恋人だなんて認めてやらない
ゆいとき
第1話 幸福の定義
重なるスズメの鳴き声が、地域一帯に朝の訪れを報せるように空で響き
徐々に意識が覚醒し始めるこの時間は、ある意味惰性で過ごしている美青にとって虚無の感情を隠せないほど無価値に等しい。少なくとも私にとっては、という前置きが入るのが、より自身の惨めさを表していた。
「……起きよ」
自分以外に人影の無い部屋で一人呟く。枕元の端に置かれた思い入れのあるクマのぬいぐるみが、真っ白なベッド上で妙な存在感を放っていた。
元々大人しめの性格と、知人によれば心の安定剤と比喩される声の雰囲気も、恐らく今は微塵も感じ取る事が出来ないだろう。最近の精神状況に引っ張られた結果か、周りの目が無い時に限り、普段の姿は密かに鳴りを潜めている。
両頬を勢いよく叩き、無理にテンションを上げてベッドから出ると、スプリングの軋む音を背後に流し部屋のドアを開けた。家族に心配事を見せる訳にもいかない。依然とした姿で無ければ、胸の内の不安も不満も隠しきれないのだから。
リビングに行くと、既に朝食準備中の母と眠そうに欠伸をしながらソファに寄り掛かる妹がいた。父は既に会社へ向かい、今日も家族の為に身を粉にして働いてくれている。
「おはよ~」
母に次いで妹が寝惚け声で挨拶を返す。
妹――
「最近
テーブルに置かれた朝食を三人で摂っている最中、母からの思わぬ問いに箸の動きを止めてしまうが、その様子を気に留める事は無い。何も言えずに小さく狼狽える美青の横から、妹の花梨が言葉を挟んだ。
「想花さんはいつも通りだと思うよ。お姉ちゃんと一緒にいる姿もよく見かけるし、話題に出すだけの話も無いだけじゃない? ねぇ、お姉ちゃん」
「え? う、うん。花梨の言う通りだよ」
「そう? なら良かった。前はずっと想花ちゃんって言ってたのに最近は名前すら聞かないから、少し気になってたの」
そう言って一切疑う素振りも見せず話を終えた母は視線をテレビの画面へと移す。内心ホッと胸を撫で下ろし、一抹の緊張が解かれた美青は花梨に感謝の意を込め微笑みかけた。
花梨は顔を向ける事は無く、むしろこの話題が母から出た時より苛立っているのを表情から感じ取れる。
その湧いて出る苛立ちの矛先がどちらなのか、美青には判断する材料が多すぎて、今この場で真相を紐解く事は出来ない。だが、どちらにしても原因として占める割合の九割が美青自身である事を自覚している為に言及するのは憚られた。
先程花梨の言っていた内容は事実ではあるが、あくまで事実の一部分しか語られていない。
実際に美青と想花は教室も一緒で席も隣という事もあり、昼休憩に放課後のひとときなど共に過ごす時間は長いと自負している。だがそれは美青が、と言うより美青達と言うのが適切だ。
想花はモテる。とは言っても誰彼構わず矢印を向けられる高嶺の花という意味では無く、彼女の優しさの一端に触れた一部の人間からの人気が強い。
長い黒髪に澄んだ瞳に加え、堂々とした立ち振る舞いからクールな優等生を連想される想花だが、その実態は全く正反対の性格で、寧ろ気力旺盛を体現したパワフルガールだ。
そんな事もあって一部の生徒や教師陣からは厄介者として認定されているが、彼女の持つ他人への善意は本物であり、その想花の持つ普遍的な優しさに助けられた人の中には彼女に対して恋慕う者は多かった。
結果出来上がったのが想花によるハーレム集団だ。クラスの違う同学年の女子に後輩二人の計三名は、休憩時間に入った瞬間問答無用で美青達のクラスを訪れては想花を囲んで歓談している。各々の交友関係を心配する事も少なくは無かったが、元々友達の少ない人間関係の背景も、この状況を後押ししていると言わざるを得ない。
気が付けば、想花を中心に三人が周りを固めたその横の席に一人座る美青という図が出来上がっていた。
この五人は最近では日常化した姿として周囲の人々からも認知されるようになっている。
