第9話
結局のところ剣と乗り物の捜索は進展は地味なもので、あるかないかよくわからない状態に陥っている。協力者からのメモによると、帝都の医療機関とハンセン・ベック社他義手の製作者などの協力もあって義手の使用者の特定は進んでいるそうだ。乗り物の条件に合う人物など大した数はいないのだが、慎重な対応が必要な人物が含まれているためその捜索は思うようにはかどっていない。
フレアも偶然とはいえ面白い男を探し出して来た。今回の件ではおそらく無関係だろうがローズとしては一度会ってみたい男だ。結果は空振りに終わりフレアは少し落ち込んでいる様子だったが、ローズとしては新しい知見をいろいろと得ることができた。
おかげで今夜も帝都をあげての鬼ごっこに参加する気が出てきた。上空から街の様子を見ても合同捜査班の配置に変わりはなく、彼らも剣が乗り物と共に海へと流され、一連の事件が終結したとは考えてはいないのがよくわかる。
目下、皆の関心は次にどのような乗り物が現れるかである。昨夜から今日にかけて医者の元に訪れた義手の男も、往診に出向いた医者もいない。予備の義手を発注した者もいないという話だ。剣が乗り物を変えた可能性も十分にあり予断を許さない状態となっている。
現れる乗り物は片腕の男か。それともまったくの別人か。
今夜も上空から眺めるローズは別の乗り物が現れる、もしくは今日は現れないに賭けている。本気でないにしてもフレアの拳を、まともな防具なしで受け止められる者はまずいない。帝都の者たちがフレアと打ちあえるのはコバヤシや魔法による加護によるものである。その加護を示すぼんやりとした白を纏ったが今夜も新市街で多数見受けられる。
もちろん、力の遮蔽は可能である。ローズはそれを日常的に使用しており、今も姿を隠している者が市中に散在しているはずだ。しかし、運河から発見されたローブや籠手からはそのような力が付与された痕跡は見られなかったようだ。思考はめぐり、乗り物はいったい何者なのかという問いに戻ってくる。
ローズはしばし考え事をやめ、眼下の光に目をやった。大半は白や黄色である。動かない小さな黄色は通話機、動く光は携帯式のもの。呪われたものは明度の違いはあっても皆赤か白味を帯びている。特化や白服の一部、そして真下で待機しているフレアがそれに当たる。ふと自分の姿がどのように見えるのかと、オジーの目で本体のある塔に視線を向けたが、そこはただの闇だった。無理もない塔はローズが組み上げた魔法障壁の向こう側にある。
しばらく監視に励んでいたローズだったが、また物思いに意識が流れ始めた頃、目の前の光点があわただしく動き始めた。様々な赤が出現し、小さな黄色を内包した白と共に一定方向へと流れ出す。その方向には深紅の光が現れていた。その輝きに向かって他の輝きが群がっていく。
今夜は昨夜よりさらに南に出現し西へと移動している。
「八番通りの辺りを西に向かってる。たぶん商店が途切れて民家になる辺り、急いで……」
ローズの真下の淡い朱色の光が素早く移動を始める。
急いでとはいったものの、既に深紅に近い位置の別の赤がもう接近している。フレアの力をもってしても間に合わないだろう。剣を帝都が取り押さえることについてはローズも不満はない。気になるのはその後、剣の処置である。また、地下宝物庫に戻されては悲劇を完全に終わらせることはできない。
ローズはフレアに指示を送る傍ら、自らも高度を下げ深紅へと接近していった。赤い二つの光点は次第に近づき、やがて一つとなった。一度重なった光点は次の瞬間はじけるように再び二つに分かれ、そしてダンスを踊るかのように重なりはじけ回転を始めた。
