第36話 交わせなかったもの、伝えられること
「……やっぱ芽衣ちゃんのお姉ちゃんだな、白木さん」
「当然でしょ。それはもう、地球がなくなったって変わんないんだから」
「そりゃ随分と、壮大なことで」
百年後に、優芽と芽衣が眠った後にも、千年後に誰が覚えていないとしても、夜も空も消え失せて星が輝かなくなろうが、変わらないものがある。
この眩い夜空の如く、変えられないものがある。
「俺も……笑ってるのを見るのが好きだった」
〇
「
「うん」
「そんなに近所に住んでたってわけじゃないから、いつも一緒にとか、遊んだり、そういうことはなかったんだけど。でも結構、会って……会いに行ってな」
話してしまうことだけは決めていた。琴樹はそれだけは決めて今日この場に来ていた。
「舞お姉ちゃん、舞お姉ちゃん、って。「よく来たね琴樹」って笑ってくれて。「久しぶり琴樹」って抱き上げてくれて」
ただ、なにをどこまでということは、決められなかった。だから要領を得ないことを許して欲しいと、心にだけは請う。
「たくさん……色んなことを、教えてくれた。一緒にやった。夏にキャンプ行くのが恒例で、釣りしたり、釣りしてたら川に落ちたり、はは、そんで何やってんだよって俺が言ったら「うっさいぞ。早く助けてよね」って。手ぇ差し出したら掴んで引っ張りやがんの。おかげで俺も巻き添えで……」
少しの間に、優芽は相槌を打たなかった。ただ、琴樹は深呼吸して自分で自分を落ち着かせる。
思い出を話せば長くなりすぎる。話せば思い出になりすぎる。
「まぁ、そんな感じでほんと、俺は暇があれば引っ付いてたんだ。帰る時にも……あぁ……そう……「また」って、「またね」って。そう、俺も、俺もそうだったな、「またね」をせがんでたのは……俺だ。……俺もだ」
そんなところも自分に似ているのだなと、琴樹はこの場に居ない幼子のあどけない顔を思い浮かべた。
「……うん」
優芽の声に、芽衣の声も思い出す。「またねー」。
(俺はちゃんと、返せてたか?)
琴樹が記憶を読み漁るに、そう、昨日の別れ際には自分も口にしたはずだった。だがそれ以前には言っていないような気がした。
また、を泡沫ほどにしか信じられないことに、今になって気付く。気付いて、しかしそれは、信じていないだけ、なのだと琴樹はそう考えた。
右手の拳と、それを包むような左手、両方に力を籠める。自分の何かを信奉するための作業だった。何か強さのようなものだ。色も形も大きさも、本当にあるのかも、わからないが。
「病気だった。舞おねえちゃんが亡くなったのは、病気のせいだったよ」
まだ自分だけのものにしておきたい思い出がたくさんあって。
もう自分だけのものにしておけない思い出がたった一つ。
「五年前、俺はその時まで知りもしなかった。学校から帰ってきて、そしたら、母さんがいやにマジな顔して待ってたんだ。怒られんのかなって、俺なにかしたっけって、そんなこと思ったんだよなぁ、そういえば」
朧気どころか半分は消えてしまったような情景だ。琴樹の中にも、あの瞬間のことは事実の列挙としてしか刻まれていない。自宅じゃなかったと言われれば、もしかして信じてしまいそうなほど。
「そのあとは……よくわかんねぇ。気が付いたら墓の前に立ってた。そんで周りの人が段々いなくなってくのを……俺は……」
言いながら気づくのは、俺が俺はばかりだということ。
(そうか……俺は……舞おねえちゃんの話をしたいんじゃなくって……)
「幕張は」
言葉を途切れさせた琴樹に優芽が語り掛ける。
「さよならが言えなかったのが、寂しいんだね」
夜が輝く。
「なんで……どうしてそれ……なんで、そう思うんだよ」
優芽からすれば、他にないような唯一の答えだ。
こんな星月煌めく夜に、男の子が涙を流す理由が他に思いつかない。
〇
優芽はずっと見ていた。「笑ってるのを見るのが好きだった」と言った時から、琴樹がずっと静かに涙を頬に伝わらせながら話すのを。ずっと聞いていた。
泣いているんじゃない。ただ涙が出てしまうのだと優芽は思う。
琴樹の話はひどくわかりにくいもので、急で、あまりに短く、優芽が知り理解したことなどほんの僅かでしかない。幕張舞について。幕張琴樹との関係についても。
(でもちょっと……よかった。この前みたいには、笑わない)
よかったというのは少し違う。でも他に言いようもなくて優芽は内心に安堵する。
やっぱりちょっぴり胸は痛むけど、あんな笑い方ではなく、ちゃんと涙に出来るのなら、それはやはり少しくらいは、よかったと思えることなのだ。
「なんでかな。なんとなく、そう思った」
「そう、だな……まぁ、よく、かは、わからないけど……ない話じゃないからな。災害なんてあれば、それこそいくらでも起きてしまうことで……」
「琴樹!」
優芽は慌てて琴樹の腕を掴んだ。咄嗟のことで、琴樹の手首のあたりを強く握る。
「それはダメだよ。それは……違うと思う。私は、私にはまだよくわかんないけど……それは絶対、違うから。それはわかるから」
夜は浅く、通りは近い。まだ車が少なくなる時間ではない。
優芽が伝われと念じる間、琴樹が腕に感じる熱を全身に行き渡らせる間、誰も二人に遠慮なんてしない。
しばらくして琴樹はゆっくりと優芽の手に自分の手を、握られていない方の手を重た。
「ありがとう」
以外に、言うべき言葉はなかった。言いたい言葉は。
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