ピアニッシモ・プレシア

澄田ゆきこ

2019 マールボロと家出少女

 初めて煙草を吸ったのは、十九歳の春だった。


 桜の咲き始めた森を自転車で抜けると、旧学生寮の廃墟があった。煤けた色の鉄筋コンクリートは、塗装がところどころはがれかけていた。自転車をぞんざいに停め、壁の漆喰をむしりながら、私は外階段を上った。

 踊り場で足を止める。崩れそうな柵に肘をかけ、上着のポケットの中から赤マルを取り出して、口に咥えた。ライターをかちりと押して、火を点ける。じわ、と紙の焼ける音とともに、苦みが口中にまとわりついた。意外にもむせることはなかったが、おいしい、とも思わなかった。ただ、苦いだけ。

 ――こんなもんか。

 人生で初めてのに手を出しているくせに、不思議と感慨は薄かった。

 髪をまとめているせいで頭皮が痛くて、ポニーテールをほどく。ヤニくささのまざった春の風が、父親譲りのくせっ毛を巻き上げていく。

 まだだった私は、深く吸うことも知らなくて、ただ煙を口内に充満させていた。耳に刺したイヤホンからは椎名林檎が流れていた。薄く色づいた桜の枝が目の前にあった。

 ――ったく、きれーに咲いちゃってさあ。

 バイトを梯子した夜勤明け、ろくに回らない頭で、毒づいた。むしゃくしゃしていて、何もかもに腹が立って、死にたくて、でも死ねなくて、私は灰色の息をしていた。


 クソみたいな実家から逃げて、半年近くが経っていた。

 クソ実家のクソたる所以はDV・モラハラ・アル中という数え役満クズ親父にあった。中学生だったある日、母親の荷物と存在がぽっかりと我が家から消えた。父親は酒を飲んでは「あいつは母親失格だ」と私と妹に言い聞かせた。「お前らは俺を裏切らないよな」とも。五リットルのバカみたいにでかい焼酎が父親の身体のなかにどんどん消えていった。

 クソ実家で培養されていた私もまた、父親への敵意と軽蔑をむき出しにして過ごすクソガキだった。物心ついた時から父親が嫌いだった。そんな私の態度が面白くなかったのだろう。父親からは、たびたび平手を食らったり、馬乗りになって殴られたりした。私が殴られるのを見て育った妹は、父親の機嫌をうまくとれる「いい子」に育った。私は「いい子」になることもできず、かといって思い切りグレることもできず、中途半端なクズに育った。

 バイトで遅くなった日の夜。些細な口論から「出ていけ」と言われた。待ってましたと言わんばかりに私は荷物をまとめた。「おまえみたいなクズが社会に出てやっていけるわけがない」「どこででも野垂れ死ね」という言葉を浴びながら、私は勢いに任せて家を出た。

 数日は友達の家に転がり込んで、その後学生寮の開いた部屋に滑り込んだ。洗面台を入れて六畳の狭い部屋だったが、私にとってはお城も同然だった。

 今後の算段は少しだって立ってはいなかった。奨学金も授業料免除も通るかわからない。そんな折、春休みになったのを機に、私はバイトを増やすことにした。

 お金はいくらあっても困らないから、なるべく時給のいい仕事がいい、と思った。深夜バイトは圧倒的に賃金がよかった。求人を眺めてみる。毒々しく輝く選択肢は「フロアガール」だ。キャバクラ、スナック、ガールズバー。ぱっとしない地方大学の近くにも、そういう店はある。

 言葉にできない忌避感と、お金が必要だという切迫感の間で、私は悩む。別に水商売を見下していたとかではない。と思う。むしろ、「ブスでコミュ障の私にできる仕事ではない」と畏れ多く思っていた。でも背に腹は代えられない。思い切ってガールズバーに申し込もうとし、ふと思い立ってその店の公式ツイッターを見てみた。私と同じ名前の源氏名の子がいて、なんとなく嫌になってやめた。私には根性がなかった。

 それで最終的に選んだのが、深夜帯のカラオケ従業員だった。

 最初はどうなることかと思っていたが、深夜はなにぶん客が少ない。たまに客室の掃除をするくらいで、大半の時間はバックヤードで暇をつぶしているだけという楽な仕事だった。時間帯が零時から五時のことを除けば。

 寮から出たときには真っ暗だったのに、締め作業を終えて、従業員用の扉から外に出ると、外はもう明るくなっていた。その明るさに目を細めながら、虚しい、と思った。その時の気持ちは、父親に説教をされていたら朝になっていたときと、なんとなく似ていた。

 バイトを梯子しては眠気をこらえることを続けていたある日。締め作業をしながら客室をまわっていると、テーブルの上に放置されている煙草を見つけた。赤いマールボロ。

 その赤はルビーのように煌びやかに見えた。

 手を伸ばして、中を開ける。ご丁寧にライターまで入っていた。ひとまず煙草はテーブルに置いて、私は締め作業に取り掛かった。

 吸い殻の山盛りになった灰皿をかたづける。テーブルを拭く。デンモクを充電器にさす。マイクを消毒する。モニターの電源を切る。消臭スプレーを噴霧する。

 誰もいないのを確認して、私はポケットに煙草を忍ばせる。


 帰路。眠くてぼんやりする頭で、自転車をこぐ。

 桜並木は知らない間に花を散らし始めている。金色の毛並みの犬をつれたおばさんとすれ違う。


 世界は明るくて、美しくて、だけどそれが何よりも他人事だった。


 この鬱屈を吐き出したくて、私は、人生で初めての非行に手を出した。十九歳。今でも煙草は買えない年齢だし、当時は成人ですらない。

 初めての苦い味は、しばらくまとわりついて離れなかった。歯磨きをしても長いこと舌に残る味。


 帰って、倒れるように眠りにつく。目が覚めると、窓から差し込む陽が西日になっている。

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