44/水の旅路における試練
ロビーは明るい、自然の光で満たされていた。
大きな天窓から降り注ぐ日差しは溢れんばかりに届いている。
今日みたいな晴れの日はそれだけで気持ちが良いもの。
設計思想としてもそこが肝心なのか、室内の照明はあまり見当たらない。
せいぜいが壁にぽつぽつと埋め込まれているぐらいだ。
「……い、意外と人、いるね……」
ぐるりとロビーを見渡す渚。
その顔が赤いのは言うまでもなくこの短時間で彼に振り回されたからだろう。
熱はまだぜんぜん抜けきっていない。
むしろ肇が隣に居るせいで徐々に上がってさえいた。
休日に男女ふたりで水族館、というシチュエーションがスリップダメージを生んでいる。
もはや彼女にとってここは火山か八大地獄かといったところ。
誰かに
「土曜日だし、まだオープンして日が経ってないからね」
「た、たしかに……で、でもそれなら、近所の……駅前の水族館でも良かったんじゃ、ないかな……?」
あはは、と無理に笑いながら渚は肇のほうを見る。
別になにか思うところがあってのコトではなく、苦しまぎれに吐き出した言葉が故だ。
白状しよう。
ぶっちゃけ今の渚はこうして冷静に喋っているだけでも相当に精神を削られている。
そりゃあもうごりごりがりがりと、岩塩を削るがごとく磨り減っている。
なにせ胸の内側は初球からストライクバッターパーリーピーポーバイブスアガって最&高――――みたいなお祭り騒ぎ。
理性はそのあまりにもショッキングな
必死の説得にも応じず、心の
「まぁ、水族館に行くだけならそうなんだけど」
「だ、だよねー……」
「どうせなら楽しみたいし。新鮮味あったほうが良いじゃない? 俺も渚さんも」
「――――ごめんやっぱり呼び方戻さないカナ??」
「じゃあなーちゃんで」
「それはやめてまじでやめてほんとにやめておねがいだからやめて」
「そんなに恥ずかしがらなくても。可愛いよ、なーちゃん」
「やめてっ……ほんとに……っ!」
〝私は死ぬ〟
渚の残機はひとつ減った。
あといくつあるかは彼女自身も分からない。
脳内では土管から出てきた己が「とぅっ!」と元気よく跳ねている。
「じゃあ、渚?」
「――――――――」
死んだ。
有無を言わせない着地狩りだった。
地面に降り立った硬直を狙い撃つような一撃。
わずか五秒足らずの儚い生涯を散らして脳内
またもや残機はひとつ減った模様。
この調子だと水族館を出るまでどれだけ死ぬか分かったもんじゃない。
いや、こう、精神的に。
「…………さん付けでお願いします……!」
「ん、渚さんね。ほら、そっちも。カップルだから」
「よ、余計なコト言わないで……! みっ――は、はっ――は……、は……!!」
「…………、」
「はじっ……はじめ、くん……っ」
「ぜんぜん慣れないね」
「う、うるさい……っ!」
先ほど復活したばかりの優希之X
ゲージとかバーみたいなものがあればミリで残存。
たぶんきっと彼女の頬っぺた同様真っ赤になっているコト請け合いだ。
優希之渚を支える精神エネルギーは肇の前では急激に消耗する。
精神エネルギーが残り少なくなると彼女の意識は点滅を始める。
そしてもし、意識が消えてしまったら優希之渚は二度と再び立ち上がる力を失ってしまうのだ。
渚ちゃんがんばれ。
「ふふっ……じゃあ、行こうか。渚さん」
「………………、」
自然と差し出された手を取って、彼のあとに着いていく。
やはり機嫌が良い。
おまけに火力もえらく高い。
こんなのは不公平だ、納得いかない、と少しむくれる渚である。
どんなに胸を高鳴らせようと彼女は彼女で肇のコトを理解している。
現状にしたってどうせいつもの天然ボケ。
その気もないくせにこちらの心をかき乱すだけの暴力じみたスキンシップだ。
焦り逸って慌てふためく渚とは違い、彼は満面の笑みを浮かべたまま歩いていく。
握った手を大事そうにぎゅっとしめて、優しく指を絡めながら。
(…………なんなの、もう……)
不満のひとつも出てくるというもの。
余裕がないのは彼女だけで、彼は事も無げにしているのだから当然だ。
――どうして私だけ。
そんな勝手なコトだって思ってしまう。
ふたりの間柄はなんでもないものなのに。
