悲しみよ、さようなら
桃園沙里
一章・運命の愛の証明
第1話
「悲しみよ、さようなら」
これが僕が勤めるQ社のキャッチフレーズだ。
一年半前、大学を卒業した僕は、ベンチャー企業のQ社に入社した。
社長である神谷氏が発明した「人間の記憶から悲しみを消す装置」を元に事業を始めた創立して六年めというベンチャー企業だったが、その勢いは破竹のごとく、この三、四年ほどで、次々と店舗を開き全国展開を始めた。
一般的に、人間の悲しみは時間とともに薄れていく。悲しみは人間の身体や精神にストレスを与え、体調不良や病気を引き起こす。だから、本人の意思に関わらず、脳はストレスの元となる悲しみを忘れようとする。悲しみを忘れ、優しい想い出だけを残そうとする。忘却というものは、人間の自己防衛本能なのだ。
ただ、忘却の度合いや悲しみに対する耐性は人によって違う。悲しみが想い出に変わる前に、身体、或は精神に変調をきたす人も多くいる。
我が社ではそういった人たちに、忘却を提供しているのだ。
僕はこの会社でコンサルタント、申込相談係を担当している。
ウェブサイトのフォームからの質問や相談、郵送での相談や、ウェブサイトのAIによるチャットで解決できない質問に答え、申込に誘導するのが僕らの仕事だ。
質問や相談は、ウェブサイトのフォームからが基本だが、インターネットを使えないお客様のために郵送という原始的なツールも残している。
僕の一日は、フォームから届いている相談の処理から始まる。
今日の最初の仕事は、恋人と別れた女性の家族からの相談だ。
「一ヶ月ほど前、娘が、お付き合いしていた彼に振られました。休日も家で塞ぎ込んでばかりなので、気分転換に旅行にでも行こうと誘うのですが、出かける気になれないと言っています。親としては、彼のことを早く忘れて、以前のように明るく、また次の恋を見つけてほしいと願い、御社のことを思い出しました。娘にはどのような忘却コースが良いのでしょうか。また、親である私が申し込めるのでしょうか。宜しくお願いします」
我が社の忘却コースは大きく二種類に分けられる。悲しみを薄くする通常コースと、悲しみの根源を忘却させる特別コースだ。相談内容によってどちらのコースが適切か判断するのも、僕らの役目である。
よほど特殊な理由がない限り、まず通常コースを勧めるのが常である。この相談も通常コースをお勧めする案件だ。
通常コースに使う忘却マシンのシステムを簡単に説明する。
人の記憶は、新しいものほど鮮明だ。脳に新しい情報が入れば、その分、過去の記憶は脳の奥に押し込まれる。
人の脳が大地だとすると、普段目に見えるのは表面の土だけだ。その下深くには多くの土があるのだが、掘り返さなければ目にすることはない。人の新しい記憶は木の葉のように大地に降り積もっては、次々と降る新しい木の葉の下に沈んでいく。大地深く眠るその記憶の木の葉は、やがて土に帰りにとの養分となっていき、想い出となる。
愛する者との別れの悲しみも、新しい情報が入っていくうち、徐々に過去のものとなって薄らいでいく。悲しいことがあった時、気分転換に旅行に出かけたりするのはその作用を見込んでのことだ。仕事を忙しくしているうちにいつの間にか悲しみが軽くなった、ということもあるだろう。
つまり、我が社のマシンは、旅行に行かなくとも、脳に新しい情報を流し込み、短時間で悲しみを過去の記憶にしてしまおうというものだ。
当初、近親者の死や別離などの悲しみを忘却することを想定して作ったらしいが、事業を始めてみると思わぬ反響があったそうだ。
日常的に起きる不快、例えば「仕事で辛いことがあった」「嫌いな人と会った」「意地悪された」などということを忘れられるのかという問い合わせが多かったのだ。通常ならば、飲みに行ったりカラオケに行ったり映画を見たりして憂さを晴らすようなことを、もっと簡単に忘れたいということだ。
それを受けて、我が社では、当日予約も可能で、十分程度で施術できる「短時間コース」を作った。すると、仕事帰りや昼休みなど、ちょっとした空き時間に利用する人が増えた。今では美容院の予約をするように、手軽に利用されている。それが今の会社の急成長につながった。
さて、先ほどの恋人と別れた女性の家族からの申込だが、基本的に本人からの申込でないと受付できない。その旨を伝えると同時に、娘さんには通常コースをお勧めする趣旨のメールを返信した。
いずれ娘さん本人から申込がくるだろう。通常コースや短時間コースは、インターネットの予約サイトから都合の良い日時、店舗を選んで簡単に申し込める。僕らは支払い状況を確認して、あとは店舗の担当者の仕事だ。予約日時に来店したお客様に施術すれば、完了だ。
通常コースや短時間コースは、今ある記憶を消すものではないので問題のあるケースはほとんどない。ブラックリストに載っていないかとか、支払いの確認程度で済む。
後ほど説明するが、特別コースではそうはいかない。
おっと、お客様からチャットでの相談が入ったようだ。チャットでは、AIが答えられない質問だと判定すると有人チャットに切り替わる。
「先月に愛犬を亡くし、悲しくて悲しくて、辛いので、この悲しみを忘れたいんです。それで、サイトに書いてある特別コースで忘れられますか」
今度は特別コースの相談だ。
我が社では、先ほど説明した通常コースの他に、悲しみの元そのものを忘れさせる特別コースがある。
人の悲しみを、記憶を消さずに悲しみだけを和らげるのが通常コースだとすると、特別コースは、悲しみの元となっているものの記憶を全部消すというものだ。