光点が人と確認できる距離まで近づいてみても、やはり両者はダンスといっても差し支えない優美な戦いを展開していた。両手に東方伝来の片刃刀を持つの特化隊士と両刃剣を持つフード付きローブの人影。今夜現れた乗り物の体格はフレアと変わらぬほど小柄で両手ともあるためは昨夜と別人と思っていいだろう。その周りを取り巻く警備隊隊員、そして走り込んでくる白い鎖帷子の集団。騒ぎを聞きつけ飛び出してくる近所の住民たち。
乗り物は特化に押され気味だが、腕は立つようだ。帝都とは不思議な街だ。このような手練れがどこからともなく現れる。まったくどうなっているのか。実に興味深い。
突然、ローズは正確にはオジーが、右上方から激しい衝撃を受け、バランスを崩し落下していった。視界の隅に同じように宙でもがき落下する白フクロウの姿が見て取れた。白服が使用している使い魔だ。白服と共に急行したところ誤ってオジーに激突したのだろう。フクロウはオジーとぶつかった勢いで剣劇の真っただ中に落ちて行った。オジーはそばの民家の屋根に激突する寸前で身体のコントロールを取り戻した。
「屋根だ、屋根に飛んだぞ。逃がすな!」地上で誰かが叫んでいる。
ローズはオジーが体勢を取り戻してすぐにその感覚器に入ったが、既に乗り物の反応は消えていた。フクロウも同様らしくオジーには目もくれず、再び上空で旋回を始めた。合同捜査班も素早く散開し目視での不審者捜索に切り替えたようだ。また、取り逃がしたのだ。
「フレア、戻りましょう。もう見たい物は見た。先に帰るわ」
「えっ、はい……わかりました」
フレアが塔の最上階まで戻った時、ローズは外出の用意を始めていた。既に着替えを済ませ後は外套を羽織るのみとなっていた。
「またお出かけですか?」
「ええ、今夜はこれからよ。少し確認しておきたいことがあってね」外套がふわりと衣装掛けから浮きあがりローズの元までやってくる。ローズは見えない手で支えられた外套に袖を通す。
「捜索をあきらめたわけじゃないんですね」フレアが笑みを浮かべる。
「もちろんよ。あなたも興味はあるでしょう。ついてらっしゃい」
ローズの声と共に扉が開く。開いたのはベランダ側ではなく螺旋階段からの出入り口側それを意外そうに見るフレアにローズは楽しそうに語りかける。
「今夜は飛び降りなし、現地まで走っていく。空ではまだフクロウが徘徊しているはず、力を使って目立ちたくはないわ」
「意味あるんですか?」
「帝都の連中は、奴らまだこそこそやるきかと思うでしょうね」
「そりゃぁ、そうでしょうけど、どこへ行くつもりですか?」
「あなたが教えてくれた場所」
元々人を狩って暮らしていた二人である。その気配を消すことは造作もないこと。目的地まで誰にも会うことなく移動できた。上空から街を監視していたフクロウは高速で移動する朱色の光点を捕らえ、すぐ上官に報告を入れたが、ややあって帰って来た言葉はかまうな、ほっておけだった。
「ここは……」
「二階から入らせてもらいましょう」二階の窓が外に向かって静かに開いた。
ローズの身体が風に吹かれた木の葉のように舞い上がる。二階まで浮かび上がった彼女は窓の桟に足を掛けると身体を折り、外套をたくしあげ室内へと侵入した。フレアは壁の羽目板の隙間に爪を食い込ませ、すばやく壁を這い登って行った。
室内に降り立ったフレアの背後で窓がゆっくりと閉じた。差し込む月明かりのみで照明はない、だが夜目が利く二人には障害とはならない。この部屋は小動物の人形を製作するための作業部屋と見えて、机や棚には製作中の鳥や兎、そしてそれらの身体の一部が並べられている。暗がりではそれらは少し不気味に見える。
「いいわね、確かにこういう物をみると自分でもやってみたい思う気持ちはわかるわ」
闇に住むローズは気にならないようだ。
「ローズ様、ここは無関係だと思うんですが……」
「あら、あなたの今までの報告とその他もろもろの情報、そして今夜目にした騒ぎを考慮すると自然にここが導き出されてきたのよ。少し短絡的だとしても……」
「えっ!」