恋人でもなければ
それはともすると、同じ塾に通う勉強仲間――という肩書きより弱く思えて。
(………………っ)
つきん、と胸の奥に針がさす。
思わず微かに顔をしかめる。
心の奥、心臓の裏側を突いたのは痛くはないけれど無視できないトゲそのもの。
触れれば表情が歪む、小さな小さな傷跡だった。
……その心情に引っ張られるように。
歩みは進む。
光のあたるロビーから薄ぼんやりとした水槽の群れへ。
手を引かれながら、彼女はともに短い水中の旅路へ踏みだした。
◇◆◇
展示スペースは暗い、静かな雰囲気を漂わせていた。
最低限にとどめられた人工の明かり。
鮮やかにライトアップされた大小様々な水槽。
騒がしさはあまりない。
見たところ家族連れやカップルが結構いるものの、館内の喧噪は抑えられている。
ここでの主役は水の中。
それを外から眺める客人は端役にすぎない一部分。
――こつこつと、ふたりは揃って進んでいく。
「新しいだけあって綺麗だね、やっぱり」
「……まあ、たしかに……」
「…………渚さんは水族館嫌い?」
「嫌いじゃ、ないけど……なんで……?」
「唇がとんがってるから」
「………………別にっ」
気にしなくていい、と渚はそっぽを向いた。
いまこの場においてはまったく関係ない事情。
わざわざ話題にあげるまでもない胸中の問題だ。
折角胸に秘めたそれを掘り起こすなんて真似はいけない。
ぶんぶんと頭をふって彼女は気分を切り替える。
……そんな風に意識が己の内側へ向いていたからだろう。
幸か不幸か渚はまったく気付かなかった。
それを見た彼が気遣うような視線を向けたコトも、困ったように眉尻を下げたのも。
てんでさっぱり気付かないまま。
「あ、クマノミ」
「……ほんとだね」
「渚さん好きでしょ? こういうの」
「えっ……な、なんで……?」
「違うの?」
「……あ、合ってる……けど……」
「やっぱりね」
くすくすと肇が笑う。
たしかめるような問いかけは確信に近い響きを持っていた。
予測や推測とはまた違った、決まった解答を望んでいる感じ。
どうしてなのか渚には分からない。
ただ、嬉しそうに微笑む彼の表情は変わらず印象的だ。
普段から笑顔の絶えない少年ではあるけれど、だからこそ笑った顔はよく馴染む。
「渚さんなら多分そうかなって思ってた」
「…………、なにそれ……」
「まあ、思ったのは最近なんだけど」
「ふーん、そう……」
「ちなみにクラゲとかは苦手だったり」
「だっ、だからなんで分かるの……!?」
「さあ、なんででしょう?」
口元に手を当てて彼は嬉しげに笑みを深める。
脅威の的中率はさしもの渚もそら恐ろしいものを感じざるを得ない。
少なくとも彼女の記憶では一度も言ったコトはなかった事実だ。
本来なら知られているはずもない好みの話。
それを一発でビンゴを引いたというのだから運が良いにもすぎる。
……かといってじゃあ何を疑うのか、と聞かれるとまた困るのだが。
無いとは思うけれど一先ずモーションだけ、ジトッとした目を肇に向けてみる。
「……探偵でも雇ったの……?」
「? なにか大きな事件とかあったっけ?」
「あ、それは違うんだ……」
「??」
「……現実の探偵はそういうのじゃないよ、たぶん。みなっ――はじめ、くん」
「…………、」
「やめて。なにも言わないで」
返すように猫みたいな目を向けられて視線を逸らす渚。
私は悪くない、スムーズに移行できている彼のほうがおかしい、と内心で持論を振りかざすがあまり自信はなかった。
大体どうしてさらっと「渚さん」呼びを定着させているのか。
もともとそう呼ぶ気が前からあったのか。
そのあたりぜんぜん知らない彼女だが、だとするとちょっと、まあ、なんというか、アレコレと考えてしまったりする。
何度も言うが流石に一年ちょっとの付き合い。
こうして遊びに来るまでの仲だというのに、ずっと名字で呼び合うのもなんだかなあと。
「……渚さんは恥ずかしがり屋だよね、意外と」
「い、意外とってなに……?」
「ううん。こっちの問題。大丈夫、ちゃんと分かってるから」
「分かってるってなに……!?」
「渚さんは渚さんだってコト。あと、俺も俺だってコト」
「――な、なにそれ……ほんとう……」
