19/突然で心臓に悪い
十月に入ると、暑かった気温も次第に熱を引いていった。
寒いというにはまだ及ばないが、わずかに涼しさを覚えはじめた季節。
青々と生い茂っていた緑の面影はすでになくなりかけている。
見える風景は赤や黄色に色付きつつあった。
ついぞ秋の到来を感じさせる変化だ。
(…………、)
いつからかを境にして、塾における渚と肇の立ち位置は逆転した。
それまでは互いの学校との距離、歩くペースによって若干肇のほうが早く来ていたのを、いまでは渚のほうが先に着いて待っている。
理由はもちろん言うまでもない。
先の体育祭からずっと、彼女の脳裡を占めるのは誰かさんだ。
(………………、)
カリカリとペンを走らせる。
ひとりきりの自習室はやはりというか淋しい。
彼女自身の気持ちとしてではなく、空気がという意味でだ。
不気味なぐらいの静けさは人の気配を薄くしていく。
白い紙の上に、鉛筆でぽつんと打たれた点のような感じ。
ちらりと、盗み見るように時計を覗く。
(……まだ、かな。水桶くん……)
そんなことを考えながら、ぼんやりと教材に視線を落とす。
思えば彼女としても誰かを待つというのは新鮮なコトだった。
昔はどちらかというと相手が動けなくて待っている側であったし。
そもそも今の渚自身、こんな風に望んでいる人というのがまるで少ない。
それもまあ当然のコト。
一度バラバラに壊れた心は、治したとしても元通りとはいかないのだ。
最低限中身が零れないように補強しただけで、ヒビ割れの痕は消えないでいる。
(…………昔の、私なら――)
例えば、大好きな
何にも気にせず周囲に愛想を振りまいて、誰とも笑って過ごして、家族が生きているだけで幸せを噛み締められていた。
そんな自分なら、
(……そんなコト言っても、しょうがないか……)
呆れるように息を吐く。
想像するだけ意味のない。
彼女が他人に明るく接するとしたら、それは弟が死んでいないというコトだ。
だとするなら彼との関係など生まれる筈もないだろう。
仲の良い異性の顔見知り程度に落ち着いて、なにも意識しないのが目に見えている。
だから結局、こうなったのは過去を含めた今の渚が招いたコトであって。
誰でもない彼女でなければ。
誰でもない彼でなければ成立しなかった、必然的な結果に過ぎない。
(――あ、そっか……)
そこで渚は初めて気付いた。
父親も母親も生まれてくる子供には決められない。
ともすれば周囲の人たちだって流れのままで出来た関係である。
そこに彼女自身の意思が介在しているとしても薄いもの。
殆どあるとも言えないような代物だ。
けれど、
(……私がはじめてつくった関係が、水桶くんなんだ……)
その名前は古い知識に出てこない。
その存在は遠い記憶にありもしない。
彼女が体験した画面の向こうにそんな誰かは影も形もなかった。
だからこそ、
「…………ふふっ」
口元をおさえて小さく笑う。
自覚すれば余計に頬が熱かった。
なるほどつまり、彼との間にあるものは原作ヒロインすら持っていないもので――
「なにか良いことでもあった?」
「ひゃうっ!?」
がたたっ! と椅子を引いて防御姿勢を取る渚。
突然振ってきた声は机を挟んで真正面から。
肩をびくびくと跳ねさせながら恐る恐る見れば、件の待ち人が軽く手を上げた状態で固まっていた。
あちらもあちらでビックリ仰天、といった様子。
「ご、ごめんね。そんな驚かすつもりはなかったんだけど……」
「い、いや、あのっ、その、わ、私のほう、こそ……お、オーバーな……リアクションで……えと、……ごめん……」
「良いよ、そのぐらい。急に声をかけたのは俺なんだし」
「…………っ」
ぽっと身体が熱くなるのを感じる。
ただでさえ上手く回らなかった口は
上手く
要は落ち着けないでいる。
最近は心臓も頭も手も足も顔も口もなにかも忙しい。
彼女の身体が会社なら追加業務で社員が潰れるほどの繁忙期だ。
原因はもちろん
「そ……それより、お、遅かった……ね……」
「うん。ちょっと、急に放課後用事が入っちゃって」
「……なにか、してるの……?」
「……してるっていうより、された?」
あはは、と困ったように笑いながら肇が机に教材を開けていく。
渚からすればなんとなくその態度には疲れが見えた。
分かりにくいけれど、ほんの少しだけ参っているような感じ。
彼にしては珍しい露骨な心労の表れ。
「びっくりした。俺、はじめて女の子に告白されちゃって」
「――――――」
ぺきん、と。
握っていたシャーペンの芯が折れた。
唐突なカミングアウトに脳の回路が停止する。
無意識のうちに本能が理解を拒みかけたせいだ。
――告白?
それは一体、誰が、誰に、いつ、どこで――?
