第90話 約束

「でもなら……もっと早くに言ってくれればよかったのに」

 優芽の柔らかな文句を琴樹はすぐには解釈できなかった。それを優芽も感じ取って、いつを継ぎ足す。

「入学式の日にそんな風に、思ってくれたなら……思ってくれたにしては、琴樹、全然私に……話し掛けてきたりとか、なかったよね。それを……話し掛けてくれてればっていうのは……私のわがままだけどさ」

「言えるわけ、ないだろ。話せるわけ。なんて言えばいいんだよ。君が死んだ親戚に似てるから仲良くしてくれって?」

「そういう言い方しなくていいじゃん」

 眉を寄せる優芽の言い分に文句の付け所はなく、琴樹は「ごめん」を呟いた。すぐそばの優芽にさえ、辛うじて届くはず程度の弱さになったことを恥じる。大きめに吸う空気は新緑の青さを感じさせた。

「俺も、話しておけばよかったって、今は思う。そりゃ自分のことなんかは言えなくても、優芽にもっと、君には……もっと普通に話し掛けておけば……」

 色んな事が今より、ほんの少しは、違っただろうか。

 希美にあんな顔をさせてしまうことはなかっただろうか。

 芽衣にもっとずっと前、もっとずっと早くに、出会えていただろうか。

 いよいよ我が家というものがたった二人になった時に、母さんを支える事が出来ただろうか。家の事、将来の事、じいちゃんの事、虚勢でも考えなしでもいい、明るい話をしてあげられただろうか。

 もっとずっとちゃんと――優芽を、好きになっていた――はずだ。


 琴樹は優芽を見る。見たかったからだ。見ていたいからだ。

 もっとずっとちゃんと、見るために。

「伝えておかなきゃいけないこと……」

 だと琴樹は思っている。きっとそれは間違いじゃないはずだと思える。

「伝えておくべきこと、だけど……俺……ゴールデンウィークが終わったら、俺……学校を休むことに、した、しばらく……早くても来年、三学期がはじまるまでは……学校を休んで、その、引っ越しも……今の家も整理して……だから、あ、あぁ、ごめん、これも……これも言ってない、言ってなかったけど、だからその、俺は今、カウンセリング……心……せ、いわゆる……精神病、て、やつ、なんだけど……そういうあの、カウンセリングを受けててそれでっ……しばらくきちんと休むのが、いいんじゃないかって……」

 恥じゃない。弱さじゃない。隠すようなことじゃない。言うのは簡単で、言われる言葉もそればかり。

 そんな程度で思えるならばどれだけよかっただろうか。

 琴樹は怖くて仕方ない。

 呆れられる。冷められる。嫌われる。見捨てられる。そう恐怖することで、恐れ臆し、情けない姿を見せてしまうことで余計に。

 呆れられ、冷められ、嫌われ、見捨てられる。

 話す前、話しはじめる前には大丈夫だと自分に言い聞かせられたし、覚悟もあった。そんなもの、まるで意味がなかったけれど。

 琴樹の喉が鳴ったのは唾を飲み込んだからで、その音を琴樹自身が拾ってしまった。ひどく気持ち悪いものとして響く音が自分そのもののようで滑稽ですらあった。

「それだけだ。戻ってくるつもりで、わるいけど、そんな感じで、あと数日したら来年まではいなくなるから」


 優芽には優芽の想いがある。

「安心してく」

 れ、までは言わせず、優芽は琴樹の顔を掴んだ。掴んだというか、両手で両頬を挟み込んだ。けっこう力強く。

「怒るよ?」

 ぐっと挟んで掴んで逃がさない。強制的に向き合わせて、見つめ合って、至近の距離で。

「安心? ……するわけないじゃん」

 勝手な人に勝手なことを言う。

「やだよ。嫌だし寂しいし、悲しいよ。琴樹がいなくなったら、嫌に決まってるじゃん」

 ぐにぐにと、「このこの」と琴樹の顔を変形させる。変な顔、おかしな顔、ダサい顔になるし、不細工だ。カッコよくない。カッコいい。

「ほんっと、勝手だよね! 勝手に決めてさ! それは……琴樹の事だよ? けどさ? 相談くらいしてくれても、して欲しかった! です! もう!」

 最後に思いっ切りぎゅーっと挟んで手を離す。「赤くなってる」のは言った本人がやったことである。それから俯いて言う。

「……帰ってくるんだよね?」

「……必ず」

「なるほど。……もしかしてだけど……舞さんってうちの学校通ってた?」

「え……あ、あぁ……通ってた、けど……なんで」

「なんでぇ? なんでもなにもないんですけど」

 むっすりと眉間に皺を寄せた優芽には、わかりきったことだ。それこそ、なんで、わからないと思うのか。

「いや、その……そうです……代わりに、じゃないけど……卒業出来なかった舞ねえちゃんの代わりに、俺が、俺は、絶対に卒業は、しなきゃいけないから、だから必ず、戻っては、くる」

 優芽は目を瞑った。色んなことが頭の中を巡って、どれについても大して考えられていやしない。いま測ったらIQ3かも、なんてどうでもよすぎる思考まで湧いてくる始末だ。

 たぶん、と優芽は思う。

 たぶんいま自分は、必死なのだ。

 必死で、懸命で、死に物狂いで。でもなにも出来ることがないから、ひどく落ち着いている。

 目を開ければすぐそこにいる人を。必死に。繋ぎ止めたい。行かせたくない。止めたくはない。傍にいて欲しいし、背中を押して送り出したい。

「いつ、行くの?」

 なんとなく、どこへを訊いてはいけない気がした。たぶん、知れば行ってしまうから。ある程度でも見当がつけば、きっと探しに行ってしまうという確信があった。

 自分もけっこうめんどくさいかも? 優芽はほんのひと匙のおかしさに小さく笑みを浮かべた。

「ゴールデンウィークの最終日だから、二週間後、二週間後に、出て行く」

「二週間……」

 口に出してみて、そのあまりの近さに眩暈がしそうになった。来週はまだ学校がある。一週間、いつもの学校生活。その後にはゴールデンウィークに入って。ということは。

「ゴールデンウィーク……全部……全部空けといて。全部全部、空けといてよ」

「……最終日以外なら」

 めんどくさいことをしよう。

「じゃ、決まり! うーん……お茶してぇ、買い物でしょ、映画もまた面白そうなのあるし……定番は、遊園地とか、そうだ! 芽衣が地球……博? 展だか、行きたいって言ってたからそれも行くでしょ。あとはぁ、ちょっと、遠出もしたいなぁ……温泉……いや、いや、いやいや、それはまだ、うん、早いから、けど、なしなしなし! 今のはなし! そうあと、あれ! 涼たちのバンドの、てか、そうだ、そうだった」

 優芽は鞄を漁ってチケットを取り出す。二枚。

「これ、浦部から預かってたんだった。これ……琴樹から頼まれたって、なんでか私が渡されたんだけど……」

「あいつ……」

 優芽には琴樹の苦笑の理由はわからない。

「それ……まぁいいや。じゃあ、一緒に行ってくれないか、ライブ。俺と二人で」

「もちろん。……でもたぶん、それなりに知り合いいるんじゃないかな」

「たしかに」

 まぁでも、それも別にどうでもいいだろう。

 それから、行きたい場所を言い合って、きっと間違いなく全部は行けないけれど、そうして琴樹と優芽はたくさんの約束をした。

 一生に一度の、二度とない十六歳の、高校二年の、たった一度きりのゴールデンウィークは、もう一週間後のこと。

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