吸血鬼の地味な日常 アクシール・ローズの冒険

護道 綾女

這い回る薄緑

這い回る薄緑 第1話

 近頃、帝都で流行る物。司教秘伝の豚皮チップス、クアンベルの芝居にマーコットの香水。

 しかし豚肉食の普及に勤めた彼の司教であっても、帝都旧市街においてそれも帝国歌劇場の場内で、たっぷりの塩とスパイスをまぶした豚皮のから揚げが売り出されることになると想像はついただろうか。彼はこの光景に歓喜したか。それとも困惑しただろうか。

 少なくともこの二百年、歌劇場に通い続けている吸血鬼アクシール・ローズは困惑を隠せないでいた。メイドのフレアも場内のラウンジと通る抜ける折、その愛らしい顔を一瞬ゆがめた。もっともそれは、敏感な狼人の嗅覚を持つ彼女がその場に立ち込める油とスパイス、そしてバラに似た香水の芳香を嫌悪しただけかもしれない。最近コンド・マーコットなる錬金術師が作り出した香水「野生の咆哮」が旧市街の女性の間で流行し、ここでもその香りが猛威をふるっている。その香りは薔薇もどきの陳腐なものなのだが、旧市街の裕福な女性達は皆こぞってそれを買い求めている。

 狼人の呪いを受け三百年、フレアの好きな匂いはその容姿からは想像しがたいことだが、血と汗、そして僅かに漂う死臭、腐臭である。

 彼女達が吸血鬼や狼人といったいわゆる呪われた者であることは、この帝都では周知の事実である。好きで受け入れたわけではないのだが、気が付いた時にはもう遅かったというありがちな話である。

 今から二百年ほど前、ローズは裕福な高位魔導師として帝都へとやってきた。帝都の東側の土地を自らに相応しい要塞建設のためにと広範囲に渡り買い取った。当時その辺りはやせた土地と帝都に入ることができない者たちが住む集落が浜辺に点在しているだけで、帝都から顧みられる場所ではなかった。

 ローズはそこに現在住民たちから塔と呼ばれている要塞を建て、付近の土地の整備を始めた。皆が彼女の正体が高齢の吸血鬼であることに気づいたのは、今は帝都新市街と呼ばれている地域の基盤が出来上がった頃だった。その事実に帝都中が騒然となったが、それも一時的なもので、大した時間はかからずおさまった。

 ローズは新市街を丹精込めて作る箱庭のように考えている。そのため、そこに害を及ぼす者は人や同族などの種族を問わず、容赦なく排除する対象となる。実際、五十年前にやってきたフレア以外の多くの呪われた者は、帝都から速やかに姿を消している。なぜ、フレアは無事でいられるのか。ローズはそれを語ることはなく、フレア自身もわからない。

 ただ、腕が立ち、昼夜を問わず働くことができ、美麗な金髪少女の姿をした雑用係となれば、理解もできないでもない。その条件を備えた者はそう数はいないのは確かだろう。

 ともあれ、住民たちは下手に街から出るより、帝都新市街というローズの作った囲いの中にいる方が、安全ではないかという考えにいたった。当時、彼女が獲物としたのは彼らがよそ者と呼んだ者達だったからだ。帝都も精鋭部隊を犠牲にしてまで彼女を排除をするより常時監視の上での共存の道を選んだ。

 それ以来、新市街は旧市街と共に帝都の発展に寄与している。

 ローズは一階ラウンジにいた知り合い達に軽く挨拶をした後、階上の桟敷席へと向かった。そこは芝居好きの彼女が年間契約で借りている場所で、壁により仕切られた個室のような空間となっている。内部はローズとフレアのための椅子、そして来客のための予備の席二つが横一列に並べられ、隅には塔から持ち込んだ鋼鉄製の衣装掛けが置かれている。飲食などのサービスなども受けることができるが、偏食家の二人の口に合う物は出されていない。

 眼下の観客席にはビビアン・クアンベルの脚本の芝居としては、いつになく若い女性客が多くみられるようにローズは感じた。

 北方ガルデシア出身の若手役者ジェイスン・ルーミスをクアンベルの芝居の主役に起用することには、当初疑問の声が上がっていたが、いざ蓋を開けてみるとその声は鳴りをひそめ、手のひらを返したような絶賛の嵐となった。開演から二週間たった今では最近のクアンベルの芝居では一番の出来との評価も聞こえてきた。

「フレア、確かお隣の席は……」ローズは彼女のトレードマークとなっている背に豪奢な幻龍の刺繍が施された外套を脱ぎフレアに手渡した。

「マイクル・モット様です。旧市街で調理師や洗濯女とかの派遣の取りまとめなどをされてる方です」フレアは外套をローズから受け取り衣装掛けに掛ける。

 二人ともそれをいとも軽々と扱うが、魔獣の毛皮を使用している外套の重さはフルセットの板金鎧ほどの重さがある。

「そうよね」顔の上半分を隠していた仮面を外し、鮮血の色を帯びた瞳を隠すため黒眼鏡に付け替えた。

 真っ赤な瞳はあまり好まれない。それが豊満な乳房と艶やかな長い黒髪を持つ美女であってもだ。そして不意の事故防止の処置でもある。彼女の力に対し耐性をない者がその瞳を直視し、昏倒してはローズとしても面倒なことになる。

「はい、いつもはモット様と奥様、たまにお友達というのか、お仕事関係の方がご一緒こられています」

「今夜は違うようね」

 今夜、隣の壁越しに聞こえてくるのは数人の若い女性のにぎやかなしゃべり声である。モット氏は少し太めでにこやかな中年男性、その妻も似たような中年女性で、彼が妻以外の若い女性を伴い来場した記憶はローズにはない。

