第8話 割り切って進まないと

 梨夏ちゃんとの二回目の出会いから、一週間が経った。

 あの日の夜はメンタルがボロボロだったけど、それでも朝は来るし、朝が来れば仕事もある。

 翌日すぐは、やけにウェットなナンパになって相棒に嫌な顔をされたりしたけど、それでもなけなしの気合で自分を鼓舞して、どうにかこうにかペースを取り戻してきた。

 ナンパモブとしての軽薄で中身のないトークも帰ってきた。

 表面上は。

 だけど、心にぽっかりと開いた穴みたいなものは、あの日からちっとも埋まっていない。

 あと少しで得られそうだった物。

 求めることすらおこがましくて、最初から手に入るなんて夢にも思ってもいなかった物を、あまりにも無造作にころりと目の前に転がされたような気がして。

 それを掴まなかった自分が、無性に愚かに思えて。

 こんなにつらいなら、そんな夢みたいなことが現実に起きるなんて知りたくなかった。

 知らなければ、最初から苦しむこともなかっただろうに。

 気を抜くとすぐに思い出してしまうのだ。

「私、能勢梨夏です」

 そう名乗ったときの彼女の一生懸命な表情。

「私、朝までやってるお店、行きます」と言って俺の手を掴んでくれたときの、その手の柔らかさとあったかさ。

 そういうのがフラッシュバックみたいに襲ってくると、途端に俺のナンパは精彩を欠いて、初めて好きな女の子と口をきく陰キャの中学生みたいなトークになる。

 それはそれで気持ち悪いので、ターゲットの女の子にはちゃんと嫌な顔をしてもらえるのだが、完全に方向性が違うわけだ。作品の求めているナンパとは。

 相棒がちゃんとヤカラっぽく柄の悪いナンパをしているのに、その隣で俺が変に顔を赤くしながら「あの、一緒に行ったらすごく楽しいと思うんでもしよかったらっていうか、何なら先に行って席だけ取っとくんでほんと気が向いたら来てください」みたいなことをすごく早口で言ったりしたら、それはおかしいわけだ。

