天才丸の飛翔

秋山如雪

一. 北の大地

 戦国時代。それは、日本各地に群雄が割拠し、覇を競い、互いに領地を奪い合い、血で血を争う戦いが日本中で起こった。


 と、されているが、それとはまったく無縁でありながらも、権謀術数によって、この戦乱を生き抜いた者がいた。


 これは、そんな「北の大地」に産まれた、知られざる一人の「天才」の物語である。


 永禄四年(1561年)、春、4月。蝦夷地(現在の北海道)、大館(徳山館)。

 ここに、蠣崎かきざき氏という国人こくじん領主がいた。国人領主、または国衆くにしゅうとも言うが、要は独自の裁量権を持つ在地領主に過ぎず、戦国大名とすら言えない規模の小領主であった。


 この蠣崎氏自体が、元は若狭わかさ国(現在の福井県の一部)の武田氏の出身だとも、奥州の商人が蝦夷地に渡った者の末裔とも言われているが、いずれにしろ、蠣崎氏は当時、広大な蝦夷地のうち、渡島おしま半島の南側を治めていたに過ぎず、蝦夷地の残りの大半の地は、未開拓の「アイヌ」の土地だった。

 おまけに、彼らは独立領主というよりも出羽でわ国(現在の山形県、秋田県)を治める安東氏の被官ひかん、つまり家来に過ぎない立場だった。


 利発そうな少年が縁側に座って、書物を読んでいた。

 この大館は、北の大地にあるとはいえ、室町時代から戦国時代に多く造られた書院造しょいんづくりを踏襲していた。

 最も、この蝦夷地に「敵」が攻めてくること自体が、まず想定されないため、実に質素で、防御性能も飾り程度しかない粗末な屋敷に過ぎなかった。


 蝦夷地の春は遅い。

 本州以南なら桜が咲く4月になっても、依然として雪が残るほどの土地だが、渡島半島の南端に位置する大館(現在の松前町付近)は、比較的温暖で、積雪も少ない土地であるが故に、古くは鎌倉時代から和人が移住したとも言われている。


 少年は、この4月の寒さにも関わらず、縁側で熱心に書物を読んでいた。

 目つきが鋭く、他者を洞察する観察力に優れたような、深い色の瞳を持つこの少年が、やがて「蠣崎氏」の運命すら変えることになる。


天才丸てんさいまる

 その名を呼ばれて、少年が目を上げると。


 そこに、眉目秀麗な若い女性が立っていた。女性にしては長身で美しい黒髪を持つ、しかしどこか「陰」を感じさせる、危うい瞳の色を称えたこの女性。

 彼の姉で、一回り近くも年が離れている。この時、14歳の天才丸に対して、彼女は25歳。名を「ふみ」と言った。


「姉上。南条様の元から帰っていたのですか?」

 少年が声をかけると、文は嬉しそうにしゃがんで、少年に目線を合わせてきた。


 彼女は、他人に心を開かないところがあり、父の蠣崎季広すえひろは、彼女が幼少の頃から苦労をしたという。


 今は、蠣崎氏家臣の南条広継ひろつぐに嫁したため、南条の屋敷にいるのだが、この時、帰省がてら大館に帰ってきていた。

 そして、心を開かない彼女の「お気に入り」がこの少年、天才丸だった。


「相変わらず、あなたは本の虫ですね」

 しゃがんで目線を合わせたと思ったら、今度は隣に座って、横から本の中身を覗いてくる。


 天才丸は、この姉が少し苦手だった。遠慮がないと思っている。

 ところが、「彼女」こそが、後の天才丸の運命を決定づけることになる。


「本は、様々なことを教えてくれます。ご存じですか、姉上。今、都では三好氏が権力を握り、公方くぼう様と共闘しているとか」

 都からはるかに遠い蝦夷地。

 しかしながら、蝦夷地は古くから「交易」によって栄えてきた。


 当時は、蝦夷地で米が取れなかったため、彼らは戦国時代から江戸時代にかけて、国力の指標ともなった米を基準とした値、「石高こくだか」が産出できない。

 その分、交易によって、大いに栄えた為、蝦夷地には畿内の敦賀を主にした交易船が来ており、そこから京都の情報を入手できたと言われている。

 公方様、つまり室町幕府の13代将軍、足利義輝がこの頃、三好氏と共闘し、細川氏と争っていた情報すらも入って来ていた。


 少年、天才丸はその交易船の商人から譲ってもらった本を読んでいた。


「存じません。それよりあなたはやっぱり優秀ね。三男なんてもったいない。あなたの二人の兄上はいずれも取るに足らないわ」

「兄上たちのことを悪く言ってはいけません」

 咄嗟に反論していた天才丸。

 その二人の兄とは。


 蠣崎季広の長男、蠣崎舜広としひろ。彼は父からは将来の後継者候補として期待されていたが、この姉の目から見ると、「取るに足らない存在」らしい。

 同じく次男の元広もとひろ。蠣崎氏家臣、明石季衡すえひらの養子となり、明石元広と名乗っていたが、同じく姉の目から見ると、「取るに足らない存在」らしい。


「あなた、いくつになったのかしら?」

「14歳です」


「では、間もなく元服ですね」

「そうですね」


 姉弟の穏やかな一時が流れるかに見えたが、この時、この女は、恐ろしいことを内心では考えていた。

 そして、その「狂気」の一端を、弟に見せることになる。幼い弟を慈しむように、慈母のような優しい瞳の奥に、怪しいまでの「残酷な」悪魔の光を宿していた。


「ねえ、天才丸」

「はい」


「もし、兄上たちが亡くなったら、あなたは蠣崎家の当主になれるんじゃないかしら?」

「そうでしょうが、姉上。何をお考えになられているのでしょうか?」

 姉がまとう不穏な空気に気づいた、少年は鋭く問いただすも、その姉は、今度は慈母のように柔らかい両腕で、天才丸を抱きしめて、


「何でもないです、天才丸。あなたは何も安堵することなく、勉学に励んで下さい」

「はい」

 内心、嬉しいという気持ちよりも先に「不安」な気持ちの方がはるかに大きいと感じてしまう天才丸。


 この苦手な姉が、一体何を考えているのか、さっぱりわからないのだった。


 この年、天才丸は元服した。名を「蠣崎慶広よしひろ」と改める。

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