43/絶体絶命のアクアリウム
――そうして来るべき週末の土曜日、約束の日。
自宅付近の駅から電車に乗って三駅分。
数分間をレールの上で揺らされて、渚は目的地に辿り着いた。
その名を調色駅。
彼女らの住む町に隣接する、そこそこ大きめな地方都市の玄関口だ。
街にコレといって変わった雰囲気はない。
立地的にもごくごく近いからだろう。
根本的には渚たちの地元同様、特色もなにも薄い近代的な空気が広がっている。
強いてあげるなら
私立では地名同様の調色高校、公立でいえば彩盛高校などあるが、どちらも規模で言えば星辰奏に遠く及ばない。
ならば伝統や文化で、となるともうひとつ向こうの筆が丘に軍配が上がる微妙な具合だ。
そんな調色の町であるが、近年は議会の意向か自治会の努力の賜物か、細々としながらも徐々に発展を遂げている。
駅を抜ければ広々としたロータリー。
歩いて十分もしない範囲には
今回のメインスポットである水族館なんかはその最たる例だ。
先月オープンしたばかりの展示施設はチケットが取れないとまではいかないものの、未だに盛況であると聞く。
渚的にはそんなところへ二人で来ることになった時点で及第点だったのだが、おまけに向こうからのお誘いというのもあって満点をあげてやらんコトもない。
誇れ
(にしてもわざわざ現地の駅で待ち合わせって……)
一体どういう風の吹き回しだろう、なんて首を傾げる渚。
今までならふたりで出掛ける際、待ち合わせ場所は決まって件の別れ道だった。
肇の家からは少し歩く、渚の家からはとても近い慣れ親しんだ集合地点。
それが今回に限っては「向こうの駅で落ち合わない?」なんて言ってきたものだからそりゃもう彼女はびっくり仰天である。
なんなら目が飛び出るかと思った。
こう、ト○とジェ○ー的表現で。
(……まあ、水桶くんのコトだし……、深く考えても仕方ないか……)
なにせかの悪名高い――優希之渚界隈ではとくに――
やることなすこと突飛でおかしくたって変ではない。
むしろそれが普通かもしれない、などと彼女は胸中でハードルを上げておいた。
いざという時に予想外の一撃を喰らわないために。
こう見えて渚だって肇との付き合いは一年以上というものになる。
やられっぱなしで対策もなしというワケではないのだ。
(よしよし、大丈夫。いきなり笑顔ふりまかれても驚かない。手を握られても顔を赤くしない。抱きつかれても天然だから心臓バクバク言わせない。うん)
渚の考案した肇対応マニュアル基礎。
急なスキンシップにおける〝おかし〟だ。
完璧である。
これで彼女の心を乱すものなどありはしない。
「…………、」
四月も終わりが見えてきた下旬。
暖かさの増した外の風を浴びながら、渚は駅前広場の端に背中を預けて佇む。
つと腕の時計を見れば時刻は朝の十時過ぎ。
約束の刻限まではあと三十分ほどの猶予があった。
その間、とくにするコトもないので春空をぼうっと眺めてひたすら待つ。
地方都市とはいえ立派な町の玄関口。
土曜の午前中とはいえ人通りはそこそこだ。
耳を澄まさずともそこら中に音が溢れている。
大小高低様々な足音。
お年寄りから子供まで、男女ともに幅広い人たちの話し声。
喧噪は鋭くもなく穏やかでもなく。
それとはなしに騒がしく、空気を伝うような喧しさ。
(――そういえば、こういうところで待ったコトとかあんまりないかも……)
思いながら、ふぅ、とちいさく息をこぼす。
賑やかさの絶えない駅前の広場だ。
彼女ほどの綺麗どころがひとり立っていれば何度か声をかけられて良いものを、やはりというか近付く人間はよほど少ない。
そのコトに渚自身だって気付いている気配はない。
――空気が読めずとも察知できる感覚、というのは得てしてある。
変わらない日常の景色、安心感を覚える風景の中に、ぽつんとひとつ打たれた点は嫌な意味で目立つものだ。
誰もが好きこのんでマイナスの方向に行きたがるワケではないというコト。
一度自分から命を絶った彼女にはその傾向が極めて強い。
きっとその雰囲気は根本的な問題が解決するまでそのままだろう。
「――――」
風の流れ、雲の動きと共に時間は過ぎていく。
腕の時計は声も出さずに針を刻む。
ただ待っているだけというのはどうも退屈。
けれど、だからといって他になにかする気も起きない。
一分、一秒――瞬間が引き伸ばされるような錯覚。
だからなのか。
ふと、耳より先に身体がなにかを拾ったのを彼女は自覚した。
「あ、いたいた」
「っ――」
聞き慣れた声に心臓が早鐘をうつ。
否応なしに自然と目は音のほうを向く。
対応マニュアルが一体どうしたというのか。
そんなものは何の役にも立たない。
いくら構えていてもどんなに意気込んでいても根底に抱えるモノは同じだ。
……そっと、近寄る足音を聞いて顔を上げる。
