第46話 幼女大脱走

「まーたんせんせえ、おはようございます」

「はい、おはようございます、恵美えみちゃん」


 巻田まきたあかりにとって、それは仕事であると同時に元気を貰うこと、活力の源とでも言えることであった。

 登園してきた子たちと笑顔で挨拶を交わすと、一日を頑張る元気が湧いてくるのだ。

 天職、と言ってよかった。少なくとも性格面においては。


「まーたんせんせえ、おはようございます」

 同じ言葉を別の声でかけられる。朝にはこうやってご挨拶し合うんだよ、と教えたのは明自身で、どこまでも素直な児童たちに向ける笑みは、一片の雑じりもなく自然と浮かぶものだった。

「はい、おはようございます、芽衣ちゃん」

 また一人、園に迎え入れて、送ってきた保護者に一礼する。


 白木芽衣、白木早智子、白木家。

 園の職員一同、全員が全員よく知っているご家庭となると多くはないもので、白木さんのところ、はその少ない事例の一件だ。

 姉の優芽ちゃんも面倒を見た明からすると、だいぶ馴染みの相手であった。

「優芽ちゃんはお元気ですか?」

「ええ。あら? このあいだ迎えに寄越した時には、会いませんでしたか?」

「丁度お休みをいただいていた日だったので」

 世間話というか、昔懐かしむ話というか、そういったこともよくしている。

「優芽ちゃん、また一段と綺麗になったって。工藤くどう先生や、恵美ちゃんやあきらくんも言っていましたよ」

 今しがた横を走り抜けていったおさげの女の子を思い出す。恵美ちゃんは特に、芽衣ちゃんのお姉ちゃん、優芽の存在を羨ましがっている。というのを、早智子も承知している。

「うふふ、そうかも。なんだか最近、気になる男の子もできたみたいで」

 口調を砕けさせて早智子はにんまりとした笑みを、一応は手の平で口元だけは隠した。

「あら! まぁ! それはそれは」

 うふふふおほほほ、と笑い合う大人二人を見上げて芽衣は思う。なんだかちょっとこわい。

「おねえちゃんのわうくち言っちゃだめなの」

 左手に母、右手に担任の先生、の服をぐいぐいと引っ張り訴える。

「あらあら、ごめんなさいね芽衣ちゃん。悪口じゃないのよ? 優芽お姉ちゃんも大人になったのねーって嬉しく思っていたの」

「そうよ。ほんとうに優芽も……とうとうねぇ」

「おねえちゃんはずっと、おとなさんだよ?」

 時々に言われることだ。芽衣は子供なんだからとか、私は大人だからとか。

 大人になったら、夜にいっぱい起きててもいいし、ケーキをいっぱい食べてもいいのだ。だから早く大人になりたい芽衣である。

「そうよね。と。失礼しますね」

 一言言って明は白木親子から目を外す。次の出迎えがあるから。

 忙しい朝に歓談に割ける時間は、たまに、少しくらい。



 わいわいがやがや。言ってしまえば騒音だ。

 教室に集まって、お席に座って、どんな話題もどんなモノも会話のネタになっているし会話の体を成していないこともしばしば。

 お行儀よく自分の席に座っているだけ、かなり助かることだと明はよく知っている。

 手を打ち鳴らして注目を集め声をかける。

「みんなー。これからなにするか……知ってる子はいるかなー?」


 しってる!

 オレもやる!

 おしばなー!

 せんせーこれー!


 と答えは各々自由気ままではある。

 それら一つ一つをいちいち拾い上げはしない。そんなことをしていたら過労で倒れてしまう。

「そうだね。これからみんなには押し花を作ってもらいます。はい、みんなも一緒に。せーの」


 おしばなー!


「それじゃあいつもの順番で先生のところに来てくれるかな? おうちから持ってきたお花を持って先生のところにね」


 はーい!


「待ってる間は、お隣の子とお花の見せ合いっこしようねー」

 もう一回、はーい! と元気のいい返事が重なり響いて、最初の子が明のもとに走ってくる。

 差し出されたお花を受け取って、花と茎とを切り離す。はさみは扱わせられないから、その工程だけは明がやるというわけだった。

 それと。

「恵美ちゃんは、どんなお願いごとするのかな?」

 押し花に掛ける願いを、一人一人に教えて貰うために。

「えみはもちろん、お姉ちゃんもらうよ! ゆめちゃんみたいなきれーなお姉ちゃん! えみも作ってもらうの!」

「そう。いいお願いね。叶うといいわね」

「だいじょうぶ! えへへー、はい!」

 恵美ちゃんが背中に回していた左手を、明も気にしてはいた。まさか、花束を持っているとは思わなかったが。

「これでだいじょうぶでしょー! ふふん!」

「そうねー。ママとパパに相談しようね。お姉ちゃんのこと」

「うん!」

 恵美ちゃんのお母さんお父さんには頑張ってもらうとして、一保育士の限界というものもご理解いただけることを願っておいた。


 世界で一番強くなる。ピーマンが全部なくなりますように。夏が好きだからずっと夏がいい。

 お星さまになるー、というのには少し、返す言葉に窮してしまったが。


「芽衣ちゃんのお願いごとはなぁに?」

「めいはねぇ、ずっといっしょにいませるよーにっておねがいすぅんだー」

「ずっと一緒に、いられますように?」

「いませますようにー」

 明が微笑ましさに和む中、芽衣は続ける。

「おねえちゃんもねー、そうあっておねがいしたんだって!」


(ああ……そういえば、優芽ちゃんの時には、大事な人たちと一緒に居られますようにって。そういう願いを掛けて作るようにって言ったわね)

