第23話 光庭

《「理弐」の埋刻が完了しました。確認を行いますか?》


 今は無理かな。後でね。夜になったら相談ってことで。


《了解しました》

《引き続き「理参」の埋刻作業へ移行します》


 「理」の埋刻作業が本格化して、このところ精神的に負荷がかかるようになった。

 魂の痛みは、肉体が感じる痛みとは質が違う。そう聞いていたけど、実際に体験してみて、ああこれかとすぐに分かった。


 ずっと続くわけではないが、一旦感情が落ち込むとどうにもならない。


 なんというか、酷く憂鬱になる。何をするにもやる気が削がれ、何を見ても笑う気が起きない。気持ちが塞いで表情が曇り、理由もなく悲しくなる。


 当然、食欲も落ちてしまった。原因が分かっているので、頑張って食べようとしても、どうにも食が進まない。まあ、食が進まない理由は、それだけじゃないんだけどね。


 寝込んでいた時は、咀嚼が上手くできなくて、薄いスープや潰した野菜といった、離乳食めいたドロドロしたものばかり食べていた。


 能力開花後、少しずつ食べる量と固形物を増やしていって、今では手の込んだ上品な料理が出てくるようになった。


 そう。手の込んだ上品な料理——実はこれが、食欲低下に拍車をかけていた。


「でも、これじゃない」


 新鮮な牛乳やチーズ、卵や肉を主体に使った料理は、最初はとても美味しく感じた。前菜や付け合わせに野菜も出てくるし、栄養バランスもそう悪いわけでもない。


 メインが肉だからいけないのかと考えて、思い切って魚が食べたいと言ってみた。そして、出てきたのが目の前の料理だ。


“新鮮な生クリームを贅沢に使った芳醇なバター香る白身魚と温野菜のクリーム煮”


「重い。重過ぎるってば」


「お口に合いませんでしたか?」

「美味しいよ。美味しいけど、これじゃない。バターとかクリームじゃなくて、もっとあっさりしたのを食べたい」


 もうここは、ハッキリ伝えるしかない。例えそれが、厨房を困らせることになったとしても。背に腹は代えられない。いやこの場合、カロリーは栄養素には代えられないか。


 グラス地方は農業と牧畜が盛んで、豊穣の地と呼ばれている。小規模に酪農も行われていて、質の良い乳製品も手に入れられる。

 ただ、輸送手段が限られているので、生乳は鮮度保持と衛生管理にお金がかかるし、その加工品であるバターや生クリームは贅沢品扱いだ。


 街に住む人々が、お祝いの時に食べたい料理は? と聞かれて、「それはもちろん、クリームたっぷりのシチューです」と答えるくらい、価格は高いけど人気があった。


 でも、たまに食べるからいいのであって、主食代わりは無理。脂肪肝の子豚ちゃんになる前に、胃がやられる。腸が拒否する。


 食べたら太る=栄養がある。


 栄養学が発展していないせいで、そんな風に考えている気がする。乳製品、主に牛乳(この世界にも牛がいる)は離乳食や介護食にも使われていたから、実績があったのもいけなかった。


「あっさりとは、どのようなものでしょうか?」


「油っこくなくて、サラサラしてる感じ。乳製品を使わない。素材の味に塩気だけ有ればいい」


「なるほど。以前食べた南部料理がそのような感じでした。早速、問い合わせてみましょう」


 へ? わざわざ問い合わせ? とりあえず、塩焼きとか塩茹ででもいいのに。なぜそんな大袈裟なことに。でも、あっさりだという南部料理は気になる。仕方ない。少し待つとするか。


 *

 

 今の俺に期待されているのは、よく食べ、よく眠り、健康的になること。なので、気晴らしを兼ねて屋敷内で散歩をするようになった。


 部屋で塞ぎ込んでいると、俺の一挙一動をみんなが気にしてしまうから、それを避けるためでもある。

 大切に育くんできた子供が、ようやく健康になってきたのに、また様子が変になった。気にするなって方が無理で、少しでも活動性を上げようとしてるわけ。


「ねえモリス、外に出てもいいかな?」


 そろそろ屋敷の外に出てみたい。「理弐」が手に入ったし、すぐには無理だろうけど、初級魔術の放出訓練がしたかった。


「外と申しますと?」

「開放テラスとか」


 そうは言っても、いきなり外出は出ないだろう。だから、俺なりに譲歩してみたんだよね。


「外気に晒されるのは、まだお早いかと思います。お散歩でしたら、光庭フェネストラにご案内致します」


 これもダメか。仕方ない。今日も動物園のパンダくんだ。


「お寒くございませんか?」

「大丈夫。指先まで温かいよ。ここはいつも明るいから」


 屋敷の南側に、光庭と呼ばれる場所がある。例えるなら、パティオとコンサバトリーを足したような——植栽や噴水が配された庭に、居心地の良い家具を置いた温室で、趣向を凝らしたガーデンルームと言い換えてもいい。

