、やや高圧的というか」


 まるで絶対君主のような雰囲気だった。それもところどころしか覚えていないが、いつもより少し強引な仕草はむしろαらしくて胸がときめいたというか……。


「やはり、ビジュオールの夏は暑いな」


 体がカッとして顔が熱くなったのは、暑い夏の名残のせいだ。思わず手でパタパタと扇ぎながら窓の外を見る。

 晴れ渡った空はどこまでも青く、僕の薄い碧眼よりずっと鮮やかだ。海の深い色とは違う澄んだ空の青さは、僕が好きな色の一つでもある。とくに初めて見るビジュオール王国の夏空はキラキラと眩しく、不意に「まるでペイルル殿の瞳のようだな」と思った。


「……そういえば、閨の間にペイルル殿のことを何か話していたような」


 いや、殿下は「金色の」と言っただけでペイルル殿とは言っていなかったか。しかし、銀色の何かに与えるというようなことを話していたような気もする。

 あのとき、なぜか一瞬だけ寒さを感じた。あれが何だったのか、発情が終わって二日経つがいまだによくわからない。


「まぁ、いいか」


 気がつけば、僕の中にペイルル殿への嫉妬心は欠片も残っていなかった。殿下と濃密な発情を過ごしたおかげだろうと思いながら、赤いハーブティーをくいっと飲み干した。


 それからさらに二日の間、僕はベッドの上の住人になった。少し食欲が落ちていたせいで体力が落ちていたのか、うまく起き上がることができなかったからだ。それを知った殿下から「体を十分労るように」と言われたこともあり、スケッチもベッドの上でするという怠惰な時間を過ごした。

 そうして発情が終わってから五日、ようやくいつもの自分の体に戻った気がする。


「もう大丈夫そうだな」


 むしろ元気はつらつといった感じで、寝ていた間に溜め込んだ力があふれ出しそうなくらいだ。殿下はまだ少し心配顔だったが、今日からいつもどおりの生活に戻すことにした。

 そうして最初に取りかかったのは、昨日完成したと届いた首飾りの試作品の確認だった。

 革の色も安定して染められることがわかり、鮮やかな真紅、紺碧、それに深緑の三色で展開することにした。カラーストーンはそれぞれの革の色に合わせ、正面か横に着けることになった。中央に大きめのものを一つ、周囲を取り囲むように小振りなものをいくつかあしらう。それを基本に、あとは直線や曲線などの模様もできるか検討しているところだ。

 留め具は直に宝石を付けるものと、細い鎖で揺れるように付けるものの二種類を用意することにした。鎖のほうは長さを変えられるようにしたから、その日の髪型やドレスによって調整することができる。

 長さを変えられる鎖の部分には、装飾品を手がける職人たちに大いにがんばってもらった。おかげでΩ専用でなくても注目されるような素晴らしい首飾りになった。よい職人たちに恵まれたと心から感謝している。


「首飾りは、殿下に確認してもらってから量産体制に入ってもらうか」


 とはいえ、殿下に見てもらうのは少し先になりそうだ。やはり七日間も発情で執務を離れていたからか、ここのところの殿下は毎日とんでもなく忙しそうにしている。一日に一度も顔を合わせなかった日もすでに二日あったし、今日も執務が詰まっているからと昼食、夕食ともに一人で取ることになった。


「こうなると、殿下の体のほうが心配だな」


 僕に執務の一部でも手伝うことができれば少しは違うのだろうが、他国からやって来た僕が内政に関わるのは難しい。正式な妃になったら違うのかもしれないが、それも当分先の話だ。


「ヴィオレッティ殿下以外にも、誰か仕事を任せられる人がそばにいれば違うんだろうが」


 不意にルジャン殿下の顔が浮かんだ。官僚の相手をルジャン殿下に任せることができれば、少しはノアール殿下の負担が減りそうな気がする。


「ヴィオレッティ殿下は外向きにはいいのかもしれないが、あの性格だと官僚には受けがよくないだろうからなぁ」


 華やかで話がうまいヴィオレッティ殿下は、他国からやって来る外交団や親善で訪れる王侯貴族を喜ばせることがうまいのだと聞いた。本格的なやり取りは官僚が行うにしても、事前に相手を気持ちよくさせておくのは駆け引きでも重要になる。それがヴィオレッティ殿下はすこぶるうまいのだという。