誰かと死別して悲しい場合、通常コースだとその人の死をずっと前のことのように感じさせ悲しみを和らげるが、特別コースの場合はその人の死、その人の存在に関する記憶を全部消す。最初からその人と出会わなかった、人生にその人は存在しなかった、という記憶状態になる。或いは、短期間であればある期間の記憶を消すことも可能だ。
「それはお辛いでしょう。私も以前愛するペットを亡くした経験があるので、お察しいたします」
マニュアルより・お客様に同調すること。
「特別コースは、悲しみの元となっているものを全部忘れるというものです。ペットの死が悲しい場合、ペットそのものの存在の記憶を全部無くします。最初からペットと出会わなかった、という状態になります。私どもは、まず、通常コースをお勧めしています」
通常コースは悲しみを薄くするだけで記憶そのものは無くならないので、ほとんどの申込に対して問題なく施術できる。
それに対して、人物、物事の記憶を消す特別コースは充分な審査が必要になる。記憶を消すことによって諸々の問題が生じることもあり、慎重にならざるをえない。
だから僕たちは、最初に通常コースを勧めている。
「ペットがいない寂しさを埋めようと、新しくペットを飼おうとペットショップに行くと亡くなったペットのことを思い出して、悲しくなってすぐお店を出てきちゃうんです。だから今すぐに忘れたいんです。特別コースでお願いしたいんです」
僕は、祖母の家で飼っていた犬を思い出した。
年に数回行く祖母の家では、僕が物心ついた時から今日まで、数匹の犬や猫を飼っている。死んだペットもいるが、祖母は「前に買っていた犬はこんなところが可愛かったのよ」などと笑顔で想い出を話す。
だから、相談者には違和感を覚えたが、それを口に出してはならない。深く考えずに先に進む。
マニュアルより・私情に左右されず処理すること。お客様に請われない限り、自分個人の感情的な意見を言わないこと。
「特別コースですと、そのペットの記憶全部が消えますが、よろしいですか。そのペットに関する物品、写真等、全て処分していただく必要があります。大丈夫でしょうか」
「ええ、大丈夫です。今の状態から抜け出せるのなら」
あっさりと承知した。
「こちらのリンクから、必要事項をご記入いただき、見積依頼のお申込をお願いいたします」
僕は、仮申込番号を伝え、見積依頼申込ページに誘導した。
特別コースでは、個々の案件により施術の内容や時間が違うため、まず見積もりしてから正式に申込をしてもらう。見積もりは、僕らコンサル部門ではなく審査部門での作業だ。
法的な確認の審査が必要か否か、などを含めて、審査部門が見積もりを出すのだ。
しばらくしてそのお客様から見積依頼申込が届き、記載内容に不備がないか確認した僕は、受けた相談内容の文面と共に審査部門に送信した。
審査部門では申込内容を精査し見積もりを出す。
通常コースと短時間コースは料金が決まっているが、特別コースは、記憶を消す施術料に加えて審査料も加算され、事案毎に見積もり料金を提示する。人物、物事の記憶を丸々消すので、充分な審査が必要になり、審査内容により料金が変わるのだ。
例えば、先ほど僕が受けたペットに関する記憶を消したいというような案件は、身分証明書などの簡単な確認作業だけで法的な審査が必要ない場合が多いので比較的安い。
一方で、法的に問題がないか、裁判所に問い合わせるなど弁護士の作業が必要になる案件は、それ相応に高額になる。施術料と合わせると、僕の一ヶ月分の給料を軽く超えるだろう。
しかし、そんな大金を払ってでも忘れたいと願う人が、世の中には大勢いるのだ。
中には、技術的に不可能な事案や倫理的に許されない事案、犯罪がらみの事案もある。「借金の催促がうるさいので借金を忘れたい」などと非常識なことを言う人もいる。僕らは、こういった案件を「門前払案件」と呼んでいるのだが、そういった門前払案件をできるかぎり振り落とすのが僕らコンサルの仕事だ。
門前払案件でなくでも、審査していくうちに法的に問題が出てくる案件がある。現在裁判中の案件や、記憶を消すことによって犯罪行為を助長してしまう恐れがある案件などがそうだ。
他にも、法的に問題はないが、倫理的に疑問がある案件もある。
審査部門では、身分証明書の確認はもちろんのこと、必要に応じて、肉親、近親者の同意書や関係者との面接なども行ない、審査部門に属する弁護士が裁判所、警察署と連携して審査をする。
そういった審査をして、問題ないと判定されたら、初めてそこで施術が可能となるのだ。
これほどまでに審査が厳しくなったのは、創業直後に施術したある特別コースの案件が元だ。
その案件は、殺人事件を目撃してしまった女性が、悪夢にうなされるようになったので事件のことを忘れさせて欲しいという内容だった。
当時、さほど審査が厳しくなく、問題なしと判断され、女性の記憶から事件の記憶を消した。しかしその後、事件はまだ裁判の途中で、女性は証人として証言する予定だったことがわかり、我が社の対応を非難され、検察や裁判所から厳重注意を受け、業務改善命令が出された。
我が社は、社内での厳重な審査体制を作成することで何とか会社を存続することができたが、この件は、三年前に「記憶消去制限法」が制定される原因ともなった。
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