花梨の説明はその部分から他三人の存在を挙げずに話していた為、母は想花と美青が二人で過ごしているのだと勘違いしているだろう。その誤解を解くにも、今は話すのも面倒なためそのまま放置する事にした。
「行ってきまーす」
「行ってきます」
着替えを済ませた美青と花梨は学校指定の制服を身に纏って家を出る。放課後は想花と行動する時間が殆どのため、姉妹二人きりとなるこの時間は案外貴重だったりする。
大切な実の妹だというのに、美青は姉妹の時間に感じる僅かな緊張を一方的に感じてしまう。
だからと言って姉妹仲が悪い訳でも互いに避けている訳でも無い。今一緒に登校している事が一つの証明として示されている。しっかり者の妹と対照的な不甲斐無い姉だが、家族との交流の大切さは十分に理解しているつもりだ。
「そういえば、さっきはありがとうね。助かっちゃった」
「別に……。お姉ちゃんが困ってそうだから言っただけだし」
表情はあまり変わっていないが、理由そのものは美青への好意で出来上がっている。色々不器用なだけで、溢れ出る親切心を他者に与える事を厭わない、ひたすらに優しい妹なのだ。
「花梨の方はどう? 菜々ちゃん達と今でも仲良くしてる?」
「うん。でも、美里が最近恋人出来たっぽくて、たまにいなくなるけど他は比較的いつも通りだよ」
「へぇ! 恋人かぁ……今の高校一年生は進んでるなぁ」
「お姉ちゃんと一年差しかないんだけど!? 急にお婆ちゃんにならないでよ」
花梨の動揺も見れて自然と笑みが零れる。最近不安定な胸中で生きている美青にとって、花梨や母といる時間は以前より楽しく感じて仕方がない。昔と変わらぬ要素を持ち続ける花梨を見ると、その存在に心の安らぎを感じるようになった。
不変の概念に対して強い関心と愛を向けるようになったのが何時からだったか。歪んでいるなと自身を嘲笑してしまう。
曲がり角を右に曲がり、後は一直線に歩けば学校の校舎へ着く。最初に校舎を視界に捉えると、校舎を背景に次いで目に入るのは疎らに歩く人々。
その中に数十メートル先に前を歩く二人の姿が目に入る。その光景は私の感情を揺さぶり心を痛め苦しませるには十分だったが、花梨もいる手前悟らせないよう笑顔を張り付け元気な姿を取り繕う。
花梨は前を見てから美青へ視線を向けると、一層憂う表情を見せた。
「……いいの? 行かなくて」
桜並木の下を歩いていたのは、朝の話題に上がっていた私と花梨共通の幼馴染、想花本人だった。その隣には嬉々として手を繋ぎ微笑んでいる少女がいる。同学年の別クラス所属であり想花を恋慕う一人、
愛菜は髪を後ろの纏めて結っており、歩くたびに跳ねる一房の髪束はまるで犬の尻尾の様に見える。
手を繋いで歩く二人の姿は正しく恋人と言う関係性が似合っている。愛菜の方から寄り添うように隙間を埋め、想花の方もそれを拒まないあたりが二人の仲の良さと信頼関係が窺える。
それもそのはず、この二人は既に恋仲の関係。相思相愛の恋人関係なのだ。想花のハーレムとは名ばかりの集団では無い。想花の周囲を常に陣取るメンバーは総じて想花と付き合っている。悪く言えば恋人公認の浮気行為だ。
同級生の愛菜に後輩二人の
唯一の救いは、想花自身が人との関わりと共に行動する時間を好み、むしろ独りを苦手とする性格なため、息苦しさを感じる事無く三人からの愛とも呼べる行動制限を喜び享受している点だろうか。それを受け入れるだけの器が一つの魅力として機能しているのかもしれない。
「良いの。それに、花梨とは学年も違うからあまり一緒にいれないし。せめて朝くらいは花梨と一緒にいたい」
「そ、そう? 別にいいのに」
遠慮気味な反応の中に若干滲んで見える歓喜の声。普段感情をあまり出さない花梨の一面を垣間見る事も姉である美青の特権と言える。