「まぁ、気にしないでおきましょう」

 芝居が始まるとルーミスはそんな些事など簡単に吹き飛ばし、舞台と歌劇場の全てを己が物とした。自分を助けに来た友を襲った悲劇、それに苦悩する青年騎士の姿に場内各所からすすり泣くが漏れてくる。フレアまでがいつになく神妙な面持ちでルーミスを見つめている。

 隣からもすすり泣きの声に抑えた嗚咽、加えて鼻水をすする音がさかんに漏れてくる。そして、短い悲鳴とくぐもった会話。それを期に彼女たちは素に戻ってしまったのか、鳴き声は収まり静かになった。

 ややあって、先ほどより遥かに大きく、明らかに恐怖を帯びた悲鳴が隣の桟敷席から聞こえてきた。それに呼応するようにさらに悲鳴が響き渡る。

「何?今のは?」

「お隣からのようですね」フレアが答える。

それは舞台まで聞こえたらしく、芝居は止まり楽団員が奏でる悲しげな曲も鳴りやんだ。ルーミスはもちろん他の役者たちも悲鳴の元を探るように辺りをうかがっていた。観客達も立ち上がりきょろきょろと周りを探る。

「ついてきなさい」それだけ言うとローズは桟敷席を飛び出していった。

 隣の桟敷席、ここでも薔薇もどきの香水の香り。モット氏の桟敷席には四人の女性がいた。見た目はフレアより少し年上に見える娘達だ。若い娘を襲う輩については枚挙にいとまがないが、その時の桟敷席の様子は齢千年を経たローズであっても、想像したこともない光景だった。

 通常は沼地や湿地帯に生息する歩行植物のモルボルが、その触手じみた蔓足で着飾った金髪の女性の一人を捕らえ、蔓足で巻きつき締め上げていたのである。モルボルは海にいるタコを思わせる歩行植物である。その成体は大人でも見上げるほどに巨大で、悪臭を放ち、蔓足で大地を這いまわる姿は、まさは悪魔と言っても過言はない。だが目の前にいるのはそれは小柄な大人ほどの大きさしかなく緑色ではあるが半透明の身体をしている。

 桟敷席に入ってすぐの場所に赤い髪の女性が蒼白となって立ち尽くしていた。無理もない。街中でこのような化け物に出会うことなどまず考えられない。

「あなた、警備の方を呼んできてもらえるかしら、わたし達は助けがいるわ」ローズは自らの力を使い女性の意識に入り込み、その恐怖を解いた。

「はいっ!」

 我を取り戻した娘は赤い髪なびかせ、警備員の元へ飛び出していった。

 他の二人は果敢にも被害者をモルボルの蔓足から解放しようと顔を真っ赤にしながら力を振り絞っていた。しかしモルボルの締め付ける力はかなりの強烈らしく、効いている気配はなかった。

「手伝いましょう。力任せはだめよ。彼女の身体に障りがでるから……」

 これはフレアへの呼びかけ、彼女は見かけこそ華奢な少女だが、人の頭なら一撃で殴りつぶす事が出来る力を持っている。

 ローズとフレアは被害女性の両脇に回り込み、腕を身体と巻きつく蔓足の間に押し込み力を込めた。次第に触手は緩み始め、といきなり半透明のモルボルは弾けるように液体に変わり、そして緑の霧となってすぐに消えうせた。解放された女性は支えを失い、その場に尻もちをついた。突然の解放に戸惑ってはいるようだが、とりあえず問題はない様子だ。一瞬、薄緑に染まった一同もすぐに元に戻った。

「ありがとうございます!」

「え、ええ……」ローズは満面の笑顔で礼をされ少し戸惑った。

 女性達はローズ達のおかげでモルボルから解放されたと思っているようだった。しかし、ローズにはモルボルは自ら崩壊、消滅したように見えた。彼女自身が手を下したようには思えない。ローズの顔を覗き込むフレアも同様の事を感じているようだ。

 とりあえず、桟敷席の混乱は落ち着いたが、それは階下へと伝播し拡大しつつあるようだった。悲鳴を聞き、桟敷席でのたうつモルボルの触手を目にした観客が口々に化け物だと叫び、それを耳にした者が悲鳴を上げる。パニックは目前である。誰かが慌てて出口へと走れば、人々はそれにつられて殺到し大混乱に、その果てに犠牲者が出ることになる。そうなるともう芝居どころではない。

「皆さん、落ち着いて、まずはその場で止まってください」ローズは桟敷席から身を乗り出し観客、役者、楽団員に呼びかけた。

 場内は水を打ったように静まり返り、人々は凍りついたかのようにその動きを止めた。

 これが彼女が得意とする意識操作である。ローズは人の意識内に入り込みを意のままに操る。これが帝都が彼女を警戒しながらも一目置いている理由の一つである。

「ありがとうございます。もう化け物は消え去り、騒ぎは落ち着いています。ゆっくりと元の場所に戻り座ってください」

 観客達はフラフラと歩き自分の席へと戻っていった。もう騒ぐ者など誰もいない。

「いいですね。もうすぐ帝都警備隊の方々がいらっしゃいます。今しばらくお待ちください。それまで自由な歓談の時間をお過ごしください」

 ローズが言葉を終えると場内は何もなかったかのように、幕間のにぎやかさを取り戻した。

「相変わらず、お見事ですね」フレアは半ばあきれ顔で言った。

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