51/はるかなる夢の旅路





 意識は深く沈むように。


 しばし記憶は底へ向かって遡行する。


 人的なひとつの宇宙せかい

 ひとつの根源はじまり


 彼女はわずかに、揺蕩うような夢を見ている――――







 ◇◆◇







 鼻孔をくすぐる懐かしい匂い。

 ちいさく連発する微かな描画の音。


 見れば、彼女はひとりの背中を見ていた。


 二十歳にいくかいかないかというぐらいの青年だ。


 性別はおそらく男子。

 姿形はラフなもので、同年代と比べると幾分細く頼りない。


 彼はキャンバスを前に筆を走らせている。


 その動作は淀みない。


 なにをどう描くか迷うような素振りはまったくなかった。

 すでに在るモノをなぞるみたいに色彩は重ねられていく。


 いつかに過ぎていった日常の一ページ。


 そんな場面だけ切り取れば、誰もが彼を天才と讃えるのだろう。


 けれど実際は違う。


 彼の素質はその程度の生易しいワケがないと。

 ずっと傍で見てきた彼女は知っていた。



 ――その身体は普通動かないものだ。

 杖が、あるいは車椅子がなければ移動もままならない。



 ――その手は本来使い物にならないハズだ。

 箸を握るときすら震えているくせに、一度筆をとれば痺れもなにもピタリと止まる。



 ――その命はすでになくなっていたところだ。

 一年経っておおよそ衰えながらも、絵を描くときだけは常に動きは洗練されていた。


 彩斗おとうとは絵の天才だった。


 それは間違いない。

 彼女自身に美的センスが備わっていなくてもそのぐらいは分かる。


 ……ああ、しかしながら。


 壊れかけの血肉を引き摺ってまで作品を生み出す執念を、一体どこの誰が奇跡と呼んで尊ぶものなのか。











 ……場面は切り替わる。


 彼女は喪服を着て闇の中に立っていた。

 手には先ほどまで動いていた誰かの遺影。


『どうか一枚、お譲りいただくコトはできませんでしょうか』


 知らない声が響いていく。

 耳障りなノイズじみた、砂嵐のような雑音。


『お金ならいくらでも出します』

『彼の作品は素晴らしい』

『こんな才能が埋もれたままだったなんて!』

『評価されないはずがないでしょう』

『是非私どもの開く美術展で――――』


 蠅か虻蚊のようにうっとうしい、てんでうるさい話。




『――きっと彩斗さんは、絵を描くために生まれてきた神童なのですね――』




 ふと、

 そんなふざけた言葉を聞いた気がした。


 彼女は静かに俯いている。

 いつまで経っても喪に服している。


 顔を上げずに眼前の何物かを認識しようとすれば。


 必然、睨むように黒瞳だけが上を向く。


『死後評価される画家は少なくありませんから』

『若くして散った天才というのもそうです』

『彼の才能は間違いない』

『きっと後の世まで名前が残るでしょう』


 ――なにを言っているのだろう、と思った。


 彼女にはその言い分がさっぱり分からない。


 評価されるのが良いコトなのだろうか。


 わずかしか生きられなかったのがそんなに大それた事実か。

 たかだか絵の具を塗りたくられただけの布がそこまで良いものか。

 名前が残るのがそうもエラいコトか。


 分からなかった。


 事実、彼らは知らないのだろう。


 家に帰ってきてからも彩斗おとうとの身体は死に行く道から外れなかった。


 食欲はどんどん減る一方。

 どころか食べたとしてもよく吐き出すぐらい。


 顔色は良いときなんてなくて、身体はみるみる細く痩せていく。

 自分の力で歩けるときなんてほんのちょっとだった。


 なのに絵を描くときだけは力強さが戻る。


 ……正直に言ってしまえば、彼女はそれが不気味だった。


 怖かった、嫌いだったと言っても良い。

 ともすれば彩斗おとうとを殺したのが絵画それなのではと思うほどに。











『……陽嫁』

『――――もう、イヤだ。イヤだよ、私。こんなの』

『大丈夫だ。彩斗の絵はなんとか守る。もう今回限りだ、だから』

『っ――――――』


 短命を決定づけられるほどの天賦の才能。

 並大抵ではおさまりきらない人々を魅了する画力。


 ……繰り返すように。


 画家、翅崎彩斗は間違いなく天才だった。




 ――――でも。


 けれども。


 そうやって持ち上げる誰かは、彼の人となりを知っているだろうか――――?