意味が分からない、と渚がぼやく。
そんな彼女に肇は緩く笑いかけるだけ。
モノにしろヒトにしろ、時間の経過により変化はあって然るべき。
自然の中でも劣化に老化、進化に退化と忙しない有り様だ。
人間社会においてもそれは同じコト。
様々な事象、感情の荒波に揉まれるココロは石みたいなもの。
それはときに削れ、
ときにひび割れ、
ときに尖り、
ときに丸みを帯びながら、
ああでもないこうでもないと形を変えて転がっていく。
「俺にとって君が素敵な女の子だってことだよ」
「…………………………ぇ?」
「渚さんは綺麗だねっていう意味です」
にこりと微笑む天然純朴青少年。
カチッと固まる銀色の神の少女。
カウントダウンは程なくして。
――ぼんッ、と赤くなった渚の顔がこれでもかと雄弁に物語っていた。
時間差で爆発するタイプの榴弾である。
渚の残機はもう十二個ほど一気に消し飛んだ。
たとえ彼女が
「――――ッ!? へっ!? あぅ!? あ、えっ、っ?!」
「そこまで驚かなくても。何度も言ってると思うし」
「なっ、だ、でっ――い、いきなり! 言う……から……っ!」
「じゃあいまから言うけど」
「っ、ぇ、まっ、あ、ちょっ――――……、……ど、どうぞ」
なんとか心臓を落ち着かせて肇と向き合う。
すでに感情はもう保ちそうにないが、かといって断るのも惜しく思えてだ。
なんだかんだで渚も普通に人間の女子。
褒めてもらえるなら折角だし褒めてもらいたい。
相手が彼であるなら、余計に。
「優希之さんほど可愛くて綺麗な女子はなかなか居ないよ」
「 」
〝ぴぃっ――――――――〟
断末魔は心音の停止を告げるかのように。
雛鳥の鳴き声じみた心の慟哭をあげながら、渚の意識は蒸発した。
火照った顔からあがる湯気と共に天へとのぼっていく。
なんてコトはない。
今日この日が優希之渚の命日だ。
今し方そうと決まった。
いいや、もっと言うなら彼との休日に出掛けることになった瞬間から――
「あ、おーい? 渚さんしっかりー」
「……あ、お母さん……まだいたんだ……しぶといね……」
「どういう状況。――ストップストップ。それなんか変な幻覚見えてるよ。戻ってきて」
「――――はっ」
「……大丈夫? 渚さん」
「私は……世界で一番醜い女の顔を見たような……」
「ほんとに大丈夫それ。俺は切に心配になるよ」
具体的にいうと
「ご、ごめん。意識が飛んでた……」
「……え、急に?」
「……水桶くんのせいだよ」
「なーちゃん」
「――肇くんのせいだからっ!」
「よしっ」
うんうん、なんてどこか満足げにうなずく肇。
渚はそれに涙目で睨むコトしかできない。
乙女としてのせめての抵抗だ。
擬音にすれば「うぅう~」とか「がるるぅ~」みたいな感じ。
唸り声をあげる渚のワンちゃんは果たして猛犬となれるのか否か。
期待はちょっと薄めである。
「じゃあ、あっちの方にも行ってみよう。ピラルクとか、俺、見てみたい」
「…………あぁ、あの大きいの……」
「迫力あってよくない? 子供の頃に見てすっごい驚いた記憶がある」
「まあ、あれはね……」
そう言えば
ふたりの手は離れない。
絡み合った指はそのままぎゅっと握られるだけ。
彼女は無意識のうちにそれを受け入れた。
態度にした猛攻は捌けないのに。
いいや、捌けないからこそ、それだけは出来たのか。
……彼は意識してその温もりを連れていく。
いつかどこかであった昔話。
記憶の片隅、思い出の残滓にある景色はきっと真逆。
彼の心はいつだって変わりない。
もらいっぱなしの
その気持ちは〝渚〟を相手にしても同じものだ。
今までずっと、彼女にはもらってきたものがいっぱいある。
だから、そう。
それをちゃんと返せることが、肇にとっては嬉しいコトなのだ。
なにはどうあれ、姿形はどうあれ。
魂の奥に秘められた正体がなんであれ。
――だって。
これはシンプルな心の在処。
少年にとって悩むまでもない、結果よりも過程で確信したコト。
ああ、間違いなく。
勘違いでもなく。
――彼は。
肇は、
水桶肇は――
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