第64話 拾われ子と賢者とメイドと

 ちゃぷん、と音を立てて浴槽の湯が揺れた。

 此処は賢者シンシアの家で、スイは風呂に入っている。

 冬の日没は早い。シンシアの話、そしてスイのこれまでの話をお互いに聞き終わった時には既に日が暮れようとしていた。

 クロエに送らせようとシンシアが宿について訊ねた時、宿が満室でまだ決めていないとスイが答えると、二人は顔を見合わせて良い顔で笑った。


「それならば、是非泊まっていってください。部屋なら余ってますもの。クロエ」


「はい、少々お時間をくださいませ」


 スイが返答する前に決定事項となり、クロエは部屋を出ていった。そしてすぐに二階にある客室を整え、風呂まで勧められて今に至る。


『(まさか湯船に浸かれるなんて)』


 西大陸も、これまで泊まってきた中央大陸の宿屋もすべてシャワーだけだった。男女別の大浴場がある宿屋もあるが、性別を誤魔化して旅をしている手前、スイは各部屋に風呂がある宿屋にしか泊まっていない。

 記憶にある限りでは七年ぶりの湯船だ。


『(前に入ったのは母様ははさま姉様あねさまと一緒だったっけ……)』


 薄れ、消えた記憶もあれば、ふと思い出す記憶もある。

 その度にスイは思う。両親は、姉兄きょうだいは無事なんだろうかと。

 母が声を荒らげたあの時、何が起こっていたのか。紅い眼の男は誰なのか。父ではないと信じたい。


『(新年祭で人が集まっているなら、東大陸の事も色々聞けないかな)』


 そう思った所で、疑問がひとつ浮かんだ。


『(……どうやって故郷を探し出せばいいんだろう……?)』


 聞き込みをすれば、東大陸の情勢は知れるだろうが、家族に繋がる情報など何も知らない身では故郷を探し出せない。


『(どうやって、さが、そう……)』


 頭がぼんやりとする。身体が熱い。

 湯船からあがって脱衣所で身体を拭き、着替えた所でスイの意識は途切れた。




 ざりっ、ざりっと音がする。左頬の痛みに目を開けると、視界の大半をコハクが占めていた。


『コハク、ほっぺ痛い……』


「やっと起きた! スイー!」


『痛っ、痛いコハク……!』


 頭を頬に押し付けられ、二種類の痛みに襲われる。もふもふの頭を撫でて、どうにか宥めた。


『……私いつ部屋に戻ってきたっけ……』


「風呂場を出た所で倒れてるのをクロエが見つけて運んできた。ノボセって言ってたぞ」


『のぼっ……しまった……!』


 クロエに謝りに行かなければとベッドから降りようとして、膝から崩れ落ちて転んだ。それと同時に部屋のドアが開いた。


「大丈夫ですか?」


『クロエさん! あの、ご迷惑をお掛けしてすみません……!』


 入ってきたクロエはベッド横のサイドテーブルにグラスと水差しを乗せたトレーを置くと、手を貸してスイを起こした。


「逆上せた事であれば、あの程度、迷惑には入りません」


 スイはベッドに座らせられて水の入ったグラスを受け取る。一口飲めば身体がもっとと欲しているのが解り、ほぼ一気飲みに近い勢いで水を飲み干した。


「もう一杯注ぎましょうか?」


『いえ、大丈夫です』


 断ると、クロエは微かに口を開けた。すぐに閉じたが、何やら言い惑っているように見える。


『……どうしました?』


 促せば、遠慮がちにスイに訊ねた。


「……スイ様は、新年祭の後に向かう場所はもう決まっているのでしょうか?」


『え? いえ、まだ決まってません。新年祭で旅人に話を聞きながら考えようと思ってます』


「そうですか」


 予想していなかった質問をされて一瞬スイの口から素っ頓狂な声が出た。クロエがそれを気にする素振りはなく、僅かに頷いただけだった。


「……お時間を取らせて申し訳ございませんでした。新年祭は夜明けと共に始まります。朝から街に出る予定であれば、今夜は早めにお休みになってください」


『解りました』


 クロエが部屋を出て行くと、コハクがもぞりと動き、ベッドの端に顎を乗せた。


「明日どうするんだ?」


『せっかくだし、朝から動こうか。三日間行われるから、その間に見れる所は見て回りたい』


「解った」


『……あ、髪濡れたままだ』


 魔石灯を消そうとして、濡れた髪に気付いたスイは魔力操作で余分な水分を抜いた。まだ少し湿り気がある分は威力を弱めた風魔法で乾かす。


「魔力操作、慣れてきたな」


『まだ一発で上手く出来ないけどね』