『ありがとう、姉さん』



 場面は切り替わる。


 彼は笑っている。

 彼女はその様子を、喪服のままに遠くから見ている。



『ふふ、くすぐったいよ』


『姉さん。これ美味しい、また食べたい』


『――おはよう姉さんっ、どうどう!? 制服似合ってる!?』


『おー! 姉さんもスーツ似合ってるね! 凄い! 綺麗! 美人! 素敵だ!』


『姉さんはねー、もう最高でねー……? え、なに……、……っ!? ちょっ、なんで聞いてるの!? 居るなら言ってよもー!!』


『あはは……ごめんね姉さん。父さんも。迷惑かけちゃって……』


『ううん、大丈夫。この程度、母さんとの生活に比べたら全然マシだからねー』



 絵が上手いのはあくまで彼の特技だ。

 売れるモノが描けるのはひとつの才能だ。


 それは全体を構成する一部であってすべてじゃない。


 そのために早く死ぬなんて間違っている。


 ……ああ、そんなものだというのなら。


 絵が描けるせいで彼が死んだというのなら。

 そんな才能、彼女は持っていてほしくもなかった。


 ただ、もっと。


 ずっと。


 楽しく、幸せに。


 長く、生きて欲しかったのだ――――














『姉さんは、なんというかお日様みたいに笑うよね』



 それは彼女のコトでありながら。

 同時に、彼女自身を表してはいない言葉だった。


 太陽みたいというのならきっと彼がそうなのだろう。


 嬉しかったのは彼がいたからだ。

 輝けていたのは彼のために頑張ろうと思っていたからだ。

 笑えていたのは彼が笑顔をみせるからだ。


 そんな自分で在り続けられたのは彼という見せる対象が居たからだ。


 ……なんてことはない。


 ずっと昔から。

 ともすればこうなる前から。


 純粋で、眩しくて、きらきらしていて、偏に真っ直ぐで。


 周りを照らしてくれたのは――――彼だった。




『よしよし、愛いヤツめー。このこのー』


『お姉ちゃんをなめてもらっちゃあ困るなー?』


『彩斗ー! さいこー! らぶりーまいえんじぇー! 愛してるぅー!』


『ところで貴女はうちの弟とどういう関係で? うん? ……ふふっ、いやー、彩斗も隅に置けないねぇー? 色男だねー』


『…………大好きだよ、彩斗』



 その言葉に偽りはない。

 心底から彼女は彩斗おとうとのコトを好いていた。


 でもそれはあくまで家族として。

 血の繋がった姉弟としての愛情だ。


 決してそういう関係を望んでいたんじゃない。

 そうなりたいと願っていたワケでもない。


 彼が女の子と仲良くなったとしても、そういうコトもあるだろうと思って。

 むしろそれが悪くない相手なら応援したいぐらいの気持ちで。


 いつか当たり前の幸せを掴んでほしいとすら考えていた。


 ……結局、そのお節介が叶うことはなかったが。










〝――――ごめんね〟



 視界は眩む。

 意識は点滅する。


 首にはぎゅう、と締め付けるもの。


 細く吊された身体が千切れるように引っ張られて。



 〝いま、いくから〟



 ばつん、と画面が消えた。



















 それが一度目の終わり。


 そして、願いもしなかった二度目のはじまり。



『――――ゆきの、なぎさ』




 何の因果か記憶を引き継いで生まれ落ちた彼女は、所謂過去ぜんせでいう乙女ゲームの主人公そのものだった。

 以前の彼女自身が遊んだコトもあるだけにそれはすぐ分かった。


 だからといってはしゃげるほどの気力も、喜べるほどの温度もなくしていたけれど。



『なーちゃん! 外、めっちゃ天気良いから外いこう! パパと遊んでくれーっ』

『…………え』

『どうしようママ。もうなーちゃんが反抗期だ。泣きそう』

『あなた。たぶんシンプルに構い過ぎてるからよ』

『なるほどそっちかー……ッ』

『あっちもそっちもないわよバカなの?』



 それでも貰った分だけ輝けるのは彼女本来の素質。

 弱く、緩く、仄かに――ともすれば亀よりも遅い歩みだったが、少しずつ当たり前に歩いて生きていく力は取り戻せた。


 ……当然、前のように明るく振る舞うコトはできない。


 多少の感情の機微は表せてもそれまで。

 彼女のそれは表にでないのではなく、センサーが壊れているからだ。


 だというのに苦労なく過ごせたのは、周りに支えられてか、それとも彼女が優希之渚ヒロインだったからか。


 小学校、中学校は引き摺るような暗さで過ごしていた。

 その中で少しずつ治っていった心は前を向こうとして何度も躓く。


 過去は重く。

 痛く、辛く、苦しく、悲しく、


 なにより深い後悔と未練に塗れた泥だ。


