ヌマエビ
正面の椅子に腰掛けていたのは、表情にあどけなさを残した少年だった。白いシャツに格子の細かいギンガムチェックのズボン、肩の辺りにサスペンダーのバンドが見えている。
「子供……?」思わず俺は口をついた。
少し古い西洋の富裕層の少年。いわゆる"お坊ちゃん"的な姿だった。
「あぁ、これは君が僕の声の印象から想像した姿さ。君が本心から惹かれるような姿にもなれるよ」
彼がそう言った直後、目の前に起こった非現実に、俺は思わず一歩たじろいだ。
クレイグ少年の身体がぐにゃぐにゃと歪に蠢いてミミズのように細長くなり、やがてそれらは螺旋を描いてサスペンションのような形に変化したのだ。
「───ほら、こんな具合にね」
クレイグ・サスペンションの捻れが元に戻った時、『彼』というか、『彼女』の姿は全く別の人間に変わっていた。それはそれは刺激的な姿に。
栗色のロングヘアのアジア人女性。白くて艶のある肌、小さな鼻、小さな口、小さな顔、大きな瞳、大きな乳房、衣服は着用しておらず、上下共に下着だけだった。
「こっちの方が、好き?」色気を多分に含んだ女性の声だ。
彼女は長机に肘をついて前かがみになり、深い峡谷をこちらへ見せつけてきている。
「い、いや………前の姿の方がいい」俺はそう言って足早に自分の椅子に腰掛けた。
もちろんそれは嘘だったし、可及的速やかに交渉のテーブルへ着く必要があった。というか、今すぐに椅子に腰掛けなければならない事情ができたと言うべきか。
「ふうん、素直じゃないなあ」
彼女は全てお見通しとばかりににやにや笑って、再びクレイグ・サスペンションの形態をとり、男の子の姿に戻ったことで、こちらのサスペンションの方も正気を取り戻したみたいだった。
「それで、交渉ってのは何なんだ。あんたが超常的な存在なのは十分わかった。俺が思うにクレイグ、あんたに出来ないことなんてないんじゃないのか?一体俺に何をさせようって言うんだ?」
「おぉーっ!超常的!なるほど、そう言えばよかったのかあ。君って思ったより賢いね。単刀直入に話すと、君には『調停者』になることをお願いしたいんだ」
「調停者?」首を傾げて雄武返しにするしかなかった。
「僕はこの多元宇宙の権利者なんだ。君たちが住んでる世界と似たような世界をいくつも所有してるって言ったらわかるかな?」
「いいや、わからない。それじゃ地球もあんたの持ち物だってことか?」
「そうだよ」一部の疑念もない返事だった。
「それじゃ、俺たちはあんたのペットみたいなもんか……」
「うんうん、いいねぇ~~~、その認識はかなり近いよ。君たちの星は僕にしてみれば観賞魚の入った水槽みたいなものなんだよ。君たちはその中で飼育されている魚の種類のひとつさ」
「喩え話が好きなやつだな。それが調停者とやらとどんな関係がある」
「観賞魚の水槽、つまりアクアリウムは観て愉しむものだろ?そんな水槽に景観を害する大量のアオミドロが蔓延ってしまったとしたら君はどうする?」
「そりゃあ駆除して水質を綺麗に保つ……とか」
「うんうん、概ね正解。ただしそれは水槽の所有者自ら直接的に手を下す場合だけど、別のやり方もあるよね」クレイグはまたぞろ厭らしく口角を上げた。
「別……アオミドロって確か藻みたいなやつだよな。だったら藻を食べる生き物を水槽に放すとかか?」
「いいねいいね、察しの良さは美徳だよ。つまりだ、君はその『ヌマエビ』になるか、さもなくばこのまま消えてしまうかを選んでもらうということになる」
この憎たらしい小僧の言葉をそのまま受け取るなら"従属か死か"という風に聞こえるけれど、俺は既に死ぬことすら剥奪されてしまっているはずだ。
「消えるっていうのはどういうことだ?俺は既に死んでしまっているじゃないか」
「文字通り、存在しないってことになるのさ。君の体はとっくに焼却処分されているし、二度と戻ることはできないよ。その前に君の精神を僕が写し取ってここへ存在を書き込んだ」
「魂を抜き取ったみたいなことか?」
「少し違うね。はっきり言って生き物に魂なんてものは無いのさ。君の世界の言葉で言うなら"データ"だよ。フロッピーディスクって君も知ってるだろ?時代に取り残されていった記憶媒体。あれと同じさ、媒体にデータが記憶されていても、それを読み取るドライブがなければ存在しないのと同じ。少し前までは君の脳がその媒体であり、身体がそれを読み込むドライブの役割を果たしていたけど、今は僕がコピーしたデータを持ってるだけ」
こいつが言うことに偽りがないことは何となくわかる。なにしろ俺はさっきまで自分の輪郭すら定まっていない朧げな存在だったのだから。
「………………………わかった。それで、俺は何をすればいい?」
「フフ。交渉成立、だね。リクエストと
足元から差し込む眩い光の柱に、思わず瞼を腕で塞ぐ。
「ちょっ、待っ────」
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