「――……そ、そう……なん、だ……」
「ひとつ下の後輩で、何回か話したこともあってね。リレー格好良かったですって褒めてくれた。あれ、補欠代わりに引き摺られて出されたんだけどね……」
「へぇ……なら、良かった……じゃん……」
「あんなコトもう二度としたくないけど」
苦笑しつつ肇がため息をこぼす。
渚は俯き気味になりながら話を聞くしかない。
「…………っ」
顔はあげられない。
胸が酷く締めつけられている。
頭の中は色んな
身体中から熱が引いていく錯覚。
心臓は嫌な意味でどくどくと脈打っている。
なんだかとても、気分が悪い。
「だから少し遅くなっちゃって。それだけ」
「…………そ、その……っ」
「?」
ぐっと拳を握りながら、渚は震える唇を必死で動かした。
聞きたくないこと。
でも、聞きたいこと。
聞かずにはいられないこと。
ぐらついた意識の中で、それだけは知らなくてはと願いながら口にする。
「……へ、返事……は……?」
「断ったよ」
誤魔化しの一切ない答え。
どこか申し訳なさそうに彼は苦笑した。
先の渚の観察通り、若干疲れていそうな表情と声音で。
「な……、なん、で……?」
「受験生だからね。勉強に集中しなきゃだし。付き合ったとして、たぶん時間も取れないだろうからって。俺の場合、志望校が志望校だから」
「……そ……そっか……、そう、なんだ……」
「うん。なんで、受かるまでは誰とも付き合う気とかはないかなあ」
生半可な気持ちで合格できるような進学先でもないし、と肇は自信なさげに呟く。
たしかに彼の言うコトは一理あった。
今まで何度も話題に出したとおり、有名校というのもあって星辰奏は難関だ。
学年一位の現状をキープできるならともかく、そのあたりの学力を必死の勉強で積み上げてきた肇からすれば恋愛に現を抜かす余裕もないのだろう。
……まあ、
「……じっ、じゃあ……誰から告白されても、ぜんぶ、断るっていうコト……?」
「そのつもり。勉強ばっかりで相手になにもしないのは失礼だし。かといってそれで成績が落ちたりしたら、ここまでやって来た意味がないじゃない?」
「…………、……そう、かもね……」
「気持ちは嬉しい、けど、ね……って、これ言ってること比良元くんと一緒だ……! うそ、あのひとエスパー……!?」
なんだか渚の知らない驚愕の事実に気付いたのか、カタカタと震えながら戦慄する肇。
それを傍目に見ながら、彼女は複雑な心境のままひっそりと息を吐いた。
はっきりとした理由も掴めないまま内心で胸をなで下ろす。
依然としてモヤモヤとしたものはあるが、肉体が芯から冷め切るような感触はもうない。
あるのは微かな喜びと、一片の不安と、処理しきれない残念さ。
口にしてしまうとあまりにも陳腐で馬鹿らしい想い。
「あ、あはは……、……っ」
彼に相手ができなくて良かったという安心と。
もしかしたら他にもいるかもしれないという疑念と。
たぶん自分だってその例外ではないという自覚。
なんだかんだで真面目な肇のことだ。
言ったことは律儀なぐらい守るだろう。
きっとこの場で渚が想いを告げたとしても結果は同じ。
それがどうにも良いようで、悪いようで。
「……そう、だよね。一緒にいる時間、取れないもんね……」
「そうそう。先ずは試験を乗り越えないと。考えるならその後だよ」
「……待っててとかは、言わなかったんだ」
「いやそれは……流石にどうなんだろうね……? というか、待ってほしいほどだったらノータイムで頷いてる気がする」
(なら、私は――――)
塾の自習室で一緒の時間は十分取れて。
同じ
お互いに勉強を見ている関係である
そんなとんちを効かせたような考えが出るのは、ちょっとずるいだろうか。
……本気で言ってしまったらどうなるかは分からないけれど。
困った顔をする肇のことは、なんとなく想像できた。
「……水桶くん」
「ん、なに?」
「……受験、頑張ろうね」
「? そりゃあ、もちろん」
「……うん」
「??」
首をかしげる肇を余所に、渚はいま一度シャーペンの頭を叩いた。
彼が来る前より幾分か落ち着いた心持ちで教材に目を向ける。
なんというか、意識すると余計に駄目というか。
ごちゃごちゃ考えておきながらも根は単純だ。
だってそう、隣に肇が居るだけでずっと気分は良いし集中できる。
……ほんと、単純すぎて恥ずかしい。
◇◆◇
――――などと、言っていたものだから。
「……っ、……っ!」
「あはは」
渚は勘違いしていた。
厳密に言えば思い込んでいた。
肇は受験に向けて勉強に力を入れている。
二学期に入ったというのもあってその考えが一層強くなったに違いない。
