栞の往復書簡

花散日菜

始まりの始まり

 美術品修復とは、気の長い仕事だ。一枚の絵を修復するのに、半年から二年以上かけることもある。美大で油絵を修了し、緑山の海に面する県立美術館に勤めた。修復作業は、美術品の状態の調査を含む。大家賢治は調査資料をもとめ、週末から始まるロビー展の準備を尻目に、併設されている美術図書室へ向かう。



 このちいさな美術館の図書室には、司書と呼ばれる職員がいる。ベテラン司書の溝端慶子が、訪れた賢治を迎える。



「お疲れ様です。調べものですか?」

「いま、クレーの修復をしていて・・・クレーの《教育スケッチブック》はありますか?」

「バウハウス叢書ですね。ええと、こちらです」




 賢治は受け取ると、調べるページに次々と栞をはさんで複写(コピー)を依頼した。貸し出しを行わない図書室なので、必要ページを複写して持ち帰るのだ。



 日頃の仕事ぶりから、賢治は慶子をいたく信頼していた。その信頼はいつしか好意へと変わっていった。


 調べ物をするとき、彼女は眼鏡をかけ直す。もの静かなその仕草に惹かれた。白いブラウスとAラインのスカートがよく似合う。彼女を異性として好もしく思っていたが行動に移せずにいた賢治は、この日、賭けにでた。



挟む栞のひとつに、



「マレーヴィチの、《白のなかの白》。僕が世界一好きな絵です。あなたの世界で一番好きな絵はなんですか?」


 と記して挟んだ。コピーの裏紙をつかっている使い捨ての栞に、勇気をふりしぼって書いたラブレター。彼女は気付くだろうか。気づいてもらえれば御の字だ。気づかれずゴミ箱行きならこの恋をあきらめよう。



「複写、出来上がりました」

 慶子から戻ってきたコピーに、一枚の栞が挟まれていた。


「ジョセフ・アルバース《正方形賛歌》が好きです」


返事が来た!賢治は小躍りして帰路についた。



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