愛らしい反応を見せる花梨の頭を横から撫でる姿勢を取ると、形ばかりの抵抗を見せつつ「外では恥ずかしい」と可愛い理由で拒否の意を示した。次は室内でリベンジしようと決めた瞬間だった。
何故花梨が目の前の二人を見て私の機嫌を窺うような反応を見せたのか。その理由は、主に美青と想花の関係にある。
菊端姉妹と想花の関係性は幼馴染と一言で収まるが、美青と想花に限っては約二年前のある日から進展しその名前も変化している。
とは言っても特段勿体ぶる程の話では無く、簡潔に言えば美青自身も想花と恋仲にあるのだ。ハーレム集団とは美青を含めた計四名により構成されている。
花梨も美青と彼女達の歪な関係性を知っている。想花の複数の人間を侍らすような行為に対して思う所はあるようで、昔は比較的仲の良かった花梨と想花の関係は、今となっては皆無と言える程。それを本人に直接吐露する事無く抑えているのは、何より美青がこの関係の
一つの軋みで瓦解しかねない関係の渦中に立つ美青の事を憂慮してくれる。優しさを体現したかのような妹は一生の自慢となる存在だ。
本心として、昼休憩など朝登校時以外に花梨との時間を作りたい気持ちは強くあるのだが、美青には美青の付き合いがあるように花梨にも友達との時間がある。自分は家で話せるのだから、学校では友達にその立場を譲るべきだろうと抑えているのだ。
想花は恋人として、花梨は姉妹として、関係性は違えど、同様に大切な存在という認識にあまり差異は無い。
振り払われた腕を定位置に戻し、代わりに横顔をじっと見つめる。
無表情の能面を被り、普段の気怠げな雰囲気を纏わせる花梨はあまり人との関わりに積極的な性格では無い。その事を踏まえると、普段の花梨と友達として付き合いを持つ菜々達の存在は相当に貴重なのは明らかだ。中でも特筆しているのは、高校で初めて花梨の友達となった菜々だろうか。
人との適切な距離感を感じ取り、相手によってその積極性を使い分ける天性のコミュニケーション能力を持つ。美青自身も過去に家へ遊びに来た際に圧巻させられた一人だ。
あまり花梨の人間関係に不安を持つ事の無い大きな理由として、菜々が友達と言う点は大きい。これからも良い友達として良好な関係を築いてほしい。
頭でそんな事を考えながら歩いていれば、当然学校の校舎との距離は近付いていく。
なんとなく今は想花と接触するのを億劫に感じ、歩調を緩めて時間を置き、二人の姿が校舎へ完全に見えなくなってから正門を潜り校舎内に足を踏み入れた。
かなり早い時間帯のため、当然だが正面玄関に他の生徒の姿は一切見当たらない。想花達も既に自身の教室へ向かっているだろう。
学年ごとに教室の階層も下駄箱の位置も違うため、実質花梨とはここで分かれる事になる。
「じゃあ花梨、私もう行くね。帰りはいつもの時間には帰るから」
「うん……あっ、お姉ちゃんちょっと待って」
動かそうとした右脚を止め、くるりと花梨の方に向き直す。靴を履き替え終わった花梨は美青の元へと駆け寄ると、まるで言うか悩む素振りを見せる。一瞬の逡巡後、意を決したように口を開いた。
「あの……最近元気無いみたいだけど、何かあったならちゃんと私に相談して。いつものお姉ちゃんを装ってるつもりかもしれないけど、わたしには全部バレバレだから」
その言葉は知ってか知らずか、美青の抱える心情の矛盾を言及する発言だった。
朝起きてすぐに気合を入れて、無理にでも普段通りの自分自身を演じるように行動してきた。あくまでこれは自分一人の問題で、私情で育まれた悪感情を想花や周りに漏れぬよう努めてきた。
恥ずかしい事に、それは一人芝居で終わっていたらしい。花梨に全て筒抜けだったという事実に、美青は相反する衝撃を受けていた。
誤魔化し続けた心の内を更に騙し続けてはまた意気阻喪する日々だった美青に、花梨は気付いて想花には気付かれなかった事に多少の寂しさを感じてしまった。隠していたのだから、想花に気づかれていないのは限りなく良い事の筈なのに、今はそれを不満に感じる自分の浅ましさに失望してしまう。