だから以前のようにプライベートで遊ぶようなコトも少なくなるだろう――そう確信した矢先だった。
十月某日、渚たちの通う
「な……なん、で……っ」
「比良元くん……あ、クラスメートの男子でね、幼馴染みが
「なっ、なに、なにもちょうど良くないっ、けどっ!?」
「えー」
からからと笑う肇の様子は心底楽しそうだ。
気持ちいつもより純真パワーが高めに見える。
それだけなら良い。
なにも問題ない。
彼の笑顔なら渚だっていつでも歓迎ウェルカム欲しい代物だ。
だからそれは彼女が焦る要因たり得ないワケで。
問題なのはそう――渚の格好、その服装のほうだった。
「凄い似合ってるよ、メイド服。めちゃめちゃかわいい」
「ちょっ、や、やめ……っ! 見ないで……っ」
「ふふっ、……ついでに一枚いい?」
「ぜ、ぜぜぜ絶対だめっ、それはだめ……!」
「お願い、一回だけ。ポーズは取らなくていいから」
「それでもだめ……!」
そんなー、と笑いながら携帯を取り出す
というかそのあたりを察していなかったらこんな笑顔にはならない。
いつもと違って珍しい衣装、珍しい態度、珍しい表情は彼のどこかにぶっ刺さったよう。
それは刺さらなくていい、と渚はわりと切実に思った。
あとメイド喫茶なんてベタなやつを出し物に選んだクラスの文化祭実行委員も恨んだ。
おのれこんな調子なら無難に劇とかでも良かった、と。
「ねえねえ、見てアレ。見てほら!」
「雪の女王がすっごい赤面してる……!」
「渚ちゃん、
「あんな慌ててる優希之女史も見たコトねえ。
「くっそ羨ましい……! 俺たちは事務的会話以外殆どねえってのに!」
「ち、違っ、か、彼はそういうんじゃなくてっ」
「「「「「カレ!?」」」」」
「そっ、そっちの意味じゃ、ない……っ!」
(優希之さんもちゃんと馴染んでるんだなー、クラス)
ざわざわと騒ぎだした空気にほんのり暖かなものを感じながら、肇はそっとポケットに携帯を仕舞う。
一枚欲しかったのは本心だが、当人が嫌がるのなら無理強いは良くない。
なにより隠し撮りなんかしていると後が怖いワケだし。
余計なコトはしないのが吉だ。
なお、もうちょっと気分が上がっていればパシャパシャしていたかもしれないのは彼の名誉のために言わないでおく。
「あの……すいません」
「? はい」
と、そこで後ろから誰かに話しかけられた。
大人しめな雰囲気の、眼鏡をかけた女子生徒である。
例にならって格好はメイド服姿。
長い前髪の隙間から、わずかに鋭い視線が真っ直ぐ向けられる。
「いちおう、教師以外は校内撮影、禁止となってます……ので……」
「あ、これはこれはすいません……、……あれ?」
「…………?」
が、しかし彼はその人物に見覚えがあった。
「比良元くんの彼女さん?」
「――――――」
そう、体育祭のときに借り物でどこかのイケメンが抱えたお姫様である。
「――――そっ、なっ……!?」
「うん? 幼馴染み……? もう彼女だっけ……?」
「おーい水桶ぇ。おまえどこ行ってんだー」
「あ、比良元くんこっちこっち」
「っ!!」
しゅばっ! と凄まじい勢いで教室の奥へ戻っていく少女。
見事な早業、目にも留まらぬスピードだった。
乙女の羞恥は時として絶大な力を発揮するらしい。
肇にはなんら分からないコトである。
「……いま誰かいたか?」
「比良元くんの彼女。メイド服着てたよ、見てみたら?」
「は? 彼女? ……あー、あーあー! そうか! なるほどサンキュー!」
直後、負けず劣らずの勢いで教室に入っていく幼馴染み男子。
中からは「きゃぁあー!」という黄色い声援と「やぁあーっ!」という絶望の悲鳴が聞こえてくる。
その目的が約一名なのもあって、阿鼻叫喚の絵面はなんとも想像に易い。
「うっわすっげぇ! なにそれ良いじゃん! 写真撮っていい!?」
「こ、校内撮影禁止……っ! 帰って……!」
「そう言わずに! 頼むから!」
「良いから帰って……!!」
(やっぱり彼女で間違ってなかったんだね……)
うんうん、と頷きながら謎の一仕事終えた感に包まれる肇である。
立派な勘違いではあるのだが、はっきり否定しなかったあたり
「ところで、これって優希之さんたちが店員してるの?」
「そ、そう……だけ、ど……っ」
「お邪魔していい? 優希之さんの淹れてくれたコーヒー飲んでみたいな」
「い、いいからっ……そもそもいつもココアじゃん、水桶くん……!」
「たまには良くない?」
「よ、良くないっ!」
その後、顔を真っ赤にして接客する銀髪美少女の姿があったとかなかったとか。
それはまた別のお話。
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