第24話 本気の発情

 昼食前の時間を月桃宮で肖像画制作に勤しみ、自分の部屋に戻って一人での昼食を終えてから後宮を出た。そうして、これから久しぶりにベインブルに行こうと思っている。いつもならノアール殿下の執務室に行くのだが、執務が詰まっていると聞いたので邪魔しないようにと考えてのことだ。

 後宮を出ると、わずかに蒸し暑い空気が肌を舐めた。アールエッティ王国は乾いた夏だったからか、初めて体験するややじっとりした熱い空気にげんなりしてしまう。


「これも、そのうち慣れるんだろうか」


 そういえば、リュネイル様が「こちらに来た最初の夏は体調を崩しました」と話していた。北側の国々より夏が長いせいもあるのだろうが、僕も少しだけ食欲が落ちている。気をつけないといけないなと思いながら王宮に入り、ベインブルに繋がる廊下を曲がったときだった。


「あれは……」


 執務室とベインブルのちょうど間くらいに、殿下とペイルル殿が立っているのが見えた。殿下はおそらく執務室から出て、応接室へ向かうところだったに違いない。今日は昼食後に面会が入ったと聞き、一緒に食事をすることを僕のほうから遠慮したのだ。

 わざわざ後宮の僕の部屋までやって来て昼食を取るのは余分に時間がかかってしまう。かといって、僕が殿下の執務室で昼食を取るのはやはり憚られることだ。室内で絵を描くだけでも眉をひそめられることなのに、まだ正式な妃でもない僕がそんなことをしては殿下の評判を落としかねない。

 そう思って昼食を遠慮したのだが、執務室に日参しているらしいペイルル殿に捕まったのだろう。あまり引き留めては殿下の迷惑になるのだがと思いながら、廊下の角に身を寄せて息をひそめた。


(って、僕はどうして隠れているんだ)


 別にやましいことは何もないのだから、堂々と歩いていけばいい。それから挨拶をし、目的地のベインブルに入ればいいだけだ。それなのになぜか足が止まり、思わず壁に身を寄せてしまっていた。


(いや、隠れるほうが変だよな)


 そう思い直して一歩足を踏み出したとき、「そうだったんですね!」という明るい声が聞こえてきた。慌てて身を隠し、執務室のほうへそっと視線を向ける。

 後ろ姿の殿下の表情はわからないが、殿下を見ているペイルル殿は満面の笑みを浮かべていた。何かよい話でも聞いたのかパチンと手を叩き、ニコニコと笑いながらペコッと頭を下げている。金髪を揺らしながら慌ただしく動く様は相変わらず子どもっぽく見えるが、屈託のない笑顔を見るとそうした雰囲気も途端に魅力的に感じられた。

 それから二言三言言葉を交わしたペイルル殿は、またぺこりと頭を下げてから軽やかな足取りで廊下の奥へと消えていった。それを見送りチラッと窓の外に視線を向けた殿下の横顔には、苦笑にも似た優しい笑みが浮かんでいる。

 一瞬、ドキッとした。心臓がドクドクと変な鼓動を刻み始める。頭がカッとなり、体の奥から何かがぶわっとわき出るような感覚がした。

 思わずグッと唇を噛んだ瞬間、殿下がこちらに視線を向けて驚いた。物音は立てていないはずだが、盗み見ていたことに気づかれたんだろうか。


(もう、ベインブルに行く気にはなれないな)


 僕はいま、おそらく変な顔をしている。そんな顔で殿下に会うことはできない。なにより芸術を鑑賞する気持ちにはなれないだろうし、そんな気持ちでは芸術の神に失礼だ。

 小さく息を吐いた僕は、足音を立てないようにそっとその場を後にした。


 結局午後は、自分の部屋でリュネイル様の肖像画を仕上げる作業に費やすことにした。ほとんど完成しているが、本人の美しさを表現するにはもう一つ何かが足りない。そう思いながら筆を手にし、あれこれと考えを巡らす。しかし結局のところよい案は何も浮かばず、ただ時間だけが過ぎてしまった。

 夕食の時間が近づいた頃、不意に殿下が部屋にやって来た。今日は夜まで執務が詰まっているからと、夕食も別々に取ることになっていた。もしや何かあったのだろうかと慌てて立ち上がろうとしたが、「そのままでいい」と言われて椅子に掛け直す。