「最初にわたしはあなたに剣より乗り物を、そしてその繋がりを追えと言ったわね」目の前の扉が開きローズが歩き出す。
「はい」
「今まで乗り物についてわかっていたことは大柄でその体格からおそらく男、剣の扱いについては実戦に耐えうる腕前ということ。右手は動義手を装着している。動義手は高価なことから裕福な者と考えられる。そして、手加減していたとはいえ、あなたに殴られ確実に負傷している」
二階は作業室から見て右側に一階への下り階段があり、廊下を隔てて向かい側に扉が二つ並んでいる。手前の扉が開き、差し込む微弱な光により複数の棚が浮かび上がる。その部屋は素材の倉庫と見えて紙包みや壺などの容器が所狭しと並べられている。そこに人の気配はない。
「絞り込む要素がそれだけあればすぐに素性が割れてきそうだけど、実際はまるで逆、更にフリーデンとの関係も絡んで来て、今夜はまるで雰囲気の違う乗り物が登場した。ますます混乱が広がるのみ……」
ローズが室内を一瞥した後、扉は音もなく閉ざされた。
「裕福で腕が立つ義手の男程度なら帝都で探せば見つけられる。現にあなたも偶然ではあっても一人見つけて来た。でも、それ以上の条件が追加されるとおかしくなってもうお手上げ……無碍に無視もできなくて困ったものよ」
「探し方が間違ってた?」
「おそらくね。だいたい何の加護もなく、あなたに殴られて立ってられること自体がおかしいのよ。ハンセン様も言ってんいたでしょ。身体を人形にでもしない限り無理だと」
「それでここですか。少し極端じゃないですか?」
「そうね、そうかもしれない。でも、気になってね。ここは黒ローブの乗り物が消えた場所からそう遠くはない。フリーデンの店は橋を渡って少し歩くだけの立地。そしてここで作られるような物はフリーデンが扱っているような錬金術素材がたっぷりと使われている」
二人は室内を一回りした後外へと出た。なにも不審なものは見つからない。
「そうはいっても、ここの店主は華奢な人だって聞いてますよ」
「作り出す人形まで華奢とはかぎらないでしょ。もし何も関係なければ明日からは他をあたりなさい」
「結局そうなるんですね」
奥の部屋の扉が静かに開く。そこは簡素な寝室となっていた。内装はローズの近くの宿とさほど変わらない。飾り気のないベッドの上に長身細躯の青年が作業着のままで仰向けで横たわっていた。
「彼がラルフなんでしょうか」ローズが身を屈め青年の顔を覗きこむ。「誰かに眠らされているようね。今はこのままにしておきましょう」
「いいんですか?」
「あとでいいわ。下手に起こして足手まといになると困るでしょ。さぁ、他を見に行きましょう」
さらに奥は居間、台所、洗面所などのありきたりな生活空間でローズの関心を引く物はなかった。
二階を一通り見終えて、階段を下りた先はサンクチュアリ人形製作所のショールームへと直接つながっていた。
「大柄な男もあなたのような小柄な女、両方ともいる。この中から乗り物を選べば姿をごまかすことができる」
部屋の中央に着飾った男女の人形が三体並べられ、その傍に置かれたテーブルの上には人の腕や脚が飾られている。転がる人の身体イコール食べ物と思考がつながるフレアは別として、一般人はこの照明が落ちた店内の光景に不気味さを感じるに違いない。窓辺のケージに入れられた小動物達は眠りについているらしくピクリとも動かない。動きまわっているのは長身のローズのみ。
「御覧なさい。彼、フリーデンの表の商売の上得意だったようね。領収書、納品書がいくらでも出てくるわ」
ローズは一階に下りてきてすぐに室内の整理棚や机の物色を始めた。ローズの命令に従い引き出しが前にせり出す。
「ローズ様、ここはいつも相手にしているようなインチキ業者の巣じゃないんですよ」
「わかってる」
