第4話 遅咲きのΩ王子、大国に嫁ぐ
ビジュオール王国から届いた手紙に目を通した父上は、驚愕と喜びを混ぜこぜにしたような複雑な顔をした。財務大臣は大きな額をハンカチで拭いながら、「殿下、本当によろしいのですか?」と何度も確認してくる。
「僕はかまわない。いや、むしろこれこそが僕の活躍の場だと思っている」
「活躍とおっしゃられましても、これは婚姻のお話ですから……」
「僕は第一王子だ。自分の婚姻は国のためだと心得ている」
「殿下……」
財務大臣のハンカチが、額から目元へと移った。そんな大臣の隣に座っている父上は、なぜか少しだけ眉を下げている。
「ランシュの気持ちは立派なものだと思うが、これはまごうことなき婚姻の話なのだぞ? それも政略結婚だ」
「承知しています」
「それの婚姻というのは、あー……その、なんだ、つまりはそういうことなのだぞ?」
「だから、承知していますと言っているじゃないですか」
「しかしだな……」
父上が珍しく口ごもっている。国家存亡の危機のときでさえウンウン唸ってはいただけで、こんな様子は見せなかった。一体どうしたのだろうと首を傾げていると、視線を上げた父上が意を決したように口を開いた。
「ビジュオール王国は、αの王太子の妃候補にΩのおまえを求めてきた。それは、優秀なαを生んでほしいということだ。……つまり、おまえはαの王太子と閨を共にすることになるのだぞ?」
「Ωの役割については大体わかっています。そもそも、僕だってそれがわかったうえで各国に打診していたのであって……って、閨を共にする、って……」
閨を共にする、というのはベッドを共にすること、つまり夜の営みのことだ。
第一王子の僕はいずれ妃を迎えるときのためにと、成人してから閨教育を受けてきた。内容はよりよい夫婦関係を築くコツから妃を労るポイント、さらには夜の営みのハウツーに至るまでを学ぶ夫婦学のようなものだ。これらは代々王族が学んできた教本を使った教育で、教本には文章だけでなく様々な図柄も描かれている。
文章だけならまだしも、破廉恥にも思える図柄には何度も赤面させられた。それでも王太子として必要なことだと覚悟し、三冊分しっかりと学び終わっている。
「……閨を共にする」
もう一度その言葉を口にした僕は、教本に描かれていた図柄を思い出し眉をひそめた。たしか教本には、男女の営みしか書かれていなかったはずだ。図柄もそういった内容で、僕は恥ずかしさを感じながらも「未来の妃のために」と何度も読み返した。
あれを、αの王太子とΩの僕がするということだ。……あれを、王太子と僕が? いや、αとΩであれば可能なのだろうし、夜の営みがなければ子が生まれないことも十分わかっている。しかし、あれをやるということは……。
(……αのアレを、僕のどこに入れるというんだ?)
それがわからない。わからないから、思わず眉が寄ってしまった。
そんな僕の表情に何を感じたのか、財務大臣が「なんと不憫な……」と目元をさらに拭いだした。父上は、渋い表情を浮かべながら「王子であるランシュには耐えられないだろう」と口にしている。
(耐えられない……? いや、僕は耐えてみせる)
夜の営みの具体的な方法はわからないが、その結果優秀なαを生むことができれば王太子の妃になれるのだ。何番目の妃であっても大国の妃になれれば、アールエッティ王国のためにできることもあるはず。
(そうだ、画家として以外にも僕にできることがあるということだ)
そのためなら、αの王太子とベッドを共にするくらいなんてことはない。夫側から妻側に立場が変わるだけなのだから、これまでの閨教育も少しは役に立つだろう。
「大丈夫です、父上。僕はΩの王子として、αの王太子の元へ行きます。これは僕にしかできないことだと思っています」
「ランシュ……」
父上の目に涙が浮かんでいる。僕は力強く頷き、すぐさま早馬で返事を届けるように手配をお願いした。
使者が王宮を出た八日後、ビジュオール王国から「今月下旬には馬車が到着するように手配する」という返事が届いた。思った以上に早い動きに、僕は「これでアールエッティ王国は生き延びられる」とホッとした。
財政的には安堵できる早い返事だったが、父上と母上にとっては別れを惜しむ時間が短くなるということでもある。毎日のように涙を流す母上を慰め、まだウンウン唸っている父上を労り、その合間に自分の支度を進めることになった。
「お兄様、侍女や侍従を連れて行かないというのは本当なの?」
「本当だ」
ルーシアにそう答えながら、鞄に入りきらない絵の具を出しては選び直し、詰めてはもう一度出してをくり返す。
「一国の王子が後宮に入るというのに、どういうことかしら」
「それがビジュオール王国の決まりなんだそうだ」
先に届いた手紙には、荷物は鞄に四つまで、侍女や侍従は必要なく身一つで馬車に乗るようにと書かれていた。それをルーシアは「おかしい」と何度も口にしているが、そうしなければ大変なことになるからだろう。