「今日はずっと絵を描いていたのか」

「はい。といっても、ほとんど何もできませんでしたが」

「もう完成しているのではないのか?」


 そう言った殿下の視線は、僕の傍らに置かれたリュネイル様の肖像画に向いていた。たしかに一見すると完成しているように見えるかもしれないが、僕としてはまだ足りない何かを追い求めている最中だ。


「完成間近といった状態でしょうか」

「わたしには完成しているように見えるが」

「僕としてはまだ納得できていないのです」

「納得できない? これほどの絵なのにか?」

「何と言いますか、リュネイル様の美しさを描き切れていない気がして……。こう、人とは違う神々しさと言いますか、我がアールエッティ王国の愛の女神のような神秘性を表現し切れていないと言いますか……まぁ、自己満足の話かもしれませんけど」


 しかし、自分が納得できていない絵を完成品にするわけにはいかない。リュネイル様からは「鏡を見ているようですね」と褒めていただいたが、そのときの笑顔と絵の中の微笑みでは何かが違っているように感じた。それが何かわからないままでは、画家としての自分にも納得できない。


「あの方は人外を超えた美しさをお持ちだからな。いまは月桃宮から出ることはなくなったが、あの建物ができる前は覗き見ようとする者たちで騒がしかったと聞いている」


 やけに低い殿下の声に、どうしたのだろうと視線を向ける。不機嫌そうな表情はしていないが、気のせいでなければ少し厳しい眼差しをしているように見えた。


「殿下?」

「あの美しさに陛下も心奪われ、だから母上以外の唯一の妃として手元に置いているのだろう。同じΩだからと思って油断していた」


 殿下の言葉に「まさか」と思った。


「僕はリュネイル様に邪な感情を抱いたりはしていません」


 同じ男のΩとして親しみは感じているが、それだけだ。


(そうか、殿下はリュネイル様が男のΩだと知らないから……)


 それでも同じΩ同士、男女差はあっても恋に落ちたりはしない。普通の人と違い性が強すぎるαとΩは、α同士やΩ同士では欲情しづらいのだとリュネイル様に教えてもらった。

 それに万が一間違いが起きたとしても、Ωである僕には子種がない。これも最近教えてもらったことだが、だから男の僕でも後宮にいられたのだとようやく納得した。

 そういったことを王太子であるノアール殿下が知らないはずがない。知っていてのいまの言葉なら、それは僕を信じていないということだ。


「あれだけ美しいΩだ。……芸術を愛するランシュが思いを寄せてもおかしくない」


 若干視線を逸らしながらもそんなことを口にする殿下に、カチンときた。


「たしかに僕は芸術家ではありますが、リュネイル様の美しさに惹かれているのは画家としてです。どうすればリュネイル様を余すことなくキャンバスに描ききれるか、それだけを考えて描いてきました。僕自身が納得していないのに完成だと言うわけにはいきませんし、これは画家としての信念であり僕の自尊心です。そこに邪な感情は一切ありません」


 僕の言葉に殿下がついと顔を逸らす。その態度にも腹が立った。


「そんなに疑うのなら、僕が後宮の外に出られないようにすればいいじゃないですか。リュネイル様の件だって駄目だと言えばいい。そもそも、ヴィオレッティ殿下に捕まったあとも後宮外でのスケッチを禁じたりしませんでしたよね? それは殿下が僕を信じてくれていたからじゃないんですか?」


 何だかちょっと恥ずかしくなるようなことを口走ってしまった気もするが、もし僕を信じていないのなら外に出られないようにすればいいだけの話だ。僕は殿下の妃候補なのだから、やろうと思えば後宮に閉じ込めることもできる。それこそリュネイル様のように籠の中の鳥状態にすればいい。


「……信じていないわけじゃない。ただ、昔から老若男女問わず視線を集めるあの方だから、芸術家としても人としても惹かれるのではないかと、そう思っただけだ」

「だから、違うと言っているじゃないですか。そんなに心配なら僕を閉じ込めればいい。そうだ、もっと早くに閉じ込めてしまえばよかったんだ」


 少しだけカッカしながらそう告げると、殿下が「それは……できなかった」とつぶやいた。


「なぜです?」

「はじめは、……こう言っては何だが、ランシュに興味がなかったんだ。それにΩの香りがしなかったから、本当にΩなのか疑ってもいた」

「なるほど、こう言っては何ですがそれには僕も納得できます。では、なぜその後も禁じなかったのですか?」

「禁じるのはランシュのためにならないと考えたからだ。ランシュが絵を描く姿を見るのも好きだった。それに……」

「それに?」

「……いまさら駄目だとは、言い出しづらくてな」


 そう告げる殿下の頬が、若干赤くなっているように見える。もしかして、本当は後宮から出ないでほしいと思っていたんだろうか。それを言い出せなかったのは、もしかして……。


(独占欲、か?)