 今度こそ魔石灯を消して、スイはベッドに横になった。コハクはベッドの横で丸くなる。


『おやすみ、コハク』


「おやすみ、スイ」




 翌朝、夜明け前にスイは起きた。柔軟体操をして身体を解していると、気配でコハクも目を覚ました。


『おはよう』


「おはよ……う」


 大きく口を開けて欠伸をすると、カプッと音を立てて閉じた。目をしょぼしょぼとさせている。


『寝てても良いよ?』


「やだ。着いていく」


 身体を伸ばすとぶるぶると頭を振った。

 コハクが完全に起きたのを確認して部屋のドアを開けると、階段を上がってくるクロエが見えた。


『おはようございます』


「おはようございます、スイ様。朝食は如何なさいますか?」


『屋台で適当に食べようと思います』


「……そうですか。承知致しました」


 心做しか、少々落胆している様に見えなくもない。


「お出掛け前に、シンシア様が渡したい物があるそうなのでリビングまでお越しいただけますか?」


『解りました』


 クロエに着いていき、階段を降りて一階に降りる。リビングに入るとシンシアと目が合った。座っていたソファーから立ち上がり、スイの前まで来ると口を開いた。


「おはようございます、スイ」


『おはようございます』


「シンシア様、スイ様達は屋台で朝食を摂るとの事です」


「あら……でも、そうですね。新年祭の屋台は各地域の料理が食べられるから、興味がそそられるのも解ります。では、スイ。これをどうぞ」


『? これ、は……っ!?』


 シンシアの側に控えていたクロエから袋を受け取った瞬間、重さと硬さとジャラッと言う音で中身を理解した。


「お小遣いです。新年祭は大きな行事ですから、必要で――」


『いえいえいえ! じ、自分で稼いでいるので大丈夫です! お返しします!』


 首を左右に振りながらクロエに押し付ける。

 間違っても「お小遣い」と言える重さではなかった。


『(あれがお小遣いって言えるの、多分貴族位……いや、あの人も言いかねない……?)』


 夜空色の髪のハンターを思い出してそんな事を考えた。


「そうですか……? 昨日から思っていましたが、スイはしっかりしていると言うか……もっと甘えて良いのですよ?」


「シンシア様の言う通りです。私の仕事が全く増えないので、もっと用件を言いつけてください。あと此方もどうかお持ちください」


『(あれ、私がおかしいの?)』


 二対一で言いくるめられそうになるが、スイは自分の考えを貫いてずっしり重い「お小遣い」を断った。


「……解りました。そこまで言うならば、無理強いは出来ませんね」


「残念です。では、代わりに夕食を豪華にするのは如何でしょうか。シンシア様」


「それは良い考えです。スイ、屋台を楽しむのは良いですが、夕食が食べられる様に空けておいてくださいね」


「お風呂も、昨日よりぬるめにしておきますので心置きなく浸かってください」


 ホッとしたのも束の間、何故か今日も泊まる流れに持っていかれている。

 流石に二日も世話になる訳にはいかないと焦って口を開こうとしたら、追撃がきた。


「新年祭は三日間ありますし、その間、宿の部屋が空く事はまずありません」


『うっ……』


「久しぶりのお客様ですし、レイラ姉様の孫なら姪孫……私にとっても孫ですもの。どうか、ゆっくりしていってください」


『うぅぅ……!』


「……クロエの言う通りなら、此処に泊まるしかないんじゃないか?」


『コハクまで……!』


「では、そういう事で決まりですね。腕によりをかけて作りますので、夕食を楽しみにしつつ、新年祭もお楽しみください」


「……コハクに渡しておけば、スイも受け取ってくれるでしょうか……?」


『行くよコハク! 太陽が昇ってきた!』


 シンシアに「お小遣い」を渡されそうになっているコハクを押して玄関から飛び出た。

 おっとりしたシンシアと、彼女に付き従うメイドのクロエ。どちらも大人しそうかと思いきや、意外と押しが強い。あと金銭感覚がおかしい。

 門の外まで走って振り返ったが、シンシアもクロエも追いかけて来る気配は無い。

 安堵の溜息を吐くと、市街地の方で歓声が起きた。太陽が顔を出し、街を照らし始める。


『始まったみたい。行こう!』


「うん!」


 スイとコハクは市街地に向かって走っていった。

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