もうええわ。

鼻唄工房

プロローグ

 ──駄目だ。このままじゃあ、追いつかれる。


 もう足が上がらない。息を吸おうとしても、肺が膨らんでくれない。一歩を踏み出す度に、少しずつ、口から体力が漏れ出ていってしまう。奴らに追い付かれ、無惨に殺される想像を、何度も何度も振り払った。


 膨らんだお腹に、激痛が走る。アスファルトを蹴る毎に、衝撃が伝わってくるのだ。


──お母さんが、絶対に守るからね。


 お腹の子だけは、私の命に替えても守らなければならない。私の子を、あんな奴に、あんな奴らに、殺させてたまるか。


 逃げることだけを考えて、闇雲にここまで走ってきてしまった。工場地帯だろう。人気がなく、辺りは暗い。広い道は心細く、月明かりにすら監視されているような気がした。


 幸い、奴らの足音がしなくなった。むやみやたらに角を曲がったおかげで、私を見失ったのかもしれない。


 少し落ち着いて周りを見渡すと、この道はどうやら行き止まりらしいことが分かった。引き返すべきだろうか。いや、このまま戻れば、奴らと鉢合わせしてしまう。どこかに隠れてやり過ごそう。


 右手の突き当たりに、大きな倉庫らしき建物が見えた。判読不能だが、錆がついた看板が掲げられている。


 よし、ここに隠れるしかない。第一、もう走る気力は尽きていた。


 体育館ほどある倉庫に転がり込み、身を低くして、奥へと進む。幸いここには、大きな機械が大量に置きっぱなしになっていた。以前はこの機械が、盛んに動いていたのだろう。


 入口からできるだけ離れて、機械の陰に身を隠す。動きを止めた途端に、なぜか息が苦しくなってきた。じわじわと募る恐怖心に、呼吸が不規則になってくる。


 そんな私を心配するかのように、お腹の中で、赤ちゃんが少し動いた。お腹を蹴る感触が伝わってくる。走っているみたいだ。


──お母さん、頑張って。


 そう言っているような気がして、逃げ切る決意を新たに固めながら、お腹を優しく撫でた。


「兄貴! あの女、多分ここに入りましたよ!」

「なんで分かんねん」


倉庫のすぐ外から、奴らの話し声が聞こえてきた。すぐそこまで来ている。しかも、居場所すら悟られているようだ。


「ここにハンカチが落ちてました。まだ温かいし、この近くに潜んでると思います」

「よっしゃでかしたで。ほんなら、ほぼ確実にこの倉庫やろうな」


 ハンカチ? くそ、入るときに落としたのか。

 注意していれば良かったと後悔したが、もう遅い。なんとか、この窮地を切り抜けなければ。


「そこにおんのは分かっとるんやで~」

「おい! はよ出てこんかいボケ!」


 その怒声に続いて、金属と金属がぶつかる音が、倉庫内に響き渡った。突然の大音量に、思わず身体が反応する。おそらく金属バットか、それに準じるものを持っているのだろう。見つかったら殺される。脊髄から、身体が震えた。


「あと十秒で出てこうへんかったら、お前と赤ん坊殺すぞ~」


 余裕綽々な、よく通る声が響いた。あんなに走ったのに、息一つ切れていない。


「あと十秒で出てきたら、お前は殺さへん。赤ん坊は殺すけどな!」


 大きな笑い声が響く。赤ん坊を殺す? どっちにしろ、この子は死んでしまうじゃないか。なら、私は出ない。どうにかして、うまく奴らを撒かなければ。


「じゅ~う~」


 カウントダウンが始まった。心から楽しんでいる声だ。声の残響が、恐怖心を煽る。


「きゅ~う~」


 じりじりと、あいつが近づいてくる。さっきから、息切れが止まらない。恐怖が支配するこの倉庫では、呼吸する音ですら、聞こえてしまう気がする。


「は~ち~」


 もう、あいつが近い。あと五歩くらいか。息を止めなければ、止めなければと思うほど、呼吸が荒くなってしまう。

 口に手を当てるが、息が苦しくなるだけだった。


「な~な~」


 ──殺されたくない。


 結局、自分のことしか考えられなくなった。手の甲を、涙が伝う。


「ろ~く~」


 二度と見たくなかったあいつの顔が、ぬっと現れ、暗闇に照らされた。


「ご~よんさんに~いちぜろ」


 目を異様なほど見開いた、狂気じみた笑顔が私を見下ろしていた。私は呆けた顔で、その笑顔に固まるしかなかった。


「みぃ~つけた!」


 ふわっと煙草の匂いが鼻を掠めた。

 右手には、金属バットが握られている。


「おい高山、おったで~」

「はい! すぐ行きます!」


 目の前に、私を殺そうとする男が二人。あまりの恐怖に、太ももを、生暖かい液体が伝った。


「この女、ションベン漏らしてますよ!」

「おお怖いか。怖いんやな~。でも安心し~や、すぐに殺したるからな」


 視界が、涙で滲む。漂うアンモニア臭に、思わず自分が情けなくなった。


 ──ごめん、守ってあげられへんかった。ほんまに、ごめん。


「お前、借金どないすんねん。まさか、踏み倒すつもりか?」

「す……すいま──」

「聞こえへんわ!」


 右手に持っていた金属バットが、思いきり地面に叩きつけられた。心臓が跳ね上がり、息をするのもままならない。恐怖のあまり、何も言葉が出なくなった。


「こいつ殺して、内臓でも売り飛ばすんですか?」


 若い方が聞く。


「ん? そうやで。赤ん坊の方も、どうにか売れればええんやけどな」


 その言葉に、なぜか諦めがついた。もうどうにもならない。こいつらに借金をしたことが、運の尽きだった。


 静かに、お腹をさする。少しだけ、お腹が動いた。ごめん。私、お母さん失格やね。


「ほな、逝ってもらいましょか」


 微かに差す月光に、振り上げられた金属バットが光った。静寂がどんどんと音量を上げ、頭に強い衝撃が走った瞬間、視界が暗転した。


 手が力なく、八方に放り出される。涙が、頬を撫でる。

 薄れゆく意識の中で、お腹を伝う刃の感触と、奴らの話し声が聞こえた。


「おい高山見てみろ! これがセルフ帝王切開やで!」


 自分の腹部から、ヌチャリと音が聞こえると同時に、少し離れたところで、びちゃびちゃという音がした。


「おい、何吐いとんねん!」

「ゲェェ……」

「おお……これがへその緒か……意外と長いねんな」


 腹の中の一点に、違和感が宿る。と思ったら、ブンブンと何かが風を切った。


「フォー! どうや高山! 湘南乃風のライブみたいやろおぉぉ!」


 私の赤ちゃんに、何してるの……?


 湧き上がる怒りを、積み上がる恨みをどうすることも出来ないまま、私の意識は、ついに途切れてしまった。

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