 急にそんな言葉がポンと頭に浮かんだ。もしかして、独占欲を抱いていると僕に知られたくなかった、ということだろうか。

 そう思ったのは、僕も似たようなことを感じたからだ。

 僕は今日、殿下とペイルル殿が話しているのを見てどうしようもなくカッとなった。頭がぐわっとなって冷静ではいられなくなると思った。

 いま思えば、あれは嫉妬だ。それを殿下に知られたくないと思った。妃候補ではないペイルル殿に嫉妬しているみっともない自分を知られたくなかった。自分だけを見てほしいなんて、王太子である殿下に対して思うことではないと情けなく思った。


「そうか。はは、そんなにも僕は……」

「ランシュ?」


 急に笑った僕を不審に思ったのか、殿下が少し眉を下げて僕を見ている。そんな表情も可愛いなと思う僕は、間違いなく殿下しか眼中にない。


「今日の午後、執務室の近くでペイルル殿と一緒にいる殿下を見ました」

「あぁ、やはり」

「やはり?」

「ランシュの香りがしたような気がしたんだ」

「香り、ですか?」

「他の者は気づかないかもしれないが、わたしがランシュの香りに気づかないことは決してない。どれほどささやかな香りでも、わたしにはわかる」


 あぁ、殿下の言葉だけで体がじんわりと熱くなる。


「宝物庫に、ベインブルに行ったのではないのか?」

「そのつもりでした。でも、ペイルル殿とのやり取りを見てやめました」

「やり取り?」

「ペイルル殿は満面の笑みを浮かべていましたし、殿下もまんざらではない表情でした。好きな人が他人にそんな顔を見せていたところに出くわして平常心を保てるほど、僕はできた男ではありません」

「いや、ちょっと待て。まんざらではないなんて顔はしていない」

「そうですか?」

「あぁ。あれは尋ねられたことに答えただけで……というか、平常心を保てないとは、」

「僕だって嫉妬くらいします。ペイルル殿は珍しい男性のΩですし、愛らしい仕草で見目もよいです。殿下が惹かれてもおかしくないと思ったんです」


 口にしながら本当にそうなったらと考えると、やはり多少なりと不愉快になる。思わず口をほんの少し尖らせると、殿下が「待て、そんなことは決してない」と両肩に手を置いて僕の顔を覗き込んできた。


「ペイルル殿のことは何とも思っていない。それに彼は、いや、そもそもわたしがランシュ以外に惹かれるΩはないと言ったはずだ。Ωだけでなく、人としてもランシュ以外を思うことはない」


 殿下の真剣な表情に胸が熱くなり、体の奥からじんわりと熱が広がっていく。僕の中の何かが満足そうに笑っている、そんな奇妙な感覚もした。


「できれば誤解をしっかりと解きたいところだが、今日は隣国の外交団との夕食会に出席しなければならない。執務だけなら何とでもできるんだが、」

「外交は王太子にとって大事な仕事の一つです」

「わかっている。しかし……」


 なおも僕のために時間を割こうと考えてくれる殿下に、胸がくすぐったくなった。思わず「ふふっ」と笑うと、少しだけ殿下の表情が柔らかくなる。


「その、怒ってはいないのか?」

「殿下にその気がないとわかったのですから、怒ったりはしません。同じように、僕がリュネイル様にそういった好意を寄せることはありません。僕だって殿下と同じで、好きになるのは殿下だけなんですから」

「……そうか」

「はい」


 大きく頷くと、殿下が安心したように微笑んだ。


「正直焦ったりもしたが、こういうふうに言い合えるのは悪くないな」

「はい?」

「喧嘩をしたいとは思わないが、互いに思っていることを口に出せるのはよい関係だと思う。しかし、そうできないのが普通なんだろう。陛下と母上の間では、こうしたやり取りはないようだしな」


 それには答えられなかった。たしかに王族、それも国王と王妃がいまのような言い合いをすることはまずないだろう。母上はたまに父上を叱ったりしていたが、それはアールエッティ王国が小国だったからだ。


