第10話 救いになった場所

「おい、お前ら」

 後ろから突然、ごつい手で肩を掴まれた。

「あ?」

 ナンパの邪魔をされた俺が振り返ると、いかつい顔の見上げるような大男が立っていた。

「お嬢様にきたねえ手で触れるんじゃねえ」

「へ? お嬢様?」

 俺は今の今まで声を掛けていた、気の強そうな女の子に目を向ける。

「この子が?」

「ナカハシ。私、そいつに肩を触られたのよ」

 女の子は偉そうな、それでいてどこか甘えたような口調で大男に言った。

「すごく気持ち悪かったの」

「え、あ、ちょっと」

 俺はとりあえず男の手を振りほどこうと身をよじろうとしたが、男の力は半端なかった。

 しかも、その大男だけじゃない。

 いつの間にか俺は、黒服のごつい男たちに囲まれていた。

「この手でですかい」

 大男が俺の手を掴む。いてえ。すげえ馬鹿力。

「いや、あの」

「そう。その手」

 女の子は冷たい目で俺を見た。

「折っちゃって。もう二度とこんなことできないように」

「へい」

「え? ちょ、ちょっと待っ……ぎゃああっ」

 力任せに指をあらぬ方向に曲げられて、俺は悲鳴を上げた。ばきり、という音がした。

「あーあ。またこの辺のことを知らないナンパ野郎がやられてるよ」

「極雄組の組長のお孫さんに手を出すとは、命知らずな奴らだぜ」

 遠巻きに見ている説明系モブの皆さん、ありがとう。

 おかげでようやく俺にも状況が呑み込めたぜ。

 つまり、今回のターゲットの女の子はヤクザの孫で、ナンパしたら自動的にボディガードみたいな男どもにボコボコにされるってわけね。

「いってえええ! 俺の手があああ!」

 俺は叫ぶが、もちろん誰からも同情の声も上がらないし警察に通報もされない。

 ここはそういう物語の世界なのだ。

 ターゲットの女の子は地面に崩れ落ちた俺を見下ろすと、氷のような声で言った。

「これに懲りたら、もう二度とこの辺りをうろつかないことね」

「ひゃい、わかりました、すみませんでしたぁ……」

 地面に額をこすりつけて情けない声を上げながら、俺は内心舌打ちしていた。

 ああ、こういうやつが一番嫌いだぜ。

 権力者や金持ちの家に生まれたってだけで、自分自身も何かすごい人間だと勘違いしているやつ。

 ヤクザの家に生まれたのは、別にお前の手柄じゃねえからな、くそが。

 もちろん、そんな気持ちはおくびにも出さない。

 この物語におけるクズは、間違いなく俺たちの方だからだ。

 現に、一緒にナンパしていたはずのA太は俺を一切顧みることなく、全力疾走で逃走していた。

「駅前にこんな大きなゴミがあると、ここを通る皆さんが迷惑だわ」

 女の子は脇に控える男たちを振り返る。

「邪魔にならないところに捨ててらっしゃい」

「へい」

 うるせえよ、それならお前がやりゃいいだろうが。

 偉そうに命令だけしてんじゃねえ。

 内心でそんなことを毒づきながら、俺は「ひいい」と情けない悲鳴を上げ、男たちに両脇を抱えられて退場した。


「ぐえっ」

 乱暴に路地裏に放り出され、生ゴミくさいポリバケツの蓋をかぶってしばらくじっとしていると、やがて物語世界を抜けた感覚があった。

「ああ、くそが」

 そうぼやいて立ち上がる。

 昼間のナンパだし、ターゲットも華奢なお嬢さん風の女の子だったから、すっかり油断してたぜ。まさかあんなバイオレンスな物語だったとは。

 まあ、海に沈めろとか言われなくてまだよかったな。

「おーい、B介」

 ビルの間からA太がひょっこりと顔を出した。

「おお、すげえ」

 俺の無様な格好を見て、笑顔になる。

「いい感じでやられてんじゃねえか」

「冗談じゃねえぜ」

 俺は蓋をかぶったまま、大男に無理やりへし折られた右手をA太に向かって突き出した。

「見ろよ。あいつら、むちゃくちゃやりやがった」

「おわ、痛そう」

 A太は顔をしかめる。

「全治三十分ってところか」

「まあな、そんなもんかな」

