第9話 初めての発情

「やはり香りはしないが……少し触れるぞ」

「……っ」


 声がしたあと、尻のあたりを撫でられて驚いた。というより、撫でられたことが気持ちよくてびっくりした。


(なんで……気持ちがいいんだ……?)


 腰や尻、お腹を撫でられるだけでゾクゾクする。滅多にしない自慰のときの感覚に似ていることに戸惑っていると、ボタンを外され上着を脱がされた。そのままタイを取られ、カフスも取られる。

 気がつけばズボンを穿いていないのにシャツは羽織ったままという、よくわからない格好になっていた。たぶん靴は脱いでいるが、膝下まである靴下は履いたままのような気がする。


「ん……っ」


 素肌にシャツが擦れるだけでゾクッとした。熱があるからか下半身がほぼ裸だというのに肌寒さは感じない。


「……男のΩは香りがしないものなのか……?」


 不思議そうな声に、閉じていた瞼をゆっくり開けた。目の前にはシャツとズボンだけになった殿下の姿がある。


「殿下……?」


 これはどういうことだろうか。視線をぐるりと巡らせると、自分が薄暗い部屋のベッドに横たわっていることがわかった。しかし、すっかり見慣れてしまった寝室のベッドではない。自分が使っているものより大きく年季が入っているように見える。それに、かすかにだが焼き菓子のような香りもした。


「……これは、バター、か……ミルク、か……?」


 なぜベッドでそんな香りがするのだろうかと思っていると、右側がわずかに沈んだことに気がついた。


「礼儀として、一応確認しておく」


 殿下の顔がやけに近い。


(そうか、覆い被さっているから……というか、なぜこんな状況に……?)


 薄暗いからか、覆い被さるようにしている殿下の表情はよくわからない。声だけで判断すれば、どこか少し焦っているようにも聞こえる。


「これから発情の相手をするが、かまわないな?」

「……はつ、じょう……?」


 一瞬、何を言われたのかわからなかった。そうして殿下の言葉が頭を一周し、ようやく自分の状況に思い至った。


(なるほど、これが発情ってやつなのか)


 皮膚がざわざわして目眩も熱も感じるから、てっきり風邪か何かで高熱が出たのだと思っていた。一人でいたときなら、これが発情だなんてわからなかっただろう。


(殿下が近くにいてよかった)


 しかも願ったり叶ったりの状況じゃないか。考えていたとおり殿下の近くで発情し、そのままベッドに連れ込まれた。そうしていま「発情の相手をする」と言われた。

 それはつまり、これからベッドを共にする、ということだ。


(……アレの問題はわからずじまいだが、まぁ、いいか……)


 詳しい閨のことはわからないが、殿下がうまくやってくれるに違いない。それに、僕はこの機を逃すわけにはいかないのだ。ここで子を孕むことができれば、はれて大国ビジュオールの王太子妃の一人になれる。


「よろしく、おねがい、します」


 若干朦朧とした頭のまま、とりあえずそれだけは口にすることができた。そんな僕の言葉に、殿下が少し笑っているような声で「わかった」と答えた。




 まさか、尻があんなに気持ちよくなれる場所だとは思わなかった。何をされても気持ちがよかった僕は、みっともない声を出しながら必死に殿下にしがみついていた……ことは、なんとなく覚えていた。

 それ以外は、とにかく気持ちがよくて大変だったということしか記憶にない。むしろ気持ちいいこと以外の感覚が抜け落ちているくらいだ。


「…………発情とは、すごいものなんだな」


 はっきり言って、そうとしか言いようがなかった。最中は気持ちがよくて、よすぎて何度も泣いた気がする。うっすらとだが、とんでもないことを口走った記憶もある。それもこれも、高熱を出したときよりも全身がたまらなく熱くておかしくなっていたせいだ。それに、意識が混濁しているような感覚もあった。

 そんな強烈な状況が続いたからか、意識がはっきりしているいまも体が熱っぽい。というよりも……。


「……尻の奥が、熱い」


 いや、奥だけじゃない。出口……いや、この場合は入口か。とにかくそこもジンジンと熱を持っているし、お腹の奥も妙に熱っぽく感じる。体中が気だるいのに敏感になっているようで、おそらく殿下が着せてくれたのであろう夜着の感触がくすぐったく感じるほどだ。