 郷愁にも目を細め、明は二つの花を芽衣に返した。



 押し花作成といっても、本格的なものではない。

 事前に各家庭に連絡して用意してもらったのは、どれも比較的簡単に押し花にすることのできる品種だ。

 たまには厄介なものが持ち込まれる場合もあるが、今回はそういったこともなく、児童たちは花をあれこれ、和紙の上にあーでもないこーでもないと並べては崩し、また並べている。

 完成品に影響はない配置問題だが、この工程に一番長く時間をかけて、楽しく行ってもらう。

 あくまで『押し花を作る』というイベントなのであって、ただ綺麗な押し花の完成だけを目指してはいなかった。

「うーん、恵美ちゃんは、もうちょっとだけお花、少なくしよっか。大丈夫だからね、お願いはお花が少なくなっても大丈夫だからね」

 和紙の上に花がぎっしりで置き方も何もない恵美ちゃんには、量を減らしてもらうよりほかない。一人に大きな特別を認めるのはリスクだ。

 順々に机を見て回った明は、頃合いを見て教室の前方に戻ると、子供たちに向けて言う。

「みんなお花の場所は決まったかなー?」


 はーい!

 の中に、まだ、はないが、声を出さなかった子はいた。

「彰くんはもうすこし考えるのかな?」

 目の前の机をじっと見ている子の名前を呼ぶ。

「せんせー! オレ! いちばんでっかいおしばな作るぜ!」

 彰くんの机の上には言う通りに大きな花、が一つだけ。

「彰くんもおはなの場所は決まった?」

「おう!」

 ちなみに一切、花を動かしてはいない。

「そう。それじゃあみんな、お花の上に紙を置きましょう。そーっと、優しくね」

 言いながら、自分も横の床の上に作っていた押し花に和紙を被せる。真似して子供たちが手を動かすのを確認し、次は新聞紙を同じように紙に重ねて被せさせる。

「みんなよく出来ました。明日になったら紙を取り換えっこするからね。それじゃあ今日の押し花作りはおしまいです。お外で遊ぼっか!」

 そう言うと、やはり男の子たちの行動が早い。目の前の押し花を一瞬で忘れて外に向かって駆け出す。女の子たちの幾人かは、楽しそうにお喋りしている。そーっと、新聞紙の下を覗き見しようとしている子もいる。


 だからそれは、不幸な事故だった。


「ごめーん!」

 と聞こえてきたから、明はそちらへ顔を向けた。

 他の先生たちが待つ園庭に走り出していく男の子たち、ズレた机。

 床に落ち、散らばった紙。

 と、花。


「あ、め、めいちゃん」

 隣の子が心配そうに声を震わせるのに、芽衣ちゃんはただ明るく応えていた。

「だいじょうぶ! めい、またつくるから! ぜんぜんね、だいじょうぶなんだよ!」

 芽衣は本当に気にしていなかった。それでも明は芽衣の傍に寄って、腰を屈める。

「そうね。また作ろうね、芽衣ちゃん」

「うん! よいしょ」

 床に落ちてしまった花と紙とを三人で拾って、明がそれを大事に抱えると、芽衣はにこりと笑ったのだった。

「まーたんせんせえ、おかたづけてつだってくれてありがとうございます。お花さんをよろしくおねがいします」

「はい。この子たちは先生がちゃんと仕舞っておくからね。芽衣ちゃんも夏姫ちゃんもちゃんとおかたづけできて偉いね」

「えへぇ。なーちゃん、行こ!」

「う、うん」

 お外に走っていく背中に、気にした様子はないように明には見えたし実際、芽衣は気にしてなどしていなかった。

 また作ればいいから。という、また、の見据える先だけは二人、違ってしまっていたが。



 自分の押し花が駄目になってしまった。

 それは確かに悲しい事ではあった。芽衣も、かわいそうだと思う。床に散らばって、踏みつけられてしまったお花たちを、かわいそうだと。

 でもそれは先生がちゃんと仕舞ってくれるから大丈夫だ。どうするのかではなく、先生がすることだから、それはお花さんたちにとっていいことに違いないはずなのだった。


 でも、押し花はなくなってしまった。

 お花は大丈夫だけど押し花は駄目のまんまだ。

 なーちゃん、夏姫なつきという友達と手を繋いでそう広くない園庭を散歩しながら、芽衣は考える。

 だめのまんまはだめだ。

「め、めいちゃん。お花、なーのやつあげるね?」

「え!?」

 それは嬉しい、と思ってすぐ、ぶんぶんと首を振る。

「だめだよぉ! なーちゃんのはなーちゃんのだもん!」

「でも」

 芽衣は大きく、腕を広げた。

「だいじょうぶなんだよ! めい、またつくるから!」

 だめのまんまはだめだ。だから、またつくればいい。


 だからそう、まずは。

「めい、おはなかってくるね!」

 お花を用意しないといけない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る