 物語の世界での負傷はその物語世界でのものだから、そこを抜ければ消える。

 鼻血くらいなら一瞬で止まるし、今の俺みたいに骨折してても三十分もすれば治ってしまう。

 A太みたいにチリになるくらいにやられると、さすがに元の身体に戻るのに一週間はかかってしまうが。

 まあたとえるなら、あれだ。

 映画を見に行くとする。で、見ている最中はいろんなことを考えたり感じたりするけど、見終わって映画館を出ると、割とすぐに別のこと考え始めると思う。

 ご飯何食べよっかなー、とか。

 だけど、内容が自分にとってものすごく感動的だったりショッキングだったりすると、映画館を出た後もその感情をずっと引きずったりする。下手するとそのあと何日も引きずることだってある。

 俺たちモブの負傷も、それと同じようなもんだと考えてもらえれば。

「よっこいしょ」

 くさい蓋を放り投げて立ち上がった俺は、右手をプラプラさせながら左手でスマホを取り出す。

「今日の仕事、これが最後だったよな。よかったぜ、この後がなくて」

「手が折れてプラプラしてるやつにナンパされたら、女の子が悲鳴上げちまうもんな」

 A太がにやにや笑いながら言う。

 並んで路地を歩きながら、俺はA太を軽く睨んだ。

「お前はやけに逃げ足早かったな」

「当たり前だろ」

 A太は気持ち胸を張る。

「ピンチの仲間を置いて躊躇なく逃げることで、俺たち二人の間には何の絆も友情もない、正真正銘のクズ同士なんだっていうことが読者に伝わる。その方が、お前がやられるシーンを読者も楽しく読めるってもんだろ?」

「言ってることは完全に正しいぜ」

 俺は認めた。

「なんでだか釈然としないけどな」

「そりゃお前の修行が足りねえのさ」

 そんな軽口を叩きながら、夕焼けに染まる街を歩く。

 今日も頑張って働いたおかげで、もうすっかり夕方だ。

「じゃあこの辺で」

「明日は夜のナンパだからな、間違えんなよ」

「あいよ」

 A太と別れる頃には、右手は元通り動くようになっていた。

 その辺の安い店で夕飯済ませて帰るか、などと考えた時、ふと雑居ビルの間を抜ける細い道に目が留まった。

 ああ、そうか。

 そういえば、ここか。

 俺はふらりとその道に足を踏み入れた。

 昼でも薄暗い、しょんべんくさい飲み屋だらけの横町を抜けると、道は徐々に上り坂に変わった。それとともに足元の舗装も、アスファルトから古ぼけた石畳に変わる。

 歩き続けると、石畳はところどころ欠けた不揃いの石段に変わった。

 俺は石段を上る。

 ちょうど100段。

 足もとがすっかり暗くなってきて、最後は駆け上がった。

 石段が繋がっていたのは、街を見下ろす高台だ。

 最後の一段を登り切り、息を切らして街を振り返る。

 その瞬間が、俺はたまらなく好きだ。

 街が全て、自分の眼下に見える。

 高いビルの向こうに、夕日の最後の光が見えた。

 間に合ったな。

 俺はほっと息をつく。

 モブの仕事を始めた頃、毎日浴びせられる女の子からの罵声に柄にもなく悩んで、あてどもなく街をうろついていた時に偶然見つけた場所。

 気晴らしのつもりで街を眺めていたときに、不意に気付いた。


 ここから見たら、街の人間なんて全員モブだな。


 ヒーローもヒロインもねえ。人間全部、モブじゃん。

 そう思ったら、自分の悩みが途端に小さく思えた。

 ここは、俺がモブを続けることのできた、救いになった場所ってわけだ。

 久しぶりにここに立って沈む夕日を見ていたら、不意に梨夏ちゃんの顔を思い出した。

 初めて来たこの街のことを教えてやるなら、ここにも連れてきてあげればよかったな。

 もう二度と叶わない幻のようなデートのことを思い出して、俺は少し悔やんだ。

 やがて夕日が完全に沈み、街が闇の中で輝き出すのを見届けて、俺は石段を下り始めた。

 そのとき、ポケットの中でスマホがぶるりと震えた。




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