第36話 交わせなかったもの、伝えられること

「……やっぱ芽衣ちゃんのお姉ちゃんだな、白木さん」

「当然でしょ。それはもう、地球がなくなったって変わんないんだから」

「そりゃ随分と、壮大なことで」

 百年後に、優芽と芽衣が眠った後にも、千年後に誰が覚えていないとしても、夜も空も消え失せて星が輝かなくなろうが、変わらないものがある。


 この眩い夜空の如く、変えられないものがある。


「俺も……笑ってるのを見るのが好きだった」



まい、っていう名前だった。親戚で、だから苗字は一緒で、幕張まくはりまい。七つ上で……綺麗な人だった。これは惚れた贔屓目じゃなくてな? とにかく綺麗な人だったんだよ」

「うん」

「そんなに近所に住んでたってわけじゃないから、いつも一緒にとか、遊んだり、そういうことはなかったんだけど。でも結構、会って……会いに行ってな」

 話してしまうことだけは決めていた。琴樹はそれだけは決めて今日この場に来ていた。

「舞お姉ちゃん、舞お姉ちゃん、って。「よく来たね琴樹」って笑ってくれて。「久しぶり琴樹」って抱き上げてくれて」

 ただ、なにをどこまでということは、決められなかった。だから要領を得ないことを許して欲しいと、心にだけは請う。

「たくさん……色んなことを、教えてくれた。一緒にやった。夏にキャンプ行くのが恒例で、釣りしたり、釣りしてたら川に落ちたり、はは、そんで何やってんだよって俺が言ったら「うっさいぞ。早く助けてよね」って。手ぇ差し出したら掴んで引っ張りやがんの。おかげで俺も巻き添えで……」

 少しの間に、優芽は相槌を打たなかった。ただ、琴樹は深呼吸して自分で自分を落ち着かせる。

 思い出を話せば長くなりすぎる。話せば思い出になりすぎる。

「まぁ、そんな感じでほんと、俺は暇があれば引っ付いてたんだ。帰る時にも……あぁ……そう……「また」って、「またね」って。そう、俺も、俺もそうだったな、「またね」をせがんでたのは……俺だ。……俺もだ」

 そんなところも自分に似ているのだなと、琴樹はこの場に居ない幼子のあどけない顔を思い浮かべた。

「……うん」

 優芽の声に、芽衣の声も思い出す。「またねー」。

(俺はちゃんと、返せてたか?)

 琴樹が記憶を読み漁るに、そう、昨日の別れ際には自分も口にしたはずだった。だがそれ以前には言っていないような気がした。

 また、を泡沫ほどにしか信じられないことに、今になって気付く。気付いて、しかしそれは、信じていないだけ、なのだと琴樹はそう考えた。

 右手の拳と、それを包むような左手、両方に力を籠める。自分の何かを信奉するための作業だった。何か強さのようなものだ。色も形も大きさも、本当にあるのかも、わからないが。


「病気だった。舞おねえちゃんが亡くなったのは、病気のせいだったよ」


 まだ自分だけのものにしておきたい思い出がたくさんあって。

 もう自分だけのものにしておけない思い出がたった一つ。


「五年前、俺はその時まで知りもしなかった。学校から帰ってきて、そしたら、母さんがいやにマジな顔して待ってたんだ。怒られんのかなって、俺なにかしたっけって、そんなこと思ったんだよなぁ、そういえば」

 朧気どころか半分は消えてしまったような情景だ。琴樹の中にも、あの瞬間のことは事実の列挙としてしか刻まれていない。自宅じゃなかったと言われれば、もしかして信じてしまいそうなほど。

「そのあとは……よくわかんねぇ。気が付いたら墓の前に立ってた。そんで周りの人が段々いなくなってくのを……俺は……」

 言いながら気づくのは、俺が俺はばかりだということ。

(そうか……俺は……舞おねえちゃんの話をしたいんじゃなくって……)


「幕張は」

 言葉を途切れさせた琴樹に優芽が語り掛ける。

「さよならが言えなかったのが、寂しいんだね」


 夜が輝く。


「なんで……どうしてそれ……なんで、そう思うんだよ」


 優芽からすれば、他にないような唯一の答えだ。

 こんな星月煌めく夜に、男の子が涙を流す理由が他に思いつかない。



 優芽はずっと見ていた。「笑ってるのを見るのが好きだった」と言った時から、琴樹がずっと静かに涙を頬に伝わらせながら話すのを。ずっと聞いていた。

 泣いているんじゃない。ただ涙が出てしまうのだと優芽は思う。

 琴樹の話はひどくわかりにくいもので、急で、あまりに短く、優芽が知り理解したことなどほんの僅かでしかない。幕張舞について。幕張琴樹との関係についても。

(でもちょっと……よかった。この前みたいには、笑わない)

 よかったというのは少し違う。でも他に言いようもなくて優芽は内心に安堵する。

 やっぱりちょっぴり胸は痛むけど、あんな笑い方ではなく、ちゃんと涙に出来るのなら、それはやはり少しくらいは、よかったと思えることなのだ。


「なんでかな。なんとなく、そう思った」

「そう、だな……まぁ、よく、かは、わからないけど……ない話じゃないからな。災害なんてあれば、それこそいくらでも起きてしまうことで……」

「琴樹!」

 優芽は慌てて琴樹の腕を掴んだ。咄嗟のことで、琴樹の手首のあたりを強く握る。

「それはダメだよ。それは……違うと思う。私は、私にはまだよくわかんないけど……それは絶対、違うから。それはわかるから」

 夜は浅く、通りは近い。まだ車が少なくなる時間ではない。

 優芽が伝われと念じる間、琴樹が腕に感じる熱を全身に行き渡らせる間、誰も二人に遠慮なんてしない。


 しばらくして琴樹はゆっくりと優芽の手に自分の手を、握られていない方の手を重た。


「ありがとう」

 以外に、言うべき言葉はなかった。言いたい言葉は。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る