「王太子には、すでに三十人近くの妃候補がいるそうだ。候補の一人一人が大勢の従者を連れて行ったり大荷物を運び込んだりしては、さすがのビジュオール王国の後宮でも収まりきれないということなんじゃないか?」
「……そんなに候補者がいるのに、まだ足りないというのかしら」
「どういう理由かはわからないけど、まだお子が一人もいないという話だから、そのせいだろうな」
これは返事を出した後に調べてわかったことだ。
ビジュオール王国の王太子は、今年で二十六歳になる。成人した十八歳のときには五人の妃候補がいたらしいが、一年経っても二年経っても子ができなかったらしい。
そこで国王は、大陸中のΩを集めることにした。名だたる名家の姫君から豪商の娘に至るまで、年頃のΩだと聞けば妃候補として声をかけ続けた。その結果、王太子の後宮には三十人近くの妃候補が集まることになった。
それでも、いまだに王太子には子がいない。ただでさえΩは数が少ないのだから、年頃のΩは底をついてしまったのだろう。だから僕のような行き遅れと思われても仕方がない二十四歳の男のΩにも声がかかったのだ。
「男のΩはすごく珍しいらしいからな。女性のΩで駄目なら男のΩを、と考えるのは理解できる」
調べてみると、大陸ではここ五十年ほど男のΩは生まれていないらしい。とうことは、僕はそれだけ珍しいΩということだ。ちょっと珍獣的な感じがしなくもないが、おかげで大国から声がかかったのならよかったと喜ぶべきだろう。
「そんな後宮に行くことを、お兄様は本当に納得しているの?」
珍しく力のないルーシアの声に視線を上げる。画材を散らかしているテーブルの向こう側に座ったルーシアは、なんだか泣きそうな顔をしていた。
「大丈夫、僕は平気だよ。それに、これを逃したら僕の嫁ぎ先は永遠に見つからないかもしれない。僕にとっても最大にして最後のチャンスなんだ」
「チャンスって……。そんなことをしなくても、お兄様は画家として生きていけるわ」
「それじゃあ駄目なんだ。いま、アールエッティ王国の財政は国が破綻しかねないギリギリのところで持ちこたえている状態だ。いままでのように目先の危険を後先考えずに乗り切ったところで、あと何年持つかわかったものじゃない。今回、僕がビジュオール王国に無事に嫁ぐことができれば、国を一気に健全な状態に戻すことができる」
「でも、それではお兄様は人身御供のようじゃないの」
ますます泣きそうな表情に変わっていくルーシアに、満面の笑みを浮かべて答えた。
「僕はそれでもいいと思っている。国王になるよりも、もっと国のために役に立てるんだ。それに、行き遅れで出来損ないのΩの僕にも、夫や子どもができるかもしれないってことだしな。独り身でいるよりも、家族ができるほうがよほどいいだろう? それに僕は父上や母上のような夫婦になりたいと思っているし、僕らのような子どももほしいと思っているんだ」
「お兄様……」
そのためにもまずはビジュオール王国へ行き、なんとか発情しなくてはいけない。
結局僕は、未だに発情を迎えていない。今回の話を進めながら、なんとかしなければと思って書庫にあるΩに関する本を片っ端から読み漁った。そうして気になる記述を見つけることができた。
――Ωはαによって発情を迎える。逆もしかり。
それが本当かは確かめようがなかったが、可能性はあると思っている。周りにαがいなかった僕だから第二次性徴でΩとわからなかったのかもしれないし、いまも発情を迎えられないのかもしれない。ということは、優秀なαである王太子の近くにいれば発情できるかもしれないということだ。
(それなら、子が生まれるかもしれないしな)
一番は子を生んで王太子の妃になることだが、最悪出戻りになったとしても一人前のΩになっていれば新たな嫁ぎ先を見つけることができるだろう。どちらに転んでも、僕にとってマイナスの要素は見当たらない。
「大丈夫。僕はどこに行ってもアールエッティ王国の第一王子として生きていくよ」
僕の言葉に小さく頷いたルーシアは、「それじゃ、わたしもとっておきの嫁入り道具をプレゼントするわ」と言ってにっこり笑ってくれた。
※ ※
「話に聞いていたよりすごいな……」
馬車を降りて見上げたビジュオール王国の王宮は、慣れ親しんだアールエッティ王宮の何倍も大きかった。豪華さも桁違いで、思わず「僕が来てもよかったんだろうか」と怖じ気づきそうになる。
「ランシュ殿下、こちらへどうぞ」
「ありがとう」
若干声が裏返ってしまったが、一国の王子として堂々としなければと気合いを入れ直す。
僕を先導するのはビジュオール王国の侍従らしき男だ。服装が立派すぎて、思わず「使用人すらアールエッティ王国と違いすぎる」と目眩がした。後ろには、僕が祖国から持ってきた四つの大きな鞄を運ぶ下男たちが足音を立てることなくついてきている。
「こちらにてお待ちください」
