Thou shalt not commit adultery
1
昼過ぎの取調室。朝食が控えめだと、腹が鳴り始める時刻だ。
「どうぞ」
目前に置かれた、湯気の立つ丼。塩気を感じさせるつゆの匂いが、知樹の胃に呻き声を漏らさせた。
カツ丼だ。分厚い豚肉を揚げ、溶き卵と煮汁を米に乗せる。
そこへさらに、半熟卵を乗せたオーソドックスながらちょっと豪華な代物だ。
なおかつ、飲み物に冷やしたほうじ茶もついている。
肉と同じぐらい分厚い笑みを貼り付けたこの男は食えというのだ。
「僕の奢りです」
ただ飯は嫌いじゃない。知樹は箸を割った。
朝食ぶりのエネルギーと塩分、そして油分に身体が歓喜する。
これでこそ食事だ。成分を固めただけのパサパサブロックなぞ、ただの栄養補給に過ぎない。
「で。お話にも応じてくれると嬉しいんですが」
一切反応を返さず、ただ目前の食糧に食らいつく。
丼から米粒一つも残さず平らげると、ようやく知樹は食事目的以外で口を開いた。
「ご馳走さんです」
「お粗末さまです。で……」
「いつも通りっすよ。肉体錬成の最中、変なの見つけて追っかけたら、ああなった」
行きは徒歩。羅刹山を登頂し、帰りはバス。毎月一度はやっている鍛錬である。
「新人研修はまぁ結構っすけど、もうちょっと体力つけさせた方がいいっすよ」
「すみませんね、気を使わせちゃって」
知樹が自宅を出てからすぐ、自動車から尾行を受けている気配を察知していた。
羅刹山からは徒歩で追尾してくる人影があったが、少なくとも一人が脱落。以降は後を追う気配はなかった。
そう、これはハンナの事件に関する取調べではない。
「では本題。お父様から連絡はありました?」
「まったくないっすよ」
知樹は表情一つ動かさず答えた。
彼の浮かべる表情の脱力も自然で、嘘をついているのか事実を言っているのか。
その判別は極めて困難なものだった。
「お父様の友人は?」
「ねーっすわ。いい加減諦めた方がいいっすよ? 俺よりも、アカとかズールーみたいなカルト連中見張った方がいいって」
背もたれにもたれ掛かると、天井を見上げる。
粗末ながら破壊防止の格子に囲われた照明。面白みのない世界だった。
相も変わらず、相対する眼鏡男は表情を崩さない。
絵に描いたような笑みを顔面に貼り付け、知樹の姿を見守っている。
全てを知っているような、あるいは何も知らないような。
そんな掴みどころのない容姿だった。
「こっちも聞きたいんすけど」
「なんでしょう」
向こうの質問が終わったタイミングを見計らって、身を乗り出す。
知樹としては、こちらが本題だった。
「やっぱり被疑者は
「あいつら、とは?」
「とぼけちゃって。
それは、存在しない空想上の組織だった。
外宇宙人に協力する世界各国の権力者によって構成される秘密組織。
少年少女を中心に、人々を誘拐・洗脳して手駒にする。
一部の人間は、この存在を確信していた。
幕内知樹もまた、その一部だった。
「外国人が誘拐されかけたからって、外務の役人が現場に来るわけがない」
自身を納得させるように、得た情報を口から漏らす。
内心、疑問に思っていたところがあったに違いない。しかし、目前で妄想を肯定する事件が起きてしまった。
「ああ、無理しなくていいんです。DSの連中に聞かれたら、あなたの立場が危うい」
ありもしない事情を察知し、知樹は相手に同情した。
彼の中の設定では、公務員の多くはDSに
「親父の言ってた通りでしたよ。やっぱり
知樹の表情に、初めて安堵と歓喜が浮かんだ。
安堵は危うく
歓喜は強大な
多感な心を持つ少年に、最悪の事故が起きていたのだ。
「それについて、特にコメントはしません。お父様のことで何かあったら、こちらへご連絡ください」
そう言って、眼鏡の男が差し出したのは一枚の名刺だった。
『
彼の名と携帯番号、メールアドレス以外何も書かれていない異様な名刺。
それは、知樹が幾度となく渡されているものだった。
「もう覚えてるんすけど」
「全部破って捨てたんでしょう?」
この返答は初めてだった。対応に関しても、完全に図星だった。
思わぬ動きに、わずかに動揺を見せる。
「ま、出会い系とかに登録しないでくれたのには感謝してますよ。お話は以上です」
仁が促すと、部下が扉をノックした。外にいる人間が、この合図で開くのだ。
ズズズと音を立てて重い扉が開く。
釈然としない。新たに生まれた心の霧をかき分けながら、知樹は退室した。
部屋に残されたのは、仁と部下の二人。
「いいんですか?」
「どうしました」
「傷害とか殺人未遂で引っ張った方がいいのでは」
「監視の目は一つではないので」
俺を追っている奴には全員気付いてたぜ。
それは、知樹の自信過剰だった。
新人研修の他にも、彼を追尾する人間はいた。
それでも十分拘留できる余地はあったが、状況が対応を難しくさせていた。
「それともう一つ。あいつらDSにしちゃってよかったんですか?」
「いいんですよ。だって……」
部下からの指摘に、仁の浮かべる笑みが変質した。
「その方が面白い」
愉悦。
この先に彼を待ち受けるであろう苦難と絶望を想起して、彼はこの世で最も価値ある感情を覚えていたのだった。
「趣味悪」
部下の呟きに、仁はまた違う笑みを見せるだけだった。
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