幼聖の瞳

桑鶴七緒

第1話

子はかすがい


そのことわざを知ってから、当初はあまりにも古典的でそれほど信用はしていない言葉だと思い込んでいた。


葛木かつらぎ晴。28歳で3歳下の妻の美梨と結婚をして、8年目の春にようやく私達夫婦の元に今の子どもを授かった。


娘の名は優里。彼女が年々成長していく姿を見て、改めて夫婦の仲も繋ぎ止めてくれている存在感が増していっていた。


周囲の親御たちもその諺どおりに世の中育児がうまくいけば、都合の良い話だと聞かされたものだった。

しかし、娘を見ていると親であるこちら側が何かに育てられて学ばされている感覚もなっていた。


午前7時。通い慣れた路を行き、いつものように娘は手を振って登園した。


見送りをした後私もいつも通りオーナーとして勤めるイタリアンの店に向かい仕込みの準備をしていた。その30分後にパートタイマーとして働く従業員が出勤してきて、開店時間になると数名の客が入ってきた。オーダーが入り徐々に厨房が慌ただしくなってきた。


午後の休憩になり、新人の従業員がまかないを作り昼食を取った。


19時。閉店して精算が終わると、従業員より先に店を出て保育園へ娘を迎えに行った。

外灯が少ない周辺の道路を車で走っていき、到着すると保育士と遊んでいる姿が視界に入った。


彼女は私の脚に掴まり早く家に帰りたいと言ってきた。自宅に着くと留守電が入っていたので、出てみると店の土地管理人からだった。

急ぎで相談したい事があると言っていたので、折り返しかけてみたが、繋ぐ事ができなかった。


翌日の昼、店に土地管理人が直接訪れたので、休憩室に案内すると、彼は俯いていて表情が思わしくなかった。

区で取り締まる行政からの命令で新設するビル工事の日程が早まり、あと3か月後に店を立ち退きするように促していると言う。


あまりにも突然の話に居ても立っても居られず、彼に怒鳴ってしまった。彼が帰ったあと、その声に心配した従業員が私を気にかけ何事かと聞かれたので、全員を集め立ち退きの話をした。


「申し訳ない。とにかく個々で次の職場を探して欲しい」

「オーナーはどうするんですか?」

「知り合いを当たってみる。早いうちに決めないとな」


皆の顔色を伺いながら私も気持ちの整理がつかない状態のまま、作業に取りかかった。


19時。自宅に着くと美梨と優里が出迎えてくれた。夕食時、私の食事があまり進んでいないのを美梨が気づき、何かあったのかと尋ねてきた。ひとつため息をつき、店の立ち退きの件を話すと心配そうな表情を浮かべていた。


「まず3件は当てがある。来週面接をしてもらえる事になった。上手くいくといいな」


私は気丈に振る舞った。落ち込んでなんかいられない。家族のために一刻も早く職に就かなければならないからだ。表向きは気持ちの余裕を醸し出していつも通りの私でいたいのだ。


数日後、店のマネジメントを勤める従業員に任せて、面接先の店へと行った。

今のキャリアを持って生きてきた自分が正直恥ずかしかった。

だが、それぞれのオーナーたちは次に繋ぐための再出発だと励ましてくれた。


更に1週間が経ち、ある店舗から連絡が来た。

2番目に受けた所から採用が決まったと返事を聞き、とりあえずは安堵した。美梨にも伝えるとその日の夕食は少し奮発して彼女の手料理が振る舞ってくれた。


ある日の休日の午後、1本の電話がかかってきた。法律事務所からだった。私達夫婦に弁護士を通して会いたい家族がいるとの事だった。


色々と悩んだ末に優里を私の実家に預けて、美梨と一緒に行く事にした。

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