斜陽に光る

呂不韋りょふいよ」

 成人の儀の前の晩──おれは呂不韋を呼び寄せた。何事でしょうかと穏やかな顔を見せる奴へ、朕は労いの言葉をかけた。

「大儀であったな。呂不韋。

「貴方様から、そのようなお言葉を頂戴するとは」

 呂不韋は頭を垂れた。「この呂不韋、光栄の極みです」

 呂不韋の目の奥には喜びが見えた。同時に、仄暗い野望の色も見てとれた。こいつは例の宦官のことを知っているだろうか? 今にもこいつに燃え移りそうな火種のことを知っているだろうか?


「のう、呂不韋よ。顔を上げて見せよ」

 老いた相国は顔を上げた。

 呂不韋よ。皺の数だけ重ねた苦労があったろう。自分の息子おれをお飾りの玉座に据えるために、なんでもやったろう。

「おまえにだけ、打ち明けよう。おれは病にかかっているのだ」

「病?」

「ひとの顔が見えぬ。まるで円の中に小石を並べたようにしか見えぬ。母上も、父上も、肌という土くれの上に石を乗せたような顔をしていた。廷臣も、宦官も、誰もかれも似たような顔だ」

 かれは初めて驚き一色に瞳を染め上げた。

「そんな、ことが」

「だがな、呂不韋よ。おれはお前の顔だけは、わかるのだ。お前だけだ。何故だかわかるか?……?」

 呂不韋は目をいっぱいに見開いたまま、唇をわななかせていた。

「のう、呂不韋よ。月が美しいな」

「政王、わたくしは──」

「聞かぬ」

 弁明を聞くつもりは毛頭なかった。もはや審判は下された。あとは全てが「ひっくり返る」だけだ。

「おまえは昔言ったな。『良き王になるであろう』と。お前の言葉通り、ちんは“皇帝”となる。お前はそれを見ているが良い」

「……」

「明日が楽しみだな」







 秦王政の9年──偽宦官・嫪毐ろうあいが反旗を翻す。後ろ盾・王太后趙姫ちょうきの名の下に食客及び領民を集め、咸陽目掛けて進軍を始める。

 その頃秦王政は、成人の儀のしきたり通り、旧都へと入った──。

 はずであったのだが。


「戦果を上げたものには褒美をとらす」

 静かな号令を受けて兵が進む。兵と、その兵を率いる将を見た誰もが叫んだ。そこにいるのは──。

嬴政えい・せい!?成人の儀は……」

「かかれ!秦王政の名の下に、この有象無象を退けよ、罪人を引き出せ!」

 嫪毐率いる反乱軍はたじろいだ。相手は完全武装の国王軍、そしてそれを率いるは紛れもない、若き秦国王嬴政である。

 嫪毐が「全て仕組まれたことであった」と知った時には遅く、嫪毐軍は散り散りになり、反乱軍は退却を余儀なくされた。

 しかし退却する反乱軍にも嬴政は容赦しない。

「やつを、嫪毐を引き出せ。やつを見つけるまでは退がるな。探せ!」

 この時、からくも逃げおおせるかと思われた嫪毐であったが、この秦王政の命を受けた兵士たちに見つかり、市中にて車裂きの刑に処されることとなる。秦王政は八つ裂きにされた反逆者の死骸を瞬き一つせず見ていたという。

 嫪毐の子二人を含めた一族郎党を皆殺しにした政は、実母趙姫を幽閉し、さらに呂不韋を重役から罷免ひめんした。


 呂不韋は、終わった。



呂不韋おまえ趙姫ははと通じていた。父上が亡くなったあとも。故に呂不韋は趙姫との関係を清算すべく、宦官に扮した偽宦官・嫪毐を後宮に潜入させた。間違いないな」

 青白い顔をした呂不韋が、嬴政を見上げた。

「……ああ」

「間違いがないかどうか、答えよ」

「……間違い、ございません」

 呂不韋の瞳の奥には怯えが見えた。野望のひとかけらもなく、希望の光もなく、ただ暗く冷たい水の底へ続くような絶望のみがあった。

「呂不韋に蟄居ちっきょを命ずる。下がらせろ」

 要するに2度と家から出るな、ということだ。生ぬるい刑であるが、廷臣たちがどうしてもと言ったのだ。

 しかし、呂不韋は朕のに納得できないらしかった。

「秦王!」

 呂不韋は兵の手を振り解いて玉座に縋った。

「秦王。今一度、いまひとたびの温情を。これまでの、わたくしの働きに免じて、どうか、どうか……」

 呂不韋の両の眼からは涙がこぼれた。泣き落としだった。実父である自分を立てて息子としての感情を揺さぶろうというのだ。もはや隠すつもりもないらしい。

 朕は冷め切った声で告げた。

「ならばしょくへと行け。これ以上朕の手を煩わせるな」

 呂不韋の顔は見なかった。ただ引っ立てられる男の嗚咽の裏で、昔初めて呂不韋を目の当たりにした時のことを思い出していた。

──あなたは、なにをするひとなの。

 朕の問いに呂不韋は微笑んで、嘘と本当を混ぜた言葉を放った。なんと言っていたか、今となっては思い出せない。



 呂不韋が毒酒を煽って死んだと聞いたのは翌朝のことであった。




 

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