 読者も「なんだ、この二人…?」って引っかかっちゃう。

 で、もちろん俺たちはもう今後出てこないので、そうなると読者は「あの意味深なナンパ野郎、結局何だったんだよ!」ってなる。

 モブの、無意味な個性付け。

 それって、作品にとってはすごく邪魔なノイズになるのだ。

 作者さんにとっても、大迷惑。話の軸が霞んじゃうんだからね。

 だから俺のナンパがそんな風になると、相棒は不機嫌になって俺を睨む。

「おい、B介。お前まさか今までそんな舐めた仕事してきてやがったのか」ってね。

 そう。お気付きかもしれないが、さっきから俺が、相棒、相棒って呼びかたをしてるのは、この一週間、俺の相棒がA太じゃなかったからだ。

 単独の仕事もあったが、俺がペアを組んでいたのは主にD郎だ。

 D郎は二つ年下だが、モブ歴は俺よりも長い。

 だから、俺に対する口の利き方も横柄だ。

 まあ、いわゆる先輩風を吹かせるってやつだな。

「お前さあ、ああいう方向性で行きたいなら、髪の色真っ黒に戻して寝ぐせ付けて、黒縁のメガネでも掛けろよ。それからチェックの長袖シャツ買ってこい」

 次の仕事までの繋ぎの時間に、D郎にそう説教されて、俺も返す言葉もない。

「陰キャなら陰キャで、一言で陰キャって括れるような格好をするんだよ。それがモブってもんだろ?」

 その通り。

 俺たちだって、今は一言でヤカラって括れる恰好をしている。

 モブっていうのはそういう明快さが重要なのだ。読者に「あれ? この人は何だろう」なんて思われてはいけない。

「いや、ほんとすまん」

 俺は謝って、お詫び代わりに缶コーヒーをおごる。

「最近ちょっとスランプでよ。次はうまくやるから」

「頼むぜ。お前だって昨日今日のモブじゃねえだろ」

 まだ不満そうではあったが、俺のおごりの缶コーヒーを一口飲むと、D郎も少し語気を和らげた。

「ヤカラでいこうぜ。陰キャのナンパなんて依頼、滅多に来るわけねえんだからよ」

 それもおっしゃる通り。世の陰キャ諸君がナンパなどしないように、陰キャモブにもナンパの依頼など来ない。

 そんなキャラ付けをしてしまったら、俺はすぐに失業して餓死してしまうだろう。

 割り切るんだ、B介。

 そう言い聞かせる。

 あの日のことは、あれで終わり。

 物語のヒロインを張る女の子が俺の目を真っ直ぐに見て、自分の名前を名乗ってくれた。

 それは確かにモブの俺にとっては夢みたいな体験だった。

 だけど俺は彼女に名乗り返す名前を持っていない。

 それはつまり、そういうことなんだ。

 思い上がるな。

 夢は、夢だ。

 アイドルのコンサートに行ったら、舞台上のアイドルとちらっと目線が合いました。それで向こうもこっちに気があるんだ、とか思うか?

 思わないし、思っちゃだめだろ。

 そういうことだ。

 もう今日何度目かになる、振り切るための言葉を自分に投げかけて、俺はコーヒーを飲み干した。

「よし、そろそろ行くか」

 D郎が立ち上がる。

「あいよ」

 そう言ってだらりと立ち上がった俺を見て、D郎はにやりと笑った。

「勘を取り戻すために、次はお前から声掛けろよ」

「ああ。任せろ」

 繁華街の入り口の大きな交差点。

 俺はターゲットのちょっと派手目の女の子に向かってがに股で歩み寄る。

「おねえさんおねえさん、そこのきれいなおねえさん! ごめん、ちょっとだけ俺の話聞いて! たった五時間で終わるから!」



「久しぶりだな、B介」

 A太が手をぶんぶんと振りながら歩いてくる。

「おう、A太! 戻ってきたのか」

 俺も両手を振り返す。

「よかったなあ」

 A太は俺が梨夏ちゃんに二回目のナンパを敢行した同じ日に、急遽呼び出されて参加した冒険者ギルド併設酒場の乱闘で、急に謎の力に目覚めたヒロインの暴走に巻き込まれてチリになった。

 ちゃんとこうして人の形を取り戻すまで、一週間もかかってしまったのだ。

「大丈夫か、身体の方は」

「んー」

 A太は肩をぐるぐると回す。

「普通に動くから大丈夫だろ。ちょっと身長が縮んだような気がするけど、まあもともと設定適当だからな」

「なんか、前の顔はもう少し鼻が低くなかったか?」

「そうか? こんなもんだろ」

 そんな他愛ない話をしながら、いつもの路地裏に向かってぶらぶらと歩く。

「依頼書に、『落命(消滅)』って書いてあったのを寺井君が見落としてたわけよ。他の急ぎの依頼が重なってテンパっちゃってたせいで」

 いつもの縁石に腰かけて、A太は言った。

「もともとは、次の日に別件が入ってたほかの会社のモブが、消滅できませんってごねたらしくてさ。それで穴埋めが必要になってうちに回ってきたんだと。でも、そこって一番大事なとこだろ」

「少なくとも、夜中に突然呼び出されてやらされる仕事じゃねえな」

 心からの同情を込めて、俺は言った。

「災難だったな」

「おう」

 A太はコーラをぐびりと飲む。

「着いたらすぐ現場入ってくれって言われてよ。ろくに説明もされずに適当な服で席に着いた途端、女の金切り声がして」

 A太は右手のひらを上向きにぱっと開いた。

「目の前が真っ白になって、それっきり。聞いた話じゃ、他社のモブも含めて、二十人くらいいっぺんに吹っ飛んだってよ」

「うへえ、すげえな。大殺戮じゃん」

 思わず顔をしかめる。

「うちみたいな零細がそれやられちゃうと、きついんだよな」

「な」

 A太も苦い顔で頷く。

「一度に何百人も動かす大企業様じゃねえんだからよ。大河小説ばりの展開やりてえなら、最初からそういうところに頼めっつうの」

 そう言ってから、A太は思い出したように俺の顔を見た。

「で、お前の方はあの日どうだったんだ」

「え?」

「急な仕事入ってたろ。深夜のナンパ」




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