確かにその言葉は行動に表れている。いつものように無造作に床にばらまかれた書類はなく、力任せに破壊された鍵も散らばる木片も見当たらない。ローズは書類に目を通した後、それを元の引き出しに綺麗に収めていく。乱雑に詰め込まれた書類が整えられ引き出しは本来の円滑な動きを取り戻していく。
一通り書類に目を通し気が済んだローズは部屋の奥にある扉に眼をやった。まだあの内部は確認をしていない。ローズは扉へと静かに歩み寄る。その間にもドアノブが音を立てて二回ほど回ったが扉が開くことはなかった。どうやらこの扉だけは鍵が掛けてあるらしい。ローズは普段なら鍵もろとも扉を引きはがすところだが、今回は内側のつまみを回し解錠した。
部屋の中には多数の人型人形の部品が棚や作業机、ある物は天井からつるされていた。人型人形の工房らしい。多くはハンセン・ベック魔導工作所で目にした物と同様で、皮膚はまだ張られておらず等身大の球体関節人形に見える。ここがもっとも高価な製品を扱う場所となれば施錠されていても何ら不思議はない。
「何か変な匂いがしますね」フレアが言った。
「何の匂い?」
「運河の匂い、でしょうか」
「まぁ、ここは運河のすぐ傍……、どこ?この中から?」
「すぐ近くです。この部屋です。外じゃありません」
辺りを見回すがあるのは真新しい完成品や組み立て前の部品のみ、汚水の匂いがする素材が使われているとも思われない。何者かが姿を隠しているわけではない。ローズの眼をごまかすことは不可能に近い。両名ともすぐに室内の左手の壁に一枚の扉が目についた。二人とも手慣れたもので素早く扉の傍に接近し、ローズが扉を開け放ち、フレアが内部へと飛び込んだ。
フレアが目にした乱雑に置かれた道具箱や掃除用具の中で立ちつくす大柄で裸の男の姿。しかし、男の股間は普通の女のそれよりつるつるで何もなく明らか人ではなく人形であることが見て取れる。人形の右腕は肩から欠損しており、肩口の表皮は裂け断裂した神経束の一部が覗いている。そして、淡く漂う汚水の悪臭。
「もしかして、これが昨日までの乗り物ですか。本当に人形だったなんて……」
「そのようね。剣はフリーデンの記憶から現在の動人形の存在を知ったんでしょう。痛みを感じず、感情もない。品質は均一で変な抵抗もなく簡単に操れる丈夫な身体。一部だけでも操作は可能。乗り物としては申し分ないわ。おそらく、フリーデンはここで殺され、その身体は少し留め置かれ雨の夜運河に投げ捨てられた。流れに任せて海までと思ったんでしょうが、どこかで引っ掛かって見つかってしまった」
「それはわかりますが、彼はどうして生きてられたんですか?」
「使い勝手のいい身体は見つかったからけど、外の状況を知るための道具としては彼の方が都合がよかったんでしょう。外では人形より人で動く方は都合がいい。いずれここも引き払わないといけなくなる。次の乗り物を探すためにもね」
「それじゃラルフがニコライ様のお宅に顔を出したのも……」
運河側で物音がし二人は会話を止めた。入り口の扉に速やかに近づき壁の向こうの様子を窺う。扉を開く音と共に何者かが侵入してきた。足音は一人分で特に警戒している様子はない。他に続いて踏み込んでくる者の気配もない。住人のラルフは二階で眠っているため部外者であることは間違いない。
工房の外へと出てみると、ショールームの闇の中ではお仕着せ姿の少女が佇んでいた。右手に黒いローブを掛け、左手に細長い布袋に包まれた何かを携えている。
「ニア!どうしてここに……」その姿は昼間にフレアがニコライの屋敷で見かけたメイド人形だった。しかし人形である彼女がどうしてここまでで歩いているのか。
「こんばんは、ランドール様」やはり彼女もフレアのことを覚えているようだ。薄く笑みを浮かべ挨拶をした。
「彼女あなたを知っているようだけど、一体何者?」
「彼女はお昼に訪問したニコライ様のお宅のメイド人形のです。製作者のお家だといってもどうしてここに……、人形が勝手に出歩くなんて」