 そこに官僚をうまく扱えるルジャン殿下が加われば、ノアール殿下にとってもビジュオール王国の未来にとってもよいのではないだろうか。真面目で正確に仕事をこなすルジャン殿下は、官僚たちの評判もよかったと聞いている。


「しかし、ルジャン殿下は謹慎の身。それもいつ解けるかわからないしな」


 僕に対する行為だけなら、僕が「許す」と言えば済むかもしれない。しかし王太子に対する反逆行為は、たとえ命を狙っていなかったとしても許されることではなかった。むしろ期限のない謹慎で済んだのが奇跡と言えるだろう。


「なんとも難しいところだな」


 ノアール殿下はいま、いろいろと難しい立場にある。殿下は後宮のことで国王に逆らった。あのとき広間に集まっていたのは地位の高い貴族や王族で、あの一件はすぐさま他の貴族たちにも広がったことだろう。

 ということは、内紛が起きるのではと考える王侯貴族がいると考えたほうがいい。以前から国王と殿下は仲がよくないという噂があったようだし、このままでは殿下が国王になる前に一波乱起きてもおかしくない。

 だとしたら、なおさらノアール殿下自身に従う王族や貴族、それに官僚が必要になる。ヴィオレッティ殿下だけでは心許ないのが現状だ。


「一番は側近を作ることだけど、……いや、つぎの王太子が生まれることも重要な一手になるか」


 現状では次代がいないという理由で横やりが入る可能性がある。ノアール殿下を廃嫡することはできないにしても、そのつぎに自分たちの血筋をと考える王族は少なからずいるだろう。ルジャン殿下のような若い王族のなかには、もう一度現状を覆そうと考える者たちが出てくるかもしれない。それが内政に悪い影響を及ぼすことは僕でもわかることだ。


「ということは、やっぱり僕が殿下の子を生むのが最善策か」


 それに、これは僕にしかできない唯一のことだ。「それが一番難しいことなんだけどな」と考えていると、トントンと扉を叩く音がした。


「どうぞ」

「失礼します。アールエッティ王国より画材一式が届いておりますが、いかがしましょう」

「あぁ、それなら僕が取りに……は、行かないほうがいいか」


 僕の言葉に、侍女が「できれば、そのほうが」と答えた。別に後宮を出てはいけないと殿下に言われたわけではないが、発情後の殿下はとにかく僕を心配するようになった。重い物を持っては駄目だとか、あまり歩き回るのはよくないだとか、とにかく心配で仕方がないらいし。


(まるで子ができた妃に言うような言葉だな)


 閨の教本には、子ができた妃に対する労り方もたくさん書かれていた。殿下の言葉はまさに教本どおりだなとおかしくなってくる。


(ま、ここは殿下に従っておくか)


 それで殿下が少しでも安心できるなら、それが一番だ。殿下が心穏やかに執務に取り組めるようにするのも僕の役目だと心得ている。


「じゃあ、あとで運んでもらえるかな」

「承知しました」


 閉まる扉を見ながら、画材のことも考えなければと思った。これは以前から考えていたことではあったが、今後ずっとアールエッティ王国から画材を運んでもらうわけにはいかない。画材代を支払ったとしても利益は少なく、運ぶ手間を考えるとアールエッティ王国の負担のほうがどうしても大きくなる。


「……そうか、それならビジュオール王国内で作ればいいのか」


 ふとつぶやいた自分の言葉にハッとした。


「いや、言うのは容易いが、やるとなるとなかなか大変だぞ」


 ビジュオール王国の画材はキャンバスも絵の具も質がよくない。あれでは納得できる絵を描くことは難しいだろう。それをアールエッティ王国の画材並みにするということは、根本的な材料から変えるということだ。


「それでは、芸術に重きを置くアールエッティ王国の考え方を押しつけることになる」


 ビジュオール王国でも芸術は愛されているが、愛でられているだけだ。王族や民に至るまで芸術を生活の一部として受け入れているアールエッティ王国とは違う。


「となると、芸術以外の面での利益がなくては駄目ということか」


 残念ながら僕には財政や貿易に関する知識が乏しい。余計なことをしてますます財政を悪化させないように関わってこなかったからだ。それでも何とかならないか考え、思いついたことをそばにあったスケッチに書き留めることにした。

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