第26話 お見舞い

 放課後、俺は誰よりも早く学校を出ると、待ち合わせ場所である透さんの自宅マンション前へ急ぐ。

 すでに静ちゃんは自宅前で待っていた。


「静ちゃん!」

「おにーさん、大丈夫? すごい汗だけど……」

「へ、平気……。はぁ、はぁ……ただちょっと走ってきただけだから……」

「じゃあ、これ」


 俺の目の前に静ちゃんがカギを差し出した。


「? これ……」

「うちのカギ。30分くらい時間あげるから。お姉ちゃんのこと、よろしくね♪」

「よろしくって、静ちゃんは来ないの?」

「もー」

 静ちゃんは不満そうに頬を膨らませる。

「せっかく人が気を遣ってるんだよ?」

「え」

「二人きりにしてあげようっていう優しさ♪」

「ご、ご両親は?」

「二人は仕事人間だもん。いないから大丈夫」


 それは大丈夫と言っていいのだろうか。


「じゃあ、お姉ちゃんのこと、よろしくね!」

「あ……行っちゃった……」


 俺はエレベーターに乗り込み、10階のボタンを押す。エレベーターがゆっくり動き出せば、軽い浮遊感に全身を包まれる。

 俺は転倒する階数表示を眺めながら、壁に背中をもたれた。

 途中、一度も止まることなく10階に到着する。

 フロアを歩きながら、緊張で鼓動が早くなった。

 そしてついに、部屋の前に到着する。何度か扉の前で咳払いをして声の調子を整えつつ、カギを開ける。


「お邪魔しまーす……」


 そう独りごちながら家に入った――までは良かったんだけど……。

 さすがに無断で家にあがりこんでいいものかと今さら不安が頭をもたげ、玄関で足踏みしてしまう。

 でも何て声をかけるべきだろうか。いきなり男の声がしたら、透さん、不安がるだろうし……。

 やっぱり静ちゃんに戻って来てもらったほうがいいだろうか。

 その時、ガチャと扉が開く。


 え……。


 部屋から出てきたのは、透さん。ヘソ出しの黒いタンクトップにハーフパンツというラフというか無防備な格好、そして黒縁の眼鏡をかけている。


「あ……」

「?」


 俺が思わず漏らした声に、透さんが目を向けてくる。


「ちょ……!?」


 透さんは目を大きく見開いたかと思うと、すぐに自分の部屋に引っ込んでしまう。


「りゅ、隆一君!? え、嘘!? な、なんでっ!?」


 扉ごしに、透さんの悲鳴じみた声が響く。

 俺はここに来た経緯を伝える。


「も、もう静ってば……っ!」


 部屋の中で何やら騒がしい音が聞こえた。


「透さん。俺、帰るよ。ごめん。事前に連絡をいれるべきだったよね」

「待って……! ああもう、どうして電話が通じないの……あの子ったら……! えっと……ちょ、ちょっと外に出ててくれる?」

「え?」

「すぐに済ませちゃうからっ!」

「りょ、りょーかい!」


 勢いに押され、俺は部屋を飛び出した。

 済ませる? 何を?

 そんなことを考えつつ部屋の外に出て、待つこと10分。

 ガチャと玄関扉が勢い良く開く。

 顔を出した透さんはシャツにジーンズ姿。かすかに柑橘系のシャンプーの香りが鼻をくすぐる。

 透さんの髪はしっとりと濡れ、小顔に張り付いている。


(シャワー浴びたんだ……)


