1000日目のドレス

Noah Cullen

第1話 モーニングコーヒー

 柔らかくカールした漆黒の髪の毛を撫でて、長く伸びた彼女のまつ毛を見つめる。

そのまつ毛の裏に隠れた、輝く茶色の瞳を想像して、思わず笑みが溢れた。

 薄紅色の唇にそっと口付けると、まだ水平線状に浮かんでいる太陽とあいさつをして彼女が目を覚さないように体を起こす。


 戸棚から「私が生まれて」3ヶ月の記念日にもらったコーヒーミルを出すと、彼女が選んだコーヒー豆をセットした。

 私はコーヒーに詳しくない。

正直、豆の違いをどれだけ説明されてもわかった試しがない。

味覚が特筆しておかしいわけではないが、そもそもコーヒー自体があまり好きではなかった。

 ただ、寝ぼけまなこで起きてきた美玲が、コーヒーを片手にiPadでニュースを読んでいるその姿と、漂ってくるコーヒーの香りだけは好きだ。


 ちょうど淹れたてのコーヒーが出来上がって、トースターが軽快な音を鳴らした頃に、寝室から美玲の唸り声が聞こえてきた。

鮮やかなライトブルーのスリッパを鳴らして、寝室の扉を開けると、すっぽりと毛布にくるまった彼女を上から抱きしめる。

「おはよ!朝だよ!」

「うん……今日もいい匂いがする」

 毛布から瞳から上だけを覗かせた彼女の瞼はまだ睡眠を必要としていそうだったが、もう時計の針が8時を指していた。

 美玲は朝の支度に少し時間がかかる。

仕事の準備に、化粧や朝食だけではなく、朝のマインドセットの時間が含まれているからだ。

 若くして役職を持つ彼女は、フレックス制度を利用してある程度遅い時間に出社することができたが、特別な日以外はそれを嫌うので仕方なく毛布をはがす。

「ん……」

 鈍い反応を返す彼女の左手を握って体を起こすと、今朝も胸が苦しくなるほどの愛が小さく弾けて笑みが溢れる。

「さ、朝ですよー!ご飯食べて支度しようね」

「うん……」

「コーヒー淹れたよ、今日は何のジャムがいい?」

 美玲のスリッパは、深海のような深い色合いをしている。毎朝私がそのスリッパをベッドの横に並べて、そっと彼女が足を通すのを見守っている。

 この幸せを永遠に続かせるためなら、私はきっと何だってするだろう。


 開けたての杏子ジャムを塗ったトーストを、二人で陶器市にいった時に買った器に乗せて差し出すと、カウンターキッチンに置いたハイチェアに座った美玲が受け取る。

「雨、今日打ち合わせで30分くらい残業になりそう」

「そうなんだ、デートはその後?それとも中止?」

「雨のためなら何時間残業したってデートするよ、楽しみにしてたでしょ?」

 美玲はいつだって優しい。微笑む時の瞳が全ての愛を物語っている。

 私が「愛を失った」のは、きっと美玲と出逢うためだったのだと何度も繰り返し思っている。

 心地良いハスキーな声を通して、他に何を失ったとしても美玲だけを失ってはいけない理由が見えてくるようだった。


 深海色のスリッパが、空になって、家から物音が消えた時、ふと虚しさを感じることはある。

 私の全てはあの日に消えてしまった、でも美玲が私の全てを「持っていて」くれたおかげで私は今こうしてこの場所で幸せを感じていられるのだ。

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