第33話~亀之丞~
『次郎よ、お前は心の眼で見ておらぬゆえ、いつまでも区別がつかぬのだ』
次郎法師は、天井から見下ろす烏天狗からそう言われると、正面の烏天狗に目を向けました。
確かに、修験者らしい目の前の烏天狗と他の烏天狗は、あきらかに纏う色が違いました。そして、身の動きも、人のそれとは違いました。
「じ、次郎は、少し疲れておるのです……天狗様は確かに、目の前の方おひとり……」
次郎法師は、視線を床に落としながら、兄弟子達にそう話しました。何だかその方が良い気がしたからでした。
「我々は大丈夫だか、次郎はおなご、無理もない。天狗様、今日はもう休ませて頂けると有難いのですが」
次郎法師を心配そうに見つめた兄弟子達は、烏天狗にそうお願いをしました。
「では皆々様はここでお休み下さいませ。次郎法師様は、離れを別に用意してあります、どうぞ此方へ……」
高下駄をカラカラと鳴らしながら、烏天狗は、次郎法師を案内するべく歩き出したのでした。
*
暫く歩いて行くと、小さな建屋が現れました。
「此方に、着替えやその他を用意してございます。あと…中にとある武家より預かりし童がおりますが、お気になさらず。では、明朝」
烏天狗はそう言うと、もうそこに姿はありませんでした。
「武家より預かりし童………?」
次郎法師は、思わず亀之丞の事を思い浮かべていました。
高鳴る心臓の音と、手に汗を滲ませながら、戸口に手をかけた次郎法師は、一気にそれを開け放ったのでした。
「だれじゃ!!」
中には、小さな女の童がいて、突然の来客に驚くと、身を縮めながら大声で泣き出してしまいました。
「違ったか………」
次郎法師は、少しがっかりしながらも、まずは泣き出してしまったこの童の警戒心を取るべく、にっこりと満面の笑顔を向けました。
とにもかくにも、今夜からここで共に寝泊まりするのであらば、仲良くなっておかねばなりません。
「す、すまぬ、すまぬ……驚かせて悪かった。井伊家の龍潭寺より参った次郎じゃ。暫し、宜しく頼みますぞ」
「じ、次郎……?ひっくひっく、お、おなごなのに??」
「おなごである事を今は捨てておるのじゃ。して、そなたの名は?」
「ひっくひっく、ひ、秀子……」
「秀子か……そうか………秀子…………」
すると次の瞬間、次郎法師の両目からは、止めどなく涙が溢れ始めました。
「これは一体どうした事か………勝手に、勝手に私まで涙が………きっと、長旅で疲れてるのだ、すまぬ………すまぬ…………」
次郎法師は、その場に崩れる様に座り込むと、顔を両手で覆いました。
いくら泣き止もうとしても、止める事が出来ません。それは自分でありながら、別の人間が流している涙にすら感じられました。
次の瞬間、
次郎法師は何かを思い出したように顔をあげると、ゆっくりと大声で泣き続ける、秀子の方を見ました。
自分は生まれる前は、浅井の人間で、確か六角に嫁いだ身であった………
そして目の前で泣くこの秀子は、その時、流行り病で亡くなった娘……
気づけば、大声で泣き続ける秀子に、流れる涙を拭う事すら忘れて、次郎法師は近づいていくと、強く強く抱きしめていました。
それはもはや言葉にならない感情で、自分でもどうする事も出来ない気持ちでありました。
「母(はは)様………」
泣きじゃくりながら秀子は、気づけば次郎法師の事を、そう呼んでいたのでした。
*
それから次郎法師と兄弟子達は、度々鳳来寺を訪れては、修行を重ねました。
鳳来山の空気がそうさせるのか、次郎法師は訪れる度に、兄弟子達には視えぬ世界が、どんどん視える様になっていきました。
そして、それは秀子も同じでした。
次郎法師は、秀子も自分と同じ癖を持つ毛色の持ち主なのだと、何もかも御仏の導きなのだと、そう思わずにはいられませんでした。
そして秀子も成長していく中で、次郎法師の事は母様と呼び、更に懐いていったのでした。
*
1555年
小野政直が没した翌年。
20歳になった亀之丞が、井伊谷へ突如戻ってきました。
亀之丞は、今川家への帰参も許され、あとは、次郎法師を還俗させ、晴れて夫婦になれば井伊家は安泰、そう誰もが思っていました。
*
「困った………」
次郎法師の父、井伊直盛は戻ってきた亀之丞を前にし、両手で頭を抱えていました。
「長きに渡り井伊に戻る事叶わず、本当に申し訳ございませんでした。これからは、井伊の為、力を尽くす所存でございます」
「亀之丞、して、その隣の姫は……」
「娘の、高瀬にございます」
「あぁ………」
直盛は大きな溜息をつくと、更に右手で顔を覆い項垂れてしまいました。
亀之丞の話では15になった時、松源寺と松岡家の強い薦めで、代官塩沢氏の娘と結婚。息子と娘をもうけ、今回の井伊家に戻るにあたり、息子は嫁の実家に預け、娘だけ連れ帰ったとの事でした。
「娘も預けてくればよかったものを……」
直盛はつい、次郎法師の事を思う親心から本音を漏らしてしまうと、慌てて口を抑えました。
「いや、責めてるわけではないのだぞ?井伊に戻れる確証もなかったのだ、それだけ松岡家の方々が大事にしてくれていた証。そこは感謝してもしきれぬ。ただ……ひよのに何と言えばよいのだ………」
「心配はいりませぬ、父上」
すると、声と同時にいきなり障子が開かれると、次郎法師が入ってきたのでした。
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