「や。おはよう、優希之さん」
「――――お、おは、よう……っ」
頬をほころばせながら、肇はひらひらと気安く手を振って挨拶する。
当然というかその姿はいつも見る制服ではなく私服だ。
インナーは白のカットソー、下は黒のスキニーとキャンバスシューズ。
上には薄手のコートを羽織っている。
総評すると全体的にシンプルな、彼に似合ったコーディネート。
普段から静かそうな空気を醸し出す肇のコトだ。
学園指定の制服ですらその落ち着き払った様子は受け取れるほど。
――が、これはもはや
目どころじゃない。
瞼を貫通して脳が焼かれる。
毛細血管が、神経が融け落ちている。
――――なんだ、これは。
〝めっ、めちゃくちゃ格好良い――――ッ!!〟
瞬間、渚の膝はぽきっと折れた。
両手で顔を覆いながら声なき声を押し殺して天を仰ぐ。
――神よ。
嗚呼、神よ。
此処に。
いま此処に、原罪を背負うべき男がいます。
どうにかしてください――
「えっ、優希之さん急にどうしたの……」
「……っ、そ、その服は……水桶くんが自分で……?」
「そうだけど……適当に良さげな感じにしてみた。どう、似合ってる?」
「に、似合ってます……!」
「ありがとうっ。……でもなんで敬語?」
「気にしないで……っ!」
言いながら、肇の手を借りつつ立ち上がる渚。
出会い頭の一撃は先制攻撃につき彼女のライフを九割削りとったらしい。
まだなにもしていないのに挨拶だけで瀕死である。
どうしようもないほど優希之渚はか弱い生物だった。
「――――うん」
「……?」
「優希之さんも似合ってるよ。今日は一段と綺麗だ」
〝――――ミ゚ッ〟
ぼんッ、という衝撃は顔に熱が上った音か。
それとも己の心臓が破裂した音か。
渚には分からない。
彼女は耳まで真っ赤になりながら「――はぅっ、はぁっ、はぇっ、ひぅ――」と不規則な呼吸を繰り返している。
なんなら口もうまく閉じられず涎を垂らしそうになりながら。
うるうるのびちゃびちゃの涙目で。
悲しき恋愛脳モンスターだ。
「あ、照れてる」
「――てっ、て、て! てててててれっ、てれ! 照れてにゃひっ!?」
「ふふっ、今度は噛んでる」
「う、うるさいからっ! ほんとっ、か、からかうのもいい加減に……!」
「ごめんごめん。でも綺麗なのは本当だよ」
ずどぉんッ――と、精神を叩くボディブロー。
またはストレートに放たれたハートブレイクショット。
瀕死の重傷である女子にそんなモノを叩きこめばどうなるか。
言うまでもない。
そんなモン
渚の時間はこれまた見事に停止する。
「――――――――」
「あれ、優希之さん? おーい」
「…………水桶、くん」
「あ、うん。なに?」
「今日は、もう、喋らないで――――」
「どうして」
いきなりのリターンである。
要約すれば歯に衣着せぬシンプル黙れという言葉は深すぎず浅すぎず肇に突き刺さる。
具体的にいうとしょぼん、という感じで彼は悄気ていた。
そんな反応自体は別に珍しいコトでもなんでもない。
……なんでもないのだが。
不思議なコトに渚は一瞬、その姿に垂れる耳と尻尾を見た気がして眩暈がした。
いや、なんというか。
あまりにもコレはやられすぎではなかろうか、と。
「ごめん視界にも入らないで……ッ」
「優希之さん優希之さん。それじゃあふたりで出掛けてる意味がないよ」
「水桶くんは私にとって毒なんだよ……!」
「いままで散々一緒にいたのに!」
むしろ散々一緒にいたからこそ毒になったというか。
薬も過ぎたるは毒というか。
なんにせよ、現状渚にとっては刺激が強すぎるコトこの上なかった。
◇◆◇
水族館は駅から十五分ほど歩いた市街地と郊外の境目あたりにあった。
広い敷地面積を確保する上での問題だろう。
立地の関係から周囲に建物は少ない。
ちょっと目を凝らせばぽつぽつとビルやマンションは見えるが、街中よりずっと自然の色が残っている。
客入りはそこそこ。
当日券の列は長蛇というほどでもなく、並んでも数分で順番が来るだろう。
いっぽう隣の列は随分と空いている。
予約チケットを持っている人間はそこまでいなかったらしい。
「じゃあ行こっか」
「う、うん……」
人の少ない列をすいすいと進んでいく。
わざわざ並んで待つ必要なんて微塵もない。
あっさりと受付まで辿り着いた肇は長財布から二枚分、デフォルメされたイルカの描かれた
「確認いたします。――こちらペアチケットにつきましてカップル特典の対象になりますが、よろしいでしょうか?」
〝!?〟
肩を跳ねさせて思わず驚く渚。
と、
「大丈夫です。ねっ?」
〝――!?!?〟
ぎゅっと手を握って見える範囲まで持ち上げる肇。
刹那で彼女の思考回路は焼き切れた。
意味が分からないがどうやら自分たちはカップルだったらしい、と妙に冷静な己が胸中で呟いている。