「それこそラルフがニコライ様のお宅を訪問した理由よ。その時に命令を入れ込んでいったんでしょうね。こちらに呼びつけるために、そうでしょう?」
ローズはニアに問いかけたが、彼女は微笑むばかりで他の反応はない。ローズはかまわず先を続ける。「あなたは百年ぶりに外に出たのはいいけれど、図らずも帝都に囚われることになってしまった。あれやこれやとあがいているうちに、幸運にも最高の身体を見つけた。しかし、そろそろ帝都の連中の姿が背後に見えてきた。あなたの目下の課題は帝都からの脱出、そこで目を付けたのがラルフの友人でパトロンでもあるニコライ。そして彼に貸している人形のニア。でしょ?身体をニアに変えて、ニコライと執事のイェスパーを操り共に帝都を脱出する。荷物の持ち出しは貴族の威光があれば、大した苦労はないでしょうからね。ラルフを使い逃走の準備を始めた矢先に、フレアに大事な身体を壊されてやむなくニアを乗り物として登用することになった。そんなところね?」
ニアはすこし首を傾げたように見えたが、それ以上の反応はない。
「もっとも、乗り物が壊れたおかげで追うべきは義手の男なんて推論が出て、混乱に拍車がかかるなんて皮肉な結果になったけど……」ローズは相変わらず荷物を抱え立ったままでいるメイド人形にほほ笑みかける。「ところで話は変わるけど、あなたの中にニコラスはニコラス・エバリンはまだいるの?」
今度はニアが左手で持つ布袋が大きく震えた。
「こんなわたしが言うのもなんですけど、あなたはもう捕らえている人達を解放して元いた世界に戻ったらどうです?逃げ回るばかりで楽しい思いをしたことはないでしょう」
ニアはローズの言葉にローブを床に放り投げ、細長い布袋を足元に投げ捨てるという行動で答えた。
現れたのは赤い燐光を帯びた古びた両刃の剣。
「なるほど、それは遮魔布で作られた袋ね。あなた程度の力ならそれで身を隠すことも可能ということね。犯行の度に袋をはずしたり、はめたりというのはどこか間抜けな気もするけど……」
「ローズ様」フレアが半ばあきれたような口調で呟く。
「フレア、あなたは手出し無用ですよ。じっとしてなさい」
意を決したように、リアは剣を手にローズに突進してきた。ローズはそれを避けることもなく、剣に対し手をかざした。そして、ローズがかざした右手、その手のひらを剣の切っ先が貫いた。剣は手の甲からほんの少し顔を出したところで止まった。ローズの血が剣身を伝わり染みこんでいく。瞬間的に燐光が何倍にも膨れ上がり燃え上がる炎のように巨大化した。フレアが小さな叫び声をあげるが、それも一瞬のこと炎はまもなく霧散しただの古びた剣へと戻った。
メイド人形のニアは手を震わせながらも剣をローズの手から引き抜き、三歩ほど後ずさりした。震えながらも動くことができたのはそこまで、リアは力を失い、剣を床に落とし軽く身震いをした後にその場にくず折れた。
「壊しちゃったんですか?」フレアは床に臥せるニアを覗きこみ心配そうに呟いた。
「さぁね。知らないわ。それよりすこしはわたしの手のことを心配したらどうなの?」
「もう治ってますよね」
手のひらの傷はすでに癒え薄いみみず腫れしか残っていない。
「何があったんですか?」
結局の所フレアが見たのはニアがローズの手に剣を突き刺し、それを引き向き倒れた光景だけである。
「血を欲する精霊でもわたしの血は刺激が強すぎたようね。薬も過ぎれば毒。千々に乱れて蒸発したわ。元いた世界に戻ることなく」
「うひぃ!」
「うひぃ、じゃないでしょ。まったく、あなたは誰の味方なの!」
このやり取りも小さな物音によって中断された。音の発生源はニアの傍に転がっている力を失った元鮮血の剣。小さな破裂音の度に剣身に細かなひびが入っていく。やがてひびは剣身全体へと広がり、剣は柄を残して細かな欠片へと姿を変えた。それと同時に室内は冷たい霧に満たされた。霧はその直後に起きた建物を激しく揺らす震動と共に何もなかったかのように消え去った。フレアは不意の振動に警戒し何者かの攻撃に備え辺りを見回す。