「僕も喧嘩は嫌いですけど、言いたいことが言える仲は素敵だと思います」

「そうだな。……っと、そろそろ時間か」


 扉を叩く音がした。少し残念そうな表情を浮かべる殿下に「やっぱり可愛いなぁ」なんてことを思いながら、立ち上がって頬にチュッと口づける。


「王太子としての仕事、がんばってください」

「それほど遅い時間にはならないはずだから、今夜はこちらで休む」

「わかりました。起きて待っています」

「いや、眠かったら先に寝てくれてかまわない」

「じゃあ、眠くなるまでは起きて待ってます」


 そう答えると、ふわりと笑った殿下が僕の額に口づけた。


「やはりランシュでよかった。いや、わたしの隣はランシュしかあり得ない」


 殿下を見送ってからも、最後の言葉が脳裏に何度も浮かんだ。大国の王太子にあそこまで言われてうれしくないはずがない。同時に妃としてだけでなく、僕なりに殿下を助けたいと思った。それが僕の役目であり、僕のやりたいことだ。

 そのために何ができるだろうか。そう思いながら夕食を取っていたからか、いつもの半分ほどしか食べることができなかった。侍女たちには心配をかけてしまったが、とくに体調がおかしいということはない。きっと考えすぎて頭が疲れてしまったんだろう。

 それなら長湯はやめるかと簡単に湯を使うだけにとどめ、早めにベッドに入ることにした。そうして本を読みながら殿下が来るのを待とう。

 そう思って寝室に入ったところまでは覚えているが、それからの僕の記憶は途切れ途切れになってしまった。




 どこか遠くでハァハァと荒い息が聞こえる。いや、遠くじゃなくすぐそばから聞こえているような気もする。誰の息なんだろうと思ったが、すぐに目の前の濃いミルクの香りに意識が吸い寄せられてどうでもよくなった。


「……足りない。もっと濃い香りを……殿下の香りを……」


 僕が選んだ僕のαの香り。それをもっと集めなければ。たくさん集めて、僕だけの場所を作るんだ。その中にいれば殿下の香りをもっと感じられるし安心できる。そこは僕と殿下だけの場所で、そこなら思う存分発情もできる。

 そう思いながら動かした右手に柔らかな布が触れた。ずるずると引き寄せて顔を埋めると、ふわっと濃いミルクの香りがする。そうだ、この香りだ。この香りをもっともっと集めなければ。


「もっと……もっと……」


 両手を動かして手に触れる布を片っ端から引き寄せる。すると、濃いミルクの香りに違う香りが混じっていることに気がついた。


「ミルク、セーキ……?」


 うっすらとだがミルクセーキのような香りがする。悪い香りじゃないが、いまはいらない。この香りは本物の殿下の香りが現れたときでいい。


「いまは、いらない……」


 香りを遠ざけたくてモゾモゾと服を脱いだ。シャツを脱ぎ、腰紐を解いて両足をゴソゴソ動かしながら何とかズボンを脱ぎ去る。

 そうして余計な香りがする布を放り投げ、掻き集めた濃いミルクの香りに鼻を埋めた。それだけでは足りなくて、手当たり次第掴んだ布を体の上に載せていく。そうすると全身が濃いミルクの香りに包まれているような気がして幸せな気分になれるからだ。


「いい、香りだ……」


 息を吸うだけで多幸感が膨らむ。もっと香りがほしいと思いながら目の前の布を噛み締めた。途端に口に中に香りが広がり、じゅわっと唾液が溢れてくる。

 あぁ、たまらない。もっとこの香りがほしい。もっと濃くて息が苦しくなるほどの香りに襲われる喜びを僕は知っている。その香りがいまここにないことが残念で仕方なかった。


「早く……僕だけのα……早く僕の香りを求めるんだ……」


 夢うつつにそんなことを思いながら、大好きな濃いミルクの香りを思う存分吸い込んだ。


 どのくらい経っただろうか。半分寝ているようにぼんやりしていた頭が、急にパチンと弾けて目が覚めた。くんと鼻を鳴らすと、新鮮な濃いミルクの香りが近づいてくるのがわかる。