それに反して、花梨には気付かれたという事実は感じた寂しさを覆うように癒し暖めてくれる。花梨の言葉一つに、下も上も同時に至った気持ちだった。
花梨の言葉は結果的に美青の気分を和らげることに成功している。自然と顔は緩み、自分の崩れた表情を確認する術は無いが、その顔を見る相手が妹である以上気にする理由は無い。
「ありがとう! でも、本当にまだ大丈夫だから。何かあったら真っ先に相談するね?」
澄ました顔が呆けるように口を小さく開き、呆然としている姿は写真に収めたいほど珍しい。ハッとして正気に戻った花梨はまたいつもの澄まし顔に戻ってしまう。微妙に口元の端々がヒクついているのは言わないでおくべきか。
それでも花梨がその言葉で納得する事は無かったようで、数秒こちらを見つめたまま、目を閉じると同時に小さく息を吐く。
「分かった。今はそれでいいけど、相談するって約束は絶対守って」
「約束する! やっぱり花梨は優しいね」
自然と手が伸び頭を撫でようとするも、またしても叩かれ拒まれてしまう。室内なら良いというのも間違いらしい。
「ここ学校。人がいないからと言って、高校生にもなった姉妹が公の場でなんて、絶対にダメです」
「わぁ……真面目な花梨さんが出てきちゃった」
家に帰宅後の挑戦を心で固め二人で歩き始めた。十秒もすれば階段へ到着し、それぞれの教室のある階層を目的として上り始める。美青の目的地となる三階にたどり着き、花梨とは放課後家に帰るまでのお別れの時間となった。
教室のある四階に向かい上りだした花梨の背中を階下から眺めて、正面玄関で言われた言葉を反芻する。
何かあったら真っ先に花梨へ相談するという約束。悩みの原因の半分が、自分自身の自業自得が招いた結果だとしても、花梨は自分を助けてくれるだろうか。
既に汚れ綻び堕ち、一人で修復不可能なまでに創られた幸福を生きる中で、泥沼から抜け出す事も出来ずに甘んじている姿は滑稽としか言えないだろう。手段はこの手にあるのに、行使するに至れない不完全に狂った判断基準。
美青が一人で解決出来たラインは、恐らくとうの昔に超えていた。底なし沼に陥る前に対処すべきだったのに、過去の自分は関係破綻を恐れた故の選択により崩壊の一途をたどっている。この精神状態は美青自身で蒔いた種の芽が育ち続けて放置した、まさに因果応報と言えるだろう。
それを知って尚、沼に浸かり続ける道を選んだのは、美青自身が未だその感情を捨てきれないでいるからだろうか。この日々は恐らく、これからも暫く続いて終わらない。
もっと自分が強かであれば、なんて考えても仕方がない。自分は自分で、変わりたいと願って即変われる程人間はできていない。
渡り廊下を真っすぐ進み、最奥にある教室の扉の前で立ち止まる。この扉を開けばいつもの日々が始まる。大好きな想花に会って話す事が叶うのだから、きっと自分は嬉しいはずだ。
想花への恋愛感情は本物だし、それは今も変わらない。こうなる前に、いっそ嫌いになれたらと思う事は数えきれないほどある。恋の感情は厄介なもので、三の不満は一の幸福で塗りつぶされる。理解した上で拒めないのだから救えない人間なのだと思う。
でも間違いなく、それでも幸せな日々なのだ。思考も関係も状況も感情も望みも過去も未来も救いも後悔も葛藤も自分の醜さも、全ての思索と不安を投げ捨てて感じる事の幸福は、少なくとも今はこの中にある。
それでいい、今はこのまま縋って生きて、結果は後から生み出される。だから今は、今はそれでいい。
――自分が駄目な人間だなんて、今更の話だ。
緊張する理由なんて無い。そう自身の胸に言い聞かせて、小さく息を吐いてから引手に手をかけ扉を開けた。
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