「ローズ様、精霊は消えたって言ったじゃないですか!」
ローズは悠然と立っているが、フレアはまだ警戒を緩めない。
「ええ、消えたわ。だから剣に囚われていた人たちが解放されたの。殺しも殺したり三百年分のね。帰りましょう。今ので帝都の連中がここへ押し寄せてくるわ」
帝都が正式に串刺し魔事件の終結を宣言したのはそれから二日後のことだった。
「合同捜査班は通報を受けた人形工房へ突入、串刺し魔を確保、昏倒していた店主で人形師のラルフ・シェーパース氏を保護した。まったくいつもいつもよくこんないい加減な記事が書けますね」
帝都に夜の帳が落ち、塔内は活動開始の時間が訪れていた。既にローズの着替えは終わり今は食事の真っ最中である。ローズは優雅に樹脂製ストローを刺した血液パックから血を吸い出し、フレアは傍に置いた新聞を読みつつ、牛の大きな大腿骨に張り付いた生肉をはぎ取っている。
「少なくとも間違ってはいないは、どれだけ飲んでも全く酔わないエールのように情報はうすいけどね。精霊の消滅、それに伴う意識の解放、それらを警戒に当たっていた捜査班が感知し工房に急行、店内でぼろぼろになった剣を回収、店内を捜索するうちにラルフを発見保護、それらの言いたくない部分を削って誰にでもわかるようにすると、あら不思議いつもの記事に早変わりというだけのこと」
「これにより串刺し魔ニコラス・エバリンによる一連の犯行に終止符を打つことができた。精霊に言及せずに彼一人に罪を負わせるのは何か違うよう気がしますね」
フレアは大腿骨をへし折り、楊枝で骨髄を掻き出している。
「その精霊は蒸発して素性もわからない。残ったのはくず鉄となった欠片だけ、でも帝都としては誰か名前のある犯人が欲しい。そこで出て来たのがニコラスなんでしょうね。元はといえば彼が起こした行為が始まりだから、やむを得ないところはあるわ。呪いだの何だのは、それを十分に利用している帝都の立場として、あまり前面に出したくない。そのために彼をイカれた連続殺人犯として事件を終わらせたのよ。この前の泥人形が暴れた件も魔導書にはさらっと触れただけ、記事の内容は居合わせた特化隊士を称賛することに内容が割かれていた。まぁ、そのおかげでわたし達もここで呑気にしていられる面もあるわけだけど」
「そういうことですか。それはわかりますが、何か複雑ですね。そうだ。あのラルフは被害者の扱いになってるようで、少し安心ですね。彼の人形が犯行に使われてどうなるかと思ってましたが……」
「そうね。でも、帝都の連中が本当に物分かりがいいとは限らないわよ。彼はあなたや特化と殴り合えるほどの識を構築する能力を持っている。これから彼が変な騒ぎにことに巻き込まれないことを願っているわ」
「あぁ……」
「力を得て、その得た力がそれを持つ者をよりよい方向に導くとは限らないわ。あなたならわかるでしょ」
「はい」
「部屋を片付けをお願いするわ。わたしは少し外に出てくる」
バルコニーへと通じる扉が開き、ローズは外へと歩み出る。ローズが空を見上げるといつものように美しい空があった。ここ数日眺めていた地上の輝きを遥かに凌駕する自然が作り出した奇跡の産物である。ローズは錬鉄のテーブルと共に置かれた椅子に腰を掛け星空を見上げた。このようなことがゆっくりとできるのは、この帝都という酷く癖の強い街ならではのことだろう。なにしろローズやフレアのような存在をも取り込み、今やその糧としているのだ。
ローズはそういう存在が今回また一人増えたのでないかと感じた。
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