SAVE.104:君との出会いを、君との日々を④

 結論から言うと、俺は殆ど眠れずに見張り番を務めていた。よくよく考えれば最初は殿下が見張りをしているのだから、眠りにつくのが早い姉貴の心配はいらないな。と気付いたのも束の間。俺はもっと重大な事に気付いてしまったせいである。


 隣で、クリスが、寝てる。


 眠れる訳がない。隣で彼女の小さな寝息を立てているというのに、俺が気にならない筈もなく、ただ悶々としているだけで時間が過ぎ、あっという間に交代の時間が来てしまったのだ。


 見張りといっても所詮は演習、敵が攻めてくる訳でもない。特にやることもない俺は焚き火をして過ごす事にした。戦場であれば焚き火なんて敵に自分達の居場所を知らせる自殺行為そのものだが、こういう森の中では動物除けになるので必要な事ではある……なんて自分を正当化してみるものの、結局は暇を潰したいだけだ。


 いよいよ焚き火も飽きて紅茶でも沸かそうとしたところで、テントからクリスが出てくる気配に気付いた。


「お疲れ様」


 毛布を肩にかけながらやってきたクリスが、そのまま俺の隣に座る。ポケットから懐中時計を取り出して時間を確認するも、決められた時間にはまだ早かった。


「交代には早くないか?」

「目が覚めてしまってね……それにテントで横になるだけなんて退屈じゃないか」


 小さく笑うクリスの視線が、焚き火でお湯を沸かしていたポットに向いた。起き抜けの体にはまだ堪える気温なのだろう。


「飲むか?」

「お願いしようかな。砂糖多めで」

「了解っと」


 無言のまま二人分の紅茶を用意する。会話はない、けれど気まずさはどこにもなかった。自然の中で風のように流れる時間が、炭化した薪がじんわりと熱を放ちながら輝く熾火が、隣に彼女がいる事が。


 ただ、心地よかった。


「ほら」

「ありがとう」


 用意できた紅茶を手渡せば、彼女は指先を温めるようにカップを優しく包み込む。それから一口だけ紅茶をすすると、空を見上げながら真っ白い息を吐き出した。


「綺麗な夜空だね……」


 溢れるような一言をクリスが漏らす。月と名前の知らない星座が散りばめられた満点の星空が広がっていた。


「だな」


 けれど気の利いた台詞一つ浮かびやしない。自分の貧弱な語彙力と気配りの出来なさが思わず嫌になってしまう。だから口から出た話題は、必然的に今日の事で。


「さっき、夢を見たよ」

「……どんな?」


 微笑みながら彼女が聞き返す。焚き火と月明かりに照らされたその笑顔に、思わず心臓が跳ねてしまう。


「クリスと出会った時の夢」

「ふぅん……」

「あの時は決闘だ決闘だってうるさかったよな」

「なぁんだ、そっちの方か」

「そっちって何だよ」


 少しだけ残念そうな顔をしてから、クリスがもう一度夜空を見上げる。また無言の時間が流れてから、ようやく彼女が口を開く。


「本当はね」


 か細い、消え入りそうな声で彼女は続ける。


「僕と君が初めて出会ったのは……あの時じゃないんだよ」

「そうなのか?」


 心当たりは――悪いがどこにもなかった。もしかしたらどこかで出会ったのかもしれない、という疑念すら浮かばない程だ。孤児になる前? それこそあり得ない話だろう。


「仕方ないけどね、君は忘れっぽいんだから」


 ほんの少しだけ責めるような言葉に、思わず彼女から視線を逸らす。


「ねぇアキト」


 クリスが俺の名前を呼ぶ。何度も何度も呼ばれてきたそれとは違い、少しだけ艶っぽい声色で。


「決闘しようか。今から」

「何だよいきなり」


 あまりに唐突な事を言うから、どこかの王子様をつい思い出してしまった。


「ルールは簡単。君が驚いたら負け」


 ようやく彼女の顔を見れば、悪戯っぽい笑みを浮かべている。


「負けたらどうなる?」

「敗者は勝者の言うことを聞くっていうのはどうかな」

「出来ることにしてくれよ」


 何だよそれ、とは言わなかった。ようは驚かなければ良いんだろう、難しい勝負じゃないだろう。


「立会人は?」

「いなくても勝敗ぐらいわかるだろう?」

「それもそうだな」


 クリスが紅茶の入ったカップを地面に置くと、真っ直ぐと俺を見つめる。少しだけ潤んだその瞳から、今は目が離せなかった。


「じゃあアキト、始めようか」

「ああ、いつでも」




 ――完全なる不意打ちだった。




 彼女の動きは驚くほど緩慢だった。俺の頬に手を伸ばし、そのまま……触れるような小さなキスをした。


 驚いた、なんて言葉では済まされない。一瞬で顔が赤く茹で上がり、視線は彼女の唇から離れない。そんな俺を察してか、彼女の人差し指が俺の唇を優しく押さえつけた。それは首筋に剣を突き付けるよりも明確な勝利宣言だった。


「僕の……私の勝ち、だね」


 彼女の目から一筋の涙が流れる。それを拭おうとした俺の右手を伸ばすも、彼女は小さく首を横に振った。


「私が勝ったんだ、お願いを聞いて貰っていいかな」

「あ、ああ……」


 何をしろと言われるのか。お預けを喰らった犬のように、俺はじっと命令を待つ。そして下された勝者の命令は。




「今の事は……忘れて欲しいんだ」


 


 あまりにも、残酷だった。


「私が君にこうした事を、一緒に夜空を見上げた事を、他愛のない毎日を笑って過ごしていた事を……忘れて欲しいんだ」

「……出来るわけ無いだろ」


 俺は首を横に振った。無理だった。脳髄に叩き込まれた彼女の唇の感触は、輝く星を見上げた事は、隣に彼女がいた日々は。


 彼女の事は全部、忘れられる訳がない。


「駄目だよ。約束……だからね」

 

 それでも彼女は、涙を自分で拭いながら命令をする。


 それから暫くの間、俺達はまた無言になった。ポケットの中の懐中時計だけが、無慈悲に終わりへと針を進める。少し温くなった紅茶の残りも、もう少なくなってしまう。


「ところで、いつから私が女だって気づいていたんだい?」


 不意に放った彼女の台詞に、思わずむせて咳き込んだ。


「わかりやすいなぁ、君は」


 また小悪魔みたいな笑顔を浮かべて、クリスが小さく笑い始める。それから名残惜しそうに時計を眺めて、またポケットの中に戻す。


「交代の時間だね」

「そ、そうだな……」


 まともに顔を合わせられないまま、俺はゆっくりと立ち上がる。


「おやすみアキト」

「ああ、おやすみクリス」


 そんなありきたりな挨拶を残して、俺は逃げるようにしてテントに戻った。横になり、毛布を頭から被ったところで唇の感触がまだ残っている。


 忘れる、俺が、クリスの事を? 出来ない、出来るわけない。彼女と剣を交えた事を、いつも隣にいてくれた事を、デートをした事を、触れるようなキスをした事を。


 彼女と過ごした日々を、俺はずっと覚えている。何度も自分に言い聞かせれば、俺の体は沈むような眠りに落ちていった。

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