 

 二階層吹き抜けで開放感があり、湖に面した壁や斜めに傾いだ天井は、透明度が高い総ガラス張りになっている。


 目に映える赤みの強い敷石。伸びやかに枝を張る樹木や果樹。高低差がある植栽や、色濃く咲き誇る花々。水路や水盤には、清浄な水が流れている。


 燦々と降り注ぐ陽光に照らされ、植物が生き生きと繁る癒しの空間。そしてなにより、景観が素晴らしかった。


  神秘的な湖「弦月湖クレスケンス」。別名「精霊湖」。パノラマに広がるレイクビュー。空の青、対岸の森の緑、湖の深い青の三層が、視界いっぱいに広がっている。


 今住んでいる屋敷は、湖の中央にある小島に建っていて、外からみると湖上に浮かんでいるように見えるらしい。


「こんなに近くて、屋敷に浸水したりはしないの?」

「これまで一度たりとも、そのようなことはございません」


 不思議なことに、一年中、どんな気候でも水位が変わらない。増えもしないし涸れることもないという。


 視界の端に、屋敷の南東にある開放テラスが見える。あそこだったら、湖上を吹き抜ける風を感じて、対岸の森の匂いも届きそう。是非行ってみたい。でもまだお出入り禁止なんだよね。


「あの森には、誰か住んでいるの?」


「湖と周囲の森は公爵家の私有地です。警備はむろん、人の出入りも厳しく管理下におかれていますので、安心してお寛ぎ下さい」


 あんなに広い場所が全て、関係者以外は入れないプライベートゾーンなのか。


 光庭内を気ままに散歩して、疲れたら俺専用の安楽椅子に寝転がる。クッション柔かぁ、膝掛けふわふわ。よしっ! 少し気分が晴れてきたぞ。

 

 周りをそっと伺うと、俺がリラックスしているのを見て、ホッとしているのが分かる。


 この屋敷で働く人たちは、地元バレンフィールドの出身者やキリアム公爵家の縁戚で固められている。彼らにとって、精霊湖はことさら特別な意味を持っている。


 俺の先祖であるルーカス卿は、すこぶる優秀な精霊使いだった。

 当時、人が住めなかった不毛な環境を、精霊の力でもって水資源豊かな土地に変え、生命の息吹を吹き込んだ。


 その記念すべき最初の奇跡が、この湖だ。

 開拓初期を支えた貴重な水源だったそうで、今では湖そのものが信仰の対象なっている。


 森に囲まれた精霊湖は、ルーカス卿がその生涯を閉じた場所であり、屋敷自体がルーカス卿の大いなる遺産のひとつだとされている。


 また、ルーカス卿の子孫は、代々、精霊との親和性が高い傾向にあった。

 実際に、キリアム公爵家は、盟約【精霊の恵み】を授かる者を何人も輩出している。これも無形の遺産だと言えるかもしれない。


 盟約【精霊の恵み】を持っていると、無条件で精霊に好意をもたれる。

 盟約者が住む土地は、それだけで天候に恵まれ、豊かな実りを得られやすい。これは迷信ではなく、積み重ねた実績があるそうだ。


 前世の近代未満の社会で、豊作が約束されるなんて、それだけでチート扱いされてもおかしくない。ただし、固有能力の発現レベルには、個人差がかなりあるらしい。


 盟約の代表的な固有能力は【精霊感応】。人には見えざるものである精霊の存在を感じられる。


 上位の盟約を持つ俺にも当然備わっていて、光庭に入った瞬間から、ビンビンとセンサーに引っかかっていた。


 湖にいる小さな精霊たちの視線。数えられないほど沢山の、遠慮のない無数の視線が、ただ俺一人に向けられていた。

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