 そうしてジンジンする尻を気にしながら少し動いたところで、あることに気がついた。


「……そうか。僕にはほかに穴がないから尻に入れたということか」


 ようやく閨の謎が解けた。まさか尻とは思わなかったが、よく考えれば僕の体にはそこしか突っ込める場所がない。解決したのはいいが、ますます珍獣のような気がして笑いたくなった。


「女性のΩは普通の女性と同じなのだろうが……男のΩは、やはり変わっているということだな」


 尻に突っ込まれて子ができるなんて、いくらΩでもとんでもなさすぎる。人体の不思議を超えて、やはり珍獣じゃないだろうか。


「まぁでも無事に正真正銘のΩになったことだし、これで子ができていれば万々歳だ」


 初めての発情で子ができるのかはわからないが、可能性はなくはない。子ができたかは、おそらく普通の女性と似たような感じになるだろうからわかるはずだ。それなら閨の教本で何度も読み返したから覚えている。


「……待て。腹に子ができたとして、僕はどうやって生むんだ……?」


 ベッドに横たわったまま、じっと天井を見る。教本では、ナニを入れる場所から子が出てくると書かれていた。ということは、つまり……。


「……いや、そこは違うのかもしれない。それに、まだ子ができたと決まったわけじゃないしな」


 子ができなければ困るが、すぐに子ができても困るような気がする。どうやって子が生まれるのかわからないのは、αのアレをどこに入れるのか知らなかったことよりよほど恐ろしく思えた。

 そんなことを眉をひそめながら考えていると、扉が開く音がした。頭を動かし視線を向ければ、いつもより身軽な服装の殿下が水差しを持って近づいてくるところだった。


「目が覚めたか」

「これは殿下、……っ」


 慌てて起き上がろうとして失敗してしまった。なぜか腰や足に力が入らず、上半身をうまく起こせない。


「無理に動かないほうがいい。体を起こしたいなら手伝ってやろう」


 そう言った殿下の手がベッドと背中の間に入り込んだ。すると、あっという間に上半身が起き上がった。そうして簡単に背中の奥にクッションを差し込んでしまう。まるで僕の体に重さがなくなってしまったかのような手際のよさに驚いてしまった。


(……そういえば、ここに運んでくれたのも殿下だったか)


 僕より頭半分大きいくらいの殿下だが、騎士たちのようなムキムキの体には見えない。そんな殿下がここまで運んでくれたのだとしたら、案外よい体つきをしているのかもしれないと思った。それならぜひ、一度絵にしたいところだが……おそらくベッドの中で何度も目にしたであろう殿下の体の記憶はまったくなかった。


「……申し訳ありません」


 残念なことをしたと思いながら、手を煩わせてしまったことを謝る。


「かまわない。それに、随分と無理をさせたのはわたしのほうだ」

「無理……?」

「三日三晩、ベッドを共にした。その間、ほとんど繋がったままだった。体に力が入らないのはそのせいだろう」

「……三日、三晩」

「傷がないことは確かめたが、痛くはないか?」

「傷……」

「わたしをあれだけ受け入れ続けたんだ。もし痛いのなら塗り薬を用意してある」

「……いえ、たぶん、大丈夫だと思います」


 熱を持っている感覚はあるが、薬を塗るほどではない。というより、ここで頷けば間違いなく殿下の手を煩わせることになる。それも遠慮した理由だが、何より場所が尻では遠慮せざるを得なかった。


(それに、三日三晩とは……)


 国で読んだ本に「αとΩの交わりは普通の人よりも長い」と書いてあったが、それほどまでとは思わなかった。しかも「ほとんど繋がったまま」ということは、僕の尻に殿下のナニが入ったままだったということだ。


(……Ωの尻とは、すさまじいものだな)


 実感はないが、ただただ感心する。そんな僕の目の前に、美しい形をしたグラスが差し出された。


「喉が渇いているだろう」

「ありがとうございます」


 グラスの色合いから察するに、南の地域で作られている吹きガラスだろうか。小さな気泡までもがデザインの一つに見えるのがすばらしく、なにより深い青色が見たことのない南の海を思わせるようで興味を引かれた。