 そうそう立ち直りようもない。


 頭を押さえつけられて沼に沈められるような感覚はいつまでも付きまとった。






 ――――あの日。


 適当に決めて通うコトにした塾の自習室で。


 彼と、出会うまでは。







『あの』



 なんて。

 思い返せば露骨にもほどがある声のかけ方をしたのが付き合いのはじまり。


 話しかけた理由はなんだったか。


 たしか彼女がひとりで居るときに彼も教室へ入ってきて。

 それで――――不意に気になって目を向ければ、難問を前にうんうん唸っていたからだ。


 ……振り返ってみれば、なるほど。


 たぶん、そのときから感覚はあったのだろう。



『俺は水桶肇って……言います』

『……なんでいきなり敬語?』

『なんで、だろう……?』

『……まぁ、いいのかな……水桶くんね。……やっぱ、違ったのか』

『?』



 なにが違うかは言うまでもなく彼の外側のコト。


 記憶にある原作ゲームには少年の姿はなかった。

 水桶肇、という名前すら出てきたためしがない。


 現在いま場所せかいが件の原作ゲームを基にしているなら名もなきモブというコトになる。


 それは優希之渚にとってどうなるコトもない相手。

 最初に思ったのは、彼との付き合いで将来的な立ち回りの練習にでもなるかな、といったぐあいの、打算にまみれた関わり合いだった。





 ――そんなものは、ほんの数ヶ月で跡形もなく崩れたが。








『別に、良いんじゃないかな』



 決定的だったのは六月半ばの雨が降っていた日。



『人間なんだし、後悔するのは当たり前だし。心に残ってるなら、引き摺って当然だと思う』



 生前のクセを発した彼を前にして、絶大な隙を見せたとき。



『……上手く言えないけど。いつ後悔が消えるとか、割り切れるとか、分からないよそんなの。もしかしたら明日、ちょっとした切欠で軽くなるかもしれないし、もっとずっと先まで抱えていくのかもしれない』



 塾帰りに立ち寄った寂れた公園の休憩所。

 降りしきる雨が屋根を叩くなかで、なにより彼の言葉が彼女の胸を叩いたのだ。



『ならそれまで抱えていて良いんじゃないかな。無理して切り替えなんかしなくても。いつかなくなるまで、思っていても良いと思う』



 ――なにも変わらない。


 それは彼だと分かっていなかった時ですら響いたものだ。

 彼だと判明したいま、衝撃は薄れるどころか膨れ上がっている。



『だって、長く引き摺るのは大切な証だ。たぶんそれだけ大事ってことだ。簡単にどうにかできなくて当然だよ。だったら大切な分だけ、大事な分だけ抱えていても良いんじゃない』



 そう。


 彼はどうなったって。

 いつだって。



『それでいつか――本当にいつか、どこかで、上手く折り合いをつける日が来たらそれで良いんだ。……ううん、来なくてもいい。だって、大切なものを抱えて生きたんだから。そこまでの毎日が駄目なワケでも、無駄になるハズもないんだから』



 日の光が差すように笑っていた。



『大事だから、痛いんだ』








 翅崎彩斗はたったひとりの弟だった。

 血を分けた大切な姉弟だった。


 だから愛しい。

 好ましい。

 大事にしたい。

 笑ってほしい。


 幸せになってほしい。

 幸せだと感じていてもらいたい。


 失いたくない、失ってしまえば悲しい。






 ――――じゃあ、肇は?


 そんな疑問に、渚は上手く答えられない。


 彼と紡いできた時間はなにひとつ欠けるコトなく素晴らしい。

 血が繋がっているわけでも、家族として過ごしたのでもないけれど大切だ。


 だから愛おしいと思う。

 好ましいと思う。

 大事だと思う。

 笑った顔も素敵だ。


 幸せになるならそれが良いだろう。

 幸せだと感じるならそれが一番だろう。


 当然失いたくはない、失ってしまえば絶対に悲しい。


 なら、彩斗おとうとみたいに誰かと親しく過ごす姿を、彼女は大人しく見ていられるのか――?



 〝――――――――…………、〟



 ……無理だ、そんなの。


 できるワケがない。


 だって嫌だ。

 彼のことが好きだ。


 他人に渡したくなんてない。


 わからない。


 ぐちゃぐちゃの紐を引っ張れば、スルスルと悩みがひとつずつ抜けていく。



 愛おしい、好ましい――その通りだ、異論はない。


 大事にしたい――それ以上に大事にしてほしい、大事だと思われたい。


 笑ってほしい――でもそれは私の前だけがいい、私だけに笑ってほしい。


 幸せになってほしい、幸せだと感じてもらいたい――いやだいやだいやだ、私の隣で私と一緒じゃないとそんなの祝福できない。




 ――――どうして?