「お、お待たせ。どうぞ」


 透さんは少し息を切らせていた。


「……お邪魔します」


 靴を脱ぎ、リビングに通される。


「お茶でいい?」

「お構いなく。様子を見に来ただけだから無理は……」

「気にしないで。私もノドが渇いてた所だから」

「……そ、そっか。それじゃあ……」

「冷たいの?」

「う、うん」


 大人しくソファーに座って待っていると、透さんがアイスティーを出してくれる。


「ありがとう」


 透さんは温かい紅茶を手に、一人がけのソファーに座る。

 アイスティーを飲む。汗ばんで熱を持った身体に、冷たさと、いい香りが染み渡った。


「体調はどう?」

「大丈夫……というか、そもそも病気じゃないの。昨日の今日で、学校に行きづらくって……だから仮病……」

「そうだったんだ」

「学校はどう? 昨日のこと、いろいろ噂になってるんじゃない?」

「……なってる。いい加減な、根拠のない噂まで流れてて」

「だよね」


 透さんは笑おうとしたけど、うまくいかず、すぐに目を伏せた。


「……平気?」


 俺はなんと言っていいものかと悩んだ挙げ句、自分の頬を指さす。


「それは、うん、ぜんぜん大丈夫」


 透さんは、まるで叩かれるのは当然のことのように受け入れているように見えた。

 少なくとも、冬馬さんへの怒りがあるようには見えない。

 剣道をやめた透さんと、剣道を続けている冬馬さん。

 二人の間に何があったんだろう。知りたいという思いはあるけど、軽々しく踏み込んでいい問題じゃないことも理解している。

 支えになりたいと思っても、叶わない。それが悔しかった。


「ところでさ、透さんって家ではメガネかけるんだ」


 今も透さんはメガネをしたままだ。


「うん。学校ではいつもコンタクト。普段、家にずっといる日はメガネなの。似合わないって自覚はるんだけど、コンタクトよりもラクだし」


 正直、メガネ姿の透さんにもぐっときた。

 新鮮だったし。メガネをかけると文学少女然というか、雰囲気ががらりと変わるんだ……。


「メガネも似合ってるよ。普段と印象もがらっと変わるし」

「…………そう?」

「うん」

「でもこのことは内緒で。朝沙子たちが知ったら、メガネ姿を写真にとらせてってしつこく言われるだろうし。この姿が拡散されたら本当に学校に行けなくなる……」


 そこまでかな、と俺は苦笑する。


「あ、橘さんと言えば」

「?」

「うちの女子とか、このあと来たりする?」

「ううん。お見舞いに来たいって連絡をもらったけど、風邪がうつるかもしれないからって断ったから。でもまさか、静がこんなことをするとは思わなかったけど」


 透さんは苦笑いして、カップに口を付けた。


「じゃあ、もしよかったらこれ。汚い字で悪いんだけど。今日の授業でやったところ……」


 俺はノートを出す。

 透さんはスマホでノートを撮影していく。


「わざわざありがとう。助かったよ」

「役に立てたなら良かった。でも、ごめん」

「え?」

「いや、いきなり押しかけちゃって……。クラスの女子を家に呼びたくなかったっていうことは、本当は一人でいたかったのに」


 さすがに透さんのことを考えず、ほいほいと静ちゃんにのせられたのはさすがに申し訳ない。


「たしかに一人でいたかったんだけど……実際、こうして隆一君と話してると、そっちのほうが気分が紛れるから、来てくれて良かった」

「本当?」

「本当」

「それなら良かった」

「もちろん、静にはあとでたっぷりお灸を据えるけど」

「手加減してあげて」

「考えておく」


 俺たちは笑いあった。


「明日は学校に来られそう?」

「うん。行くつもり。さすがに仮病で何日も休むのは、ね……」

「無理だけは……」

「大丈夫。――お茶のおかわり、持ってくるね」

「もう十分。ごちそうさま。もう帰るから」

「じゃあ、見送るわ。……っ!?」


 立ち上がり、歩きだそうとした透さんの足がもつれ、バランスを崩す。


「透さん!?」


 透さんを支えようと腕を伸ばす。

 辛うじて透さんの頭が床にぶつかる前に、身体を支えることができたんだけど、覆い被さるような格好になってしまう。


「……っ」


 薄手の服ごしに感じる透さんの少し高めの体温。

 透さんって意外に華奢なんだ……。

 互いの息を感じるくらいの近距離に、顔が近づく。

 透さんからはシャワーを浴びたてのせいか、柑橘系の甘いシャンプーの香りがした。

 視線が絡みあう。

 透さんのメガネがずれ、紅潮した目元がのぞき、淡い色をした口元がかすかに動く。

 でも、かすれた息遣いが漏れるだけで、声は出ない。


「……っ」


 その淡い色の唇に思わず目がいってしまう。

 完全に離れるきっかけを失った俺は、透さんと視線を絡ませたまま身動きが取れなくなった。


「と、透さん」

「……りゅ、隆一君……」


 ピンポーン!


「っ!?」


 ピンポーン!


 連続で押されるチャイムの音に、我に返った俺たちは慌てて距離を取った。


「透さん、出た方がいいんじゃない!?」

「そ、そうね! ――あ、はいっ!」


 透はインターホンに出たかと思えば、小声で何度かやりとりを挟み、玄関の自動扉を開ける。


「はぁ~……」


 透さんは壁に頭を押しつける格好でずるずると、その場にうずくまった。


「……誰だったの?」

「バカ」

「は?」

「……うちのバカ妹」

「そ、そっか」


 時計を確認すると、いつの間にか、静ちゃんと別れて一時間ちかくが経っていた。

 しばらくして玄関の扉が開く。


「ただいまぁ」


 静ちゃんが帰宅してくる。

 透さんはすぐに姉の顔になる。


「――静、言いたいことはある?」


 腕を組む透さんを前にして、静ちゃんは気まずそうな顔をする。


「うー。だって、お姉ちゃんがぜんぜん部屋から出て来てくれないし……。おにーさん相手なら、話もしてくれるのかなって思ったんだもん!」

「……もう。そんな気を回さなくてもいいのに」

「でも」

「いいわ。今回は私も悪かったから。心配かけてごめんね」

「ううん」

「じゃあ、透さん、静ちゃん。俺、帰るね」


 一階まで送ってくれようとする透さんと静ちゃんを押しとどめ、家を出た。

 エレベーターで下りて、玄関ホールを抜けて外に出る。


 透さんに事故とはいえ覆い被さってしまったことを何度も繰り返し頭の中で再生しては、気恥ずかしさに胸をドキドキさせてしまうのだった。

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