「グラスに興味津々なのはいいが、まずは水を飲んだらどうだ?」

「あぁ、すみません。つい気になって」


 殿下の言葉はもっともだと思い、口をつけてグラスをグイッと傾ける。思ったより喉が渇いていたのか、たっぷり注がれていた水はあっという間になくなった。


「はぁ……。発情とは、こうも喉が渇くものなんですね」

「それは発情のせいというより……いや、それよりもう一杯必要か?」

「ありがとうございます」


 殿下自ら注いでくれた水を、また一気に飲み干した。そのまま空になったグラスの側面や底を見ていたら、ベッド脇の椅子に座った殿下が「おもしろいな」と口にした。


「はい?」

「これまで出会ったΩのなかで、貴殿ほどおもしろい人物はいない」

「まぁ、僕のような男のΩは珍しいようですから」

「たしかに、男性のΩは非情に珍しい。我が国でも七十年前の王妃にいただけで、記録もそれほど残っていない」

「ということは、殿下のご先祖に男性のΩが?」

「曾祖母にあたる人が男性のΩだった」


 なんという偶然だろうか。いや、そういうことがあったから行き遅れのような僕に妃候補として声をかけてきたのだろう。しかも、こうしてひ孫の殿下がいるということは男のΩでもちゃんと子を生めたということだ。そのことにホッとしつつ、グラスを水差しの隣に戻した。


「もしやと思い、曾祖母の代から集めていた専門書を読んでみたが、香りのことまではわからなかった」

「香り?」

「貴殿からはΩ特有の香りがしなかった。いや、ほんのわずか何か甘い香りがしたような気はしたが、発情したΩはもっと香るものだ。それこそαやΩでなくてもわかるくらいにな」


 そうだったのか。それなのに、僕からはそのΩらしい香りがしなかったということだ。

 しかし、僕は間違いなく発情していたはずだ。だから殿下とベッドを共にできたわけだし、三日三晩もの間、殿下のアレを尻に入れられていたことになる。


「貴殿の香りは、あまりにもかすかだった。その原因が男性だからかと思って曾祖母の日記も読んだんだが、それらしいことは書かれていなかった」

「あー……」


 もしかしてと思った。それなら香りがしなくても合点がいくような気がする。


「何か心当たりでもあるのか?」


 チラッと殿下の顔を見る。表情はよくわからないが、何かを懸念したり訝しんだりしているようには見えない。


(じゃあ、話しても大丈夫か)


 いや、こうしてベッドを共にしたのだし話しておくべきだろう。もし今後子ができたとして、僕の体のことで何か問題が起きないとも限らない。


「じつは、ぼ……わたしは、つい最近Ωだと判明したばかりなのです。随分遅くにΩになったので、そのせいで香りがしないのではと……」


 さすがに発情も初めてだったとは言いづらい。そこは言わなくても問題ないだろうと判断し、香りのことだけ話すことにした。


「なるほど。それであちこちに婚姻の打診をしていたのか」

「お恥ずかしい限りです」

「いや、おかげで貴殿の存在を知ることができたんだ。わたしとしては年齢や香りにこだわりはないから、気にしなくていい」

「ありがとうございます」


 僕の返事に、殿下が少し微笑んだように見えた。


「殿下?」

「あぁいや、やはりおもしろいと思ってな」

「わたしが、ですか?」


 また少し微笑んだままの殿下が大きく頷く。


「後宮にいる妃候補の姫たちは、我先にと自分のことを話し出す。そうすることでわたしの気を引きたいのだろう。しかし、貴殿はあまり自分のことを話そうとしなかっただろう? あぁ、芸術の話はよくするが、それ以外のことはほとんど聞いていない」

「あー……その節は、大変失礼しました」


 芸術、とくに絵画の話になると言葉が止まらなくなる自覚はある。そのことを殿下が呆れているに違いないと思い頭を下げると、「絵の話は興味深いからよいのだ」と言われた。


「それに、姫たちはわたしのことも聞きたがる。わたしの容姿を褒め、我が国を褒め、この国を導くことになるわたしに媚び、取り入ろうとする。これまで出会った姫たち全員が同じだった。そこも貴殿はまったく違っていた」


 なるほど、妃候補とはそういう感じなのか。

 アールエッティ王国で僕の妃候補だった姫君たちを思い出す。……どの姫君も、僕のことをあれこれ言うことも尋ねることもなかった。同じ国の者同士だから、おそらく改めて尋ねる必要がなかったのだろう。


「これはわたしの後宮のΩに限ったことではない。陛下の後宮のΩたちも似たり寄ったりだった。誰もがαに目の色を変え、我先に近づこうとする。互いに争い蹴落とし合い、かと思えば手を組み誰かを陥れる。これまでも集団で一人を追い詰め後宮から追い出すことがあったくらいだ」


(やはりというか、それは壮絶だな……。いや、僕もそれに近い状況ではあるのか)


