1.鈴の音

…殺されるっ!


道なき山腹を当てもなく珠里しゅりは走っていた。

一歩踏み出すたび、伸びた草の葉や尖った枝が、スカートの裾から覗く珠里の足元をかすめて傷つけるが、かまってなどいられなかった。


珠里が後ろを振り返ると、足跡もなく迫る一つ目の化物がどんどん距離を詰めていた。運動に向いていないローファーが擦れて足のあちこちが痛む。

水ぶくれが出来ているのかもしれない。

それでも足を止めるわけにはいかなかった。


少しでも走る速度を緩めれば、後ろから追いかけてくる化物に捕まってしまうだろう。

そうなってしまえばお仕舞いだ。

すぐにあの化物に頭から喰われて命を落としてしまう。運良く生き延びる事ができたとしても、私ルビでいられるかどうか。






息が上がって酸素が十分脳に廻っていないのか、思考回路も鈍くなっている。


完全に油断していた。


自分が人でないものを惹きつけてしまう体質である事を分かっていたというのに。




_______



珠里しゅりが異変を感じたのは、そろそろ木立の向こうに家が見えようかという頃だった。


喧騒から離れた所に立つ築60年はたっているボロアパートは、都心から一本の畦道で繋がっていた。

珠里はその日もバイトがあって、人だけじゃなく、野良猫も居ない辺鄙な暗い道を一人あるいていた。


ぽつんと佇む灯りでかろうじて帰路は見えるものの他は暗くて見えにくい。道以外見えたとこで木と生い茂った草しかないので、珠里にとってはどちらもそう変わらない面白みのない帰路だった。

規則正しいテンポで砂利を踏み締める音が田舎の夜空に反響する。

コンクリートすら引かれていない畦道には時々地蔵が立ち並び、赤い涎掛けと誰かが定期的に拝んでいるのだろう事がわかる瑞々しい仏花とお供物が添えられている。


…今何か、


ふと、視界の端に何かが動いた気がして珠里は足を止めた。

狐か狸だろうかと軽い気持ちで目を向ける。



「……え?」


――眼球のない目がひとつ、空中にあった。



街灯の下に蠢く黒い煤の固まったような化物が身を捩る。

薄ぼんやりと輪郭がなければわからない闇の色の中心に、眼球のない一つ眼が立ち尽くす珠里を捉えた。




―モ、ウ、イ、イ、カ、イ―


「ひっ…!」


何人もの人間が重ねて喋った声が頭の奥で反響する。珠里の背中が粟立ち、不快感が腹の底を柔くくすぐる。




『人でない者と目を不用意に見ないこと』


…ふと、母の声が脳内で再生される。油断した、気にしなければ良かったと後悔してももう遅い。


――珠里の目は灯台元の化物をはっきりと視認し、化物の方も珠里を獲物だと認識してしまった。


あちらが動く前にと、珠里は化物とは真逆の鬱蒼とした山に足を踏み入れた。

足の速さには自信がある珠里だったが、体力は徐々に削られ、木々に遮られ前方が阻まれていく。


化物との距離を確認しようとして珠里はつい足を止めた。


どっと、疲労感を伴った汗が全身を次から次へと滑り落ちた。


息が切れる。心臓が今にも飛び出して爆発しそうだ。

足は不随意に痙攣を起こして、一歩も動かせる気がしなかった。珠里は自分の足がまるで金属の塊で出来ているように感じた。




―ミ、イ、ツ、ケ、タ、タタ―



耳元で囁かれた言葉。


ケタケタと珠里の背に乗った化物は強い力で珠里を突き飛ばした。

何もない固い地面に前から全身を叩きつけられて珠里は痛みに顔を顰めた。

 

化物が先ほど同様質量を感じさせないまま珠里へ馬乗りになった。

どこから出ているのか強い力が珠里を飲み込もうと顔からのしかかる。

化物に近づくことになった珠里は眼だと思っていたソレが別物である事に気がついた。


遠目では分からなかったが、近くで見ればよく分かる。白い目の形をした何かがくるくると回っている。

見ていると吸い込まれてしまいそうになってあわてて目を離した珠里を喰らおうと化物が身体を震わせる。


「っ…!」

…いまだっ!諦めるにはまだ早い。

珠里は体を捻り渾身の力を込めて蹴りを放つ。足はしっかり化物を捕らえたが、次の瞬間に珠里の足は絡め取られてしまった。


「離してっ!」

眼が近づいてくる。拘束から逃れようと全身でもがくが所詮は人。人ではないモノに太刀打ちできるはずもなかった。

じわじわと珠里は化物の中に取り込まれていく。

意識が朦朧とし始める。



珠里の全身からダラリ、と力が抜ける。




―――リンと鈴を転がしたような音を最後に珠里は意識を失った。

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