「やっとだ……早く、早くここに……僕のところに……」


 そうして二人だけの場所で発情を迎えるんだ。誰にも邪魔されない安心できるこの場所で、僕はようやく大好きな香りに溺れることができる。

 もちろん大好きな香りを絶対に逃したりはしない。僕の香りでがんじがらめにし、すべてを僕に捧げてもらう。


「これは……」


 扉が開いた音と同時に待ちわびた人の声がした。


「やっと、来た」

「ランシュ」


 あぁ、やっとだ。ようやく僕たちの発情を迎えることができる。さぁ、早く僕のところに来い。そして濃いミルクの香りで僕を溺れさせるんだ。


「早く、はやく」


 香りが薄い服たちを押しのけ、なんとか体をうつ伏せにした。こうすれば、僕の濃い香りがするうなじを空気にさらすことができる。


「間違いなく発情しているとわかるが……。なんて濃い香りなんだ」

「早く、いいから、早く」

「こんなに濃い香りのΩは初めてだ」

「はやく、はやく」

「それに、なぜ服の山が……これはわたしの服か?」


 早くと言っているのに、どうして殿下は服なんかを手に取っているんだ。それはただの場所を形作るもので、殿下がいま触れるべきは僕のほうだ。


(そうだ、早く僕に触れるんだ)


 そう思った途端にお腹の奥がカッと熱くなった。そうしてじゅわりじゅわりと僕の香りが外へとあふれ出していく。殿下だけの僕の香りが体から這い出て、触手を伸ばすように殿下へと絡みついていく。


「ランシュ、待て」

「早く、僕と発情を迎えるんだ」

「ラン、」

「殿下だけの僕に、すべてを捧げるんだ」


 僕の香りは絶対に殿下を逃したりはしない。僕のうなじを噛み、僕の香りを手に入れた殿下が僕から逃れることはもうできない。


「さぁ、はやく僕と発情を」

「ランシュ、」

「僕と、発情して」


 唸るような声を出した殿下が近づき、荒っぽい手つきで僕を抱きしめたのがわかった。そうだ、僕の香りから逃れることはできない。僕の香りは確実に殿下を捕らえることができるんだ。


「あまりに濃くて、目眩がするようだ」

「ふ、ふっ」

「これまでの発情とは、あまりに違う。それに、こんなに濃い香りがΩからするとは」

「ふぅ、ふっ」

「これではまるで、強制発情させる、αのようではないか」


 興奮しすぎて犬のように息が荒くなる。殿下の息も僕と同じように荒くなってきた。濃いミルクの香りもどんどん強くなり、それに煽られるように早く早くという焦燥感にも似た感覚が僕の体を支配していく。


「んっ」


 背中に口づけられて声が漏れた。たしかに気持ちはいいが、そんな優しい口づけじゃ全然足りない。


「ふっ、はやく、はやく」


 体の中を駆け巡る熱をどうにかしてほしくて必死に欲望を口にした。「早く」しか言葉にならないが、殿下にはこれだけでも十分に伝わるはずだ。なによりこれだけ香りを放っているのだから理解できないわけがない。


(さぁ、僕と一緒に発情するんだ)


 そのために香りを放ち、殿下を捕らえた。すべては殿下と一緒に最高の発情を迎えるためだ。

 殿下の香りに溺れ、そうして殿下も僕の香りに囚われる。二人の香りが混ざり合って、二人だけの発情が始まる。それが互いに唯一のαとΩの発情なんだ。


「殿下、」

「あぁ……とてもいい香りだ……濃くて甘くて、とてもおいしそうな香りがしている」


 うなじに温かい吐息が触れた。ぞわっと肌が粟立った瞬間、レロッと舐められて「ひゃっ」と悲鳴のような声を出してしまった。


「噛んだときの発情もすごいと思っていたが、今回はそれとはまったく違う。気をつけないと、わたしのほうが飲み込まれそうだ」

「ん……んぅ……」

「さぁ、五度目の発情を共に過ごそう。あぁ、入れる前からノットが現れてしまいそうだ」


 僕に触れている殿下の手が熱湯のように熱く感じる。殿下も早く僕と発情を共にしたいと願ってくれている証拠だ。


「はやく、はやく……」


 早く一つになりたい。そうしなければ、この気が狂いそうなほどの熱を納めることはできない。


「で、んか、はやく、」


 焦れったい感覚に思わずそうつぶやいた瞬間、待ちわびていた衝撃が訪れた。一瞬息が詰まったが、すぐに求めていたものだとわかり体中が歓喜に満ちあふれる。


「これは、すさまじい、な……」


 殿下の声がすぐそばで聞こえる。荒い息がうなじにかかり、それだけで背筋がぞくぞくした。


「今度の発情は、とんでもないことに、なりそうだ」


 殿下のつぶやきに、僕の体の奥から甘い香りがじゅわっと吹き出した。

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