 話しながら大きなため息をつく殿下の気苦労は、いかばかりのものだろうか。

 Ωに成り立ての僕には、正直そういうことをするΩの気持ちはわからない。想像はできるが、Ωゆえの思いや悩みを真に理解することはできないだろう。

 しかし、王太子だった者として殿下の気持ちを察することはできる。アールエッティ王国は小さく貧乏だから、妃になりたいと争いが起きることはなかった。だが、近隣国からは常にそういう話が漏れ伝わってきていたし、そんな環境に長くいるのは、男としても王太子としても様々な苦労があったに違いない。


(しかも大国の王太子だからな。気を遣い続けながらの妃選びなんて、僕なら放り出して逃げたくなる)


 それを殿下は何年も続けているということだ。いや、父王の後宮を見ていたのであれば、物心ついたときから見聞きしてきたということになる。


「殿下のお立場、お察しします」

「あぁ、そうか。貴殿は王太子であったのだったな」

「地位は返上しましたが、わたしにも妃候補の姫君たちはいましたので」

「……そうか」


 おや? 殿下の表情が少し変化したような……これは、不快に感じている表情じゃないだろうか。やはりアールエッティ王国の王太子と同列に語ったのがよくなかったのかもしれない。

 僕は「いえ、αでない僕には察して余りあることでした」と頭を下げた。


「……やはり、おもしろいな」


 これは褒められていると思っていいんだろうか。謝意を述べるべきか悩んでいると、「軽んじているのではなく褒めているのだ」と言葉が続いた。


「男性のΩとはいえ妃候補として来たくらいだから、もっと貪欲なのかと思っていた。しかし、想像していたのとはまったく違って驚いている。その理由がΩとして日が浅いせいだということはわかったが……貴殿は今後も変わらないのだろうな」


(貪欲でないわけじゃあないんだが……)


 それなりに欲はあるし、国の借金返済のために妃になろうとしているのだから、ある意味ほかの妃候補と似たり寄ったりだ。そう思いながらも、曖昧に微笑むだけに留めておいた。


「それに、最初に目に留まったのがわたしの顔ではなくカメオだったのもおもしろかった」


 そういえば、初対面のときに殿下だと気づけたのは目線の先にあったカメオのおかげだ。殿下が身につけるカメオは繊細なものが多く芸術品としても優れているから、つい目を留めてしまう。


「あのときのカメオは大変すばらしいものでした。ぜひ我が国でも真似をしたいと思うほどの逸品だと思っています」

「ほら、そういうところがおもしろいというのだ」


 よくわからないが、殿下が微笑んでいるということは気分を害しているわけではなさそうだ。


「そうだな……。貴殿はわたしの顔を見て、どう思う?」

「顔、ですか……?」


 急にどうしたのだろうかと思いつつ、改めて殿下の顔を見た。

 黒い髪の毛は襟足が首筋を隠すくらいの長さに整えられ、清潔感が感じられる。肌の色は僕よりも少し濃いが、かといって日焼けしているというわけではない。目鼻立ちがはっきりしており、黒い瞳は理知的でいかにも優秀なαといった風貌だ。こういう顔立ちなら肖像画映えするのではと、つくづく感心させられる。


「理想的な造形美だと思います。殿下のような完璧な顔立ちは見たことがありません。ぜひ一度、この手で描いてみたいと思うほどです。いえ、それを言うなら体つきもすばらしいと思います。手足はほどよく長く、肩幅や腰の太さ、それに頭と体の大きさの均衡が絶妙に整っていらっしゃる。おそらく骨格が美しいのでしょう。顔だけでなく全身の肖像画も描きたくなる……ほどの……」


 目の前で殿下が肩を振るわせながら笑っていた。ここまではっきりと笑っている姿を見たのは初めてだ。「またやってしまった」と思った僕は、慌てて「申し訳ありません」と頭を下げた。


「いや、かまわない……くっくっ。それにしても、くくっ……貴殿は、本当に、ふふっ……絵のこと、ばかりなのだな……いや、すばらしいことだ」


 笑いながら褒められても、褒められた気がしない。だが、初めて見る殿下の満面の笑みのせいか、どうにも照れくさく感じた。


「ありがとうございます」


 謝意を伝えると、まだ少し笑ったままの殿下の目がじっと僕を見た。


「まさか、発情あけの会話がこんなふうになるとは思ってもみなかった。……貴殿は、本当におもしろい」


 そう言って、殿下の指が僕の頬をひと撫でした。発情は終わっているはずなのに、なぜか殿下の熱を感じた瞬間、体の奥がざわりとしたような気がした。

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