通された部屋は、美しいものを見慣れた僕でも感嘆するような様相だった。壁紙は目立たない模様ながらも優美さを失わないデザインで、置かれた調度品も全体的に優美な曲線を描くものが多い。なるほど、書簡箱の模様と同じで半世紀前に発明されたデザインがお気に入りなのだろう。
さりげなく飾られている絵画は風景画ばかりだが、ビジュオール国内の景色だろうか。その中でも古城を描いた絵は大変すばらしく、すぐに僕の目を引いた。つい椅子から立ち上がり、近くでじっくりと眺めてしまうほどだ。
「なるほど、これも絵の具を重ねて所々に厚みを持たせているのか」
それが遠目で見ると迫力や遠近感に繋がっているのかもしれない。こういった描き方はしたことがないが、挑戦してみる価値はありそうだ。
「……しかし、絵の具の質はあまりよくないな。いや、……これは溶き油のせいか」
絵に鼻を近づけると独特の匂いがした。鼻につくようなきつい匂いは大量生産されている溶き油特有のもので、匂いとともに保存性に難がある。アールエッティ王国内では二十年ほど前から使用禁止にしているくらいで、代わりに百年経っても経年劣化を感じさせない油を作り出し普及に努めていた。
「僕が描くなら、あの油を使って……そうだな、朝日を浴びる古城がいいかもしれない」
白い城壁の古城に朝焼けが反射する姿は、清々しくも悠然と佇むどっしりとした雰囲気を感じさせるものになるだろう。いや、優美さを優先させて新緑の季節の太陽の下というのも捨てがたい。もしくは、白色を際立たせるために切れるような冷たい空気の中に佇む真冬の朝というのもいいような気がする。
そんなことを夢中で考えていたせいで、扉が開いた音に気がつかなかった。
「我がビジュオール王国が誇る三大古城の絵を気に入るとは、さすが芸術王国の王子だな」
背後から聞こえてきた声に、思わず上半身を揺らしてしまった。慌てて振り返った僕は男性の服装と胸元のブローチを目にし、急いで胸に右手を当てて腰を折った。
「これは大変失礼しました、ノアール殿下。ぼ……わたしは、アールエッティ王国の第一王子、ランシュと申します」
「なぜ、わたしがノアールだとわかった? 肖像画は送っていないはずだが」
今回はこちら側の都合で何もかもを急いだため、本来なら先に届くはずの肖像画を見る機会がなかった。だから、僕は王太子ノアール殿下の顔を知らない。それはノアール殿下も同じことで、いま初めて僕を見たということになる。
「それは、胸元にあるブローチを拝見したからです。王冠にドラゴン、それに剣が添えられた紋章は殿下の印だと聞いています」
ブローチの中央には王冠があり、それを取り囲むように配置されたドラゴンはビジュオール王国の紋章だ。その上に斜めに剣が入っているのは、ノアール殿下が好んで使う殿下専用の紋様だと本で見た。
その紋様を細かなシェルカメオのブローチとして身につけられるのは、ノアール殿下本人以外にはあり得ない。
「……なるほど。ブローチに注目するあたりも芸術王国の王子らしい」
もしかして気分を害してしまったのだろうか。不機嫌そうな声ではないが、どこか冷たく感じる声色を気にしながらゆっくりと腰を戻す。
「改めて、わたしがノアールだ」
「至らぬところがあるかもしれませんが、よろしくお願いいたします」
改めて挨拶をしたが、ノアール殿下は黒い瞳をじっと僕に向けたまま何の反応も示さない。
(……やっぱり、気分を害したのかもしれない)
殿下が現れるまでおとなしく椅子に座って待つべきだった。つい、いつもの癖で絵画に夢中になってしまった僕の完全なる落ち度だ。心の中で反省しながら「まだチャンスはあるはず」と気持ちを切り替える。
「貴殿がいつまでの滞在になるかはわからないが、後宮の一角に部屋を用意した。好きに使うといい」
「ありがとうございます」
礼を口にしながらも、「いつまでの滞在になるかわからない」という殿下の言葉が引っかかった。
(……子ができなければ、お払い箱ということか)
子ができなくても妃候補の姫君たちは後宮に住み続けていると聞いているが、男の僕はそうはいかないということなのかもしれない。つまり、ある程度の期間で子を孕まなければ見限られるということだ。
(なるほど、これは時間との闘いでもあるわけだ)
そうなると、発情を迎えていない僕は断然不利になる。早く発情を迎えて殿下とベッドを共にしなくてはいけない。そのためには、日々殿下に近づいて発情を促す必要がある。
(それでも難しい場合は、例の
出立の前日、ルーシアが「お兄様へのプレゼントよ」と渡してくれた香水瓶は、芸術神の妻である愛の女神を模した美しいデザインをしていた。ルーシアから中身を聞いたときには「使う機会はないだろう」と思っていたが、もしかしたら必要になるかもしれない。
「どうぞ、よろしくお願いします」
心の中で「まずは発情するぞ!」と決意しながら頭を下げると、殿下が小さなため息をつくのが聞こえた。
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