いや本当に意味が分からない。
よもや彼と付き合っている世界線にでも転移したのだろうか。
そうでもないと辻褄が合わないのだが。
「はい、ありがとうございます。ではごゆっくりどうぞ」
受付の係員――人が良さそうなお姉さん――に通されて、ふたりはスタスタとロビーに進んでいく。
手を握り合ったまま。
さも当然のごとく横並びで。
もちろん渚は疑問符を乱立しながら。
〝
ぎぎぎ、と油の切れたロボットみたいに首を動かす。
肇のほうを見上げれば、ちょうど彼も渚へと視線を向けたときだった。
なんというタイミング。
目が合って、不意にくすりと微笑まれる。
「ごめんごめん。でもこれでお土産コーナーの買い物、三割引してもらえるんだって」
「――え、あ、そう……なん、だ……」
「そうそう。いや、三割は大きいよ、三割は」
「…………」
たしかに大きい。
しかも聞くところによれば一律というのだから相当だ。
オープンセールを兼ねた破格の設定みたいなものだろう。
その価値観自体は渚も理解できる。
大体、こういうイベント系のカップル認定なんて名ばかりなもので、姉弟友達従姉妹に先輩後輩とわりかし偽られるもの。
公然の秘密みたいなもので、そういう体裁でさえあれば真偽はどうだっていい。
なのでそんなに悪いコトをしたとかそういうワケじゃないのだが。
ないのだが、それは世間一般に対してであって渚に悪いかどうかは別問題。
つまり何が言いたいかというと渚的にはとても悪かった。
精神衛生上にも、心臓にも。
「まあ、そういうわけで」
〝ッ!?〟
きゅっとキツく絡んでいく指。
人肌の温度が隙間もないほどに伝わる右手。
いま一度驚いて、しゅばっと渚は彼のほうをへ向き直る。
「
「ぴ!?!?!?」
ぱっかーん、と渚の頭は盛大に弾けた。
あれれ、おかしい。
なんかおかしい、と胸中の恋愛脳が首を傾げる。
いや少し前からちょっと雰囲気違う? とは思っていたけれど。
こんなのは予想していない。
(――まって)
気のせいとかそういうのじゃない。
(まって、まって、まって、まって――)
間違いなく、明らかに、確かに、コレは。
(――なんか今日、攻撃力めっちゃ高くない――――!?)
「――――♪」
にこにこと笑う肇は依然変わらず渚の手を引きながら歩いていく。
その足取りはいつもと変わらず淀みがない。
どころか気持ち軽くなっているような様子さえ見受けられた。
あまりにも衝撃的なコトの連続、連発、連撃。
彼女はそんな少年にただひたすら困惑するしかない。
もうそろそろライフが削れるどころか残機が減って
優希之渚神の誕生である。
「――――……ね、ねぇ、み、みな、水桶っ、くん……!?」
「……そっちは名前で呼んでくれないの?」
「へぅあぇッ!?」
「あくまでカップル設定だからね。まあ無理にとは言わないけど?」
暗に「俺は出来てるけど渚さんは?」と言われている。
とんでもねえ副音声だった。
冗談じゃない。
たしかに未だに名字呼びなコトにアレな気分だった渚だが、かといっていきなり名前呼びに切り替えるなど早々できるコトではない。
なに考えてんだてめえこの野郎、と内心で羞恥のあまりキレ散らかす乙女。
歓喜と憤怒がない交ぜになってもう渚の情緒はぐちゃぐちゃだ。
〝――ステイ。落ち着け私。やっぱ今日なんか火力強いな、うん。すき。――っじゃなくて! じゃあなくてだよッ!! しっかりしろ
そんな状況で落ち着けるワケがなかった。
熱した油のたまった鍋に水を入れればどうなるか。
ちょっとでも料理でやらかした経験者なら分かるコトだろう。
――――とんでもなく爆ぜるのである。
「…………っ、……――は、っ……」
「うん」
「っ――――は、……ぇ……っ」
「うんうん」
「――――――は、じめ……くんっ!!」
「ん。どうしたの、渚さん」
〝
暴走特急機関車ユキノーマス、ただいまレールを外れて滑落中。
しばらくは運転見合わせ、むしろ運行停止の大騒ぎだ。
車両が無事かどうかも怪しい。
いや無事ならそれはそれでまた別の問題が発生しそうだが。
「……っ、……な、んか……! 今日、機嫌っ、良くないかな……!?」
顔から
余裕もなにもない質問だったが、そこは変なところで律儀な肇だ。
変わらず満面の笑み――これまた純度百パーセントの凶悪なスマイル――を浮かべたまま、彼女へさらなる追撃を仕掛けた。
「それならたぶん、渚さんと一緒にお出かけしてるからだよ」
――――ああ、
もう、
なんていうか、
死ぬ。
――このままでは、十分もしないうちに死んでしまう――!
◇◆◇
……まあ、要するに。
同じ土俵に立ってしまった以上、渚に勝ち目なんて万に一つもなかったのである。
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