 わからない。


 感情は複雑に絡み合って解答を隠している。


 彼の優しさはとても温かくて。

 誰かと話す姿を見ると苦い気持ちで。

 なにかと恥ずかしくてなんとも言えない酸っぱさで。

 でもこっちを見てくれるだけで甘くなる。


 そんな味。

 そんな感覚。


 願うだけじゃない。

 見ているだけじゃない。


 親愛とは違う。


 恋心が望むのはもっと深く。


 その笑顔は傍で見たい。

 歩くなら隣がいい。

 一緒にいたい、手を繋ぎたい。

 近付きたい、見つめ合いたい、触れ合いたい。



 ――――、だって。


 ほんとは、やっぱり、してみたい。



 ああ、嫌だ。


 本当にどういうワケか分からなくなる。


 彼が欲しい。

 彼といたい。

 彼がいい。

 彼じゃなきゃダメだ。


 だって、彼女はそれぐらい、


 どうしようもなく――好きであって。




 怖いのは、その感情がどこから出てきたかというコト。



『〝陽嫁〟』



 その名前は誰かの口から最も聞きたくて。

 誰かの口から最も聞きたくなかった。



『この絵のタイトルは、〝陽嫁〟っていうんだ』



 そう言われたときの表情を見られなくてよかったと、いまになって渚は思う。


 なにせ絶対酷い顔をしていたハズだ。

 でもなければ死にかけるほど顔色は悪かったろう。


 そんな表情は見られたくない。

 見せたくないのではなく、見られたくない。


 そのあたりも、よく、わからない。






 ――彩斗おとうとは好きだ。


 抱き寄せて、触れ合って。

 わしゃわしゃと頭を撫でて、一緒にご飯を食べて、お菓子を分け合って。


 それはもうとことん甘やかしたいぐらい。






 ――かれは好きだ。


 抱き寄せるなんてできないけれど、触れ合うのも恥ずかしいけれど。

 頭を撫でてもらうのは良くて、一緒にご飯を食べるのも嬉しくて、お菓子を分けてもらえると心は弾む。


 とことん甘やかされたら、脆く弱い彼女はきっとでろでろに溶けてしまうだろう。






 ……何度も少女は問いかける。




 ――――それは、どうして?














『大丈夫』



 夢の中で仄かな温もりに触れる。


 彼女は為すがままに撫でられていた。

 複雑な心境は、まだまだ解ける様子がない。














『――ねえ、彩斗』


 ふと。


 急に懐かしい記憶を掘り起こした。


 遠い遠い昔の話。

 時期はたしか九月か十月頃。


 綺麗に浮かんだ月を、彩斗おとうとと見たコトがあった。


『なに? 姉さん』

『――月が綺麗ですね?』

『……? うん。そりゃ、まあ。満月だし』

『ぶっぶー。不正解です、違いまーす』

『え』


 ちょうどリビングの窓から。

 ふたりして座って、彼女は後ろから彼を抱き締めて。


 彼はすっぽりと彼女の身体の前におさまりながら。


『アイラブユーだよ、アイラブユー』

『姉さん。俺、この前の英語は三十二点だよ』

『うーん微妙だね! でも赤点じゃない! えらい!!』

『赤点ラインは四十点なんだけど』

『三割は取れてる! すごい!!』

『姉さんは優しいねー……』


 他愛もない話も混ぜながら夜空を見上げる。


 雲に囲まれて鮮やかに浮かぶ、玻璃のような白い月。

 記憶のなかでも見事なら実際はもっと綺麗だったのだろう。


『私はあなたのコトが大好きなんです。あなたを愛していますってコト! まあ、私が彩斗にいうのもちょっと違うんだけどねー!』

『姉さんは俺が好きじゃないのかー……』

『違う違う違う! そうじゃなくて! そうじゃなくってね!? なんていうか、こういうのってアレだよ! 告白とかでよくあるの! うん!』

『ああ、そういう。へぇ……』

『少女漫画とか恋愛小説でね!』

『姉さん?』


 だからそれは間違えようもない。

 捉えるにしても勘違いのない言葉の意味だった。


『もしも好きな子とか、恋人、彼女? ができたら言ってみると良いかもねー? ちゃんと伝わったら凄くロマンチックだよ?』

『月が綺麗ですねって?』

『そうそう。ちなみに私死んでもいいわ! って返ってきたらもう最高だよね! きゃー! どうしよー! お姉ちゃんそういうの弱いのー!!』

『うん。ちょっと苦しいよ姉さん。そういうところあるよね』

『わぁー! ごめんごめんごめん!』











 ――――なら、あれは。



『ね、



 かれ彩斗かれだと分かったいま。


 あの意味は――――



『今夜は月が綺麗なんだ』






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