第14話 思い出/行群

 過去を思えば聞こえてくる。

 人のざわめき。しかし非難の声は聞こえない。


 あくまで舘脇の家は強者を尊ぶ古風な武家社会の気質を残していた。

 それが男であればの話だが。


 もし、女が男を凌駕すれば、それは……


 表立っての批判はあるまい。

 さながら江戸時代の武家社会の本質、武士道とは名ばかりの恥と体面を重んじる風習の名残り。

 それ故に璃子はいつ殺されても、食事に毒を盛られてもおかしくない境遇ではあった。

 しかし、何より彼女を絶望の淵に叩き落としたのは母親の、その目。

 それまで疲れ切って、精神が磨耗していながらも、それでも愛情の念は残していたそこからゴッソリと何も無くなってしまったこと。

 そしてある時、眠りに着いたその瞬間に喉を抑えつける圧を彼女は感じた。

 酸素の供給が途絶えて視界が歪み、しかしその手の温かさだけは覚えがある。

 だから不安は無かった。

 むしろこんな世界なら目の前から消えてしまえばいい。でも、それができないので、なら、私がこの世界から消えてしまえばいい。


 それで楽になれる。

 楽になれるんだ。


 当時10にも満たない子供だった彼女がそこまで精細に物を考えられたかは彼女自身覚えていない。


 でも、楽になりたかった。

 楽に……


「うぶっ……」


 首を絞めていた母が不意にそんな声を漏らす。

 声?いや、うめき?

 

 自分の体が生きようと酸素を求め肺に空気を取り込もうとする、その本能に必死になっていて、璃子は周囲の確認ができない。


 でも、死に損なった。

 死に損なってしまい、そして身体を——妙に重く怠い、近頃はぶたれることが多いので青痣も痛むその身体に鞭を打って、正座をし、こうべを垂れようとした。


 それは、この狭く、薄汚い畳敷の寝室に本来ならいるはずない人物が訪ねてきていたから。


 その人は刀身の先がヌルヌルと血に濡れた刀を手に提げていた。

 それを突き刺した相手、つまり自分に覆い被さった母は布団の横に転がり仰向けに、刺された腹を抑えゼイゼイと瀕死の獣の様な息を吐いている。


 まもなく死ぬだろう。

 そうやって冷静に判断できた時点で、自分という人間はひどく冷たく、しかし人並みに愛されたいとも思っているどうしようもなく矛盾したヒトデナシである事を自覚した。


「璃子……と言ったね」


 自分と2つしか違わない少年の高く、少女に似たよく通る声がこうべの上から降る。

 歯が震えた。

 璃子にとって、もはや母に殺されそうになった事実より、舘脇という家の権威の方が恐怖の対象。


 そして目の前に佇立する少年こそ舘脇家当主の子が1人、舘脇六蔵。


 璃子は声を、出そうとして、しかし咳き込んでしまった。一挙手一投足が死に繋がるこの場面では致命的。

 だが、少年は返答が無かった事に不満を覚えなかった様で、続ける。


「源次兄さんから言伝を預かっている。『長男、源一郎の処分ご苦労』とね。つまり、源治兄さんは君の態度、今後の努力次第で延命を取り計らっても良いと考えている。兄さんに口添えしたのは僕だけどね」


 璃子は黙って聞き、そして1ヶ月前の飲みの席で自分がやった不始末を思い出す。

 恐らく誰もがほんの余興で終わると思っていた、あの時のこと。


 舘脇家長男の源一郎と璃子は竹刀で立ち合う事になった。


 強者が弱者を虐めるのは古今東西誰もが楽しむ余興。

 これもその一環と誰もが思い、しかし、璃子は完膚なきまでに源一郎を叩きのめしてしまった。

 なぜ、そんな事をしでかしたのか璃子自身もよく分からない。


 初太刀で源一郎の手から竹刀を弾き飛ばし二太刀目で顎を打って脳を揺らし、それで終いしまい

 無様に気絶し倒れた源一郎は、数日後に短刀で喉を突き自害した。


 それが何故この様な話になったのか、璃子にはとんと理解がつかぬ。

 それでも六蔵は話を続けた。


「で、だ……」


 手の内で逆手に持ち替え切先を畳に、璃子の顔の真横に刀を強く突き立てた。


「刺せ。そこに転がってるお前の母親を」


「……お言葉ですが、なぜ、でしょうか?」


 これは心の底から疑問に思った故に聞いたこと。母への愛情故にではない。そんな物はもう欠片も残されていなかった。

 殺されかけたからではない。

 元からそんな物、幻だったのか、それとも首を絞められた際そうした心の温かい部分だけ死んでしまったのか。


「僕はね、君にとても興味があるんだ。だから、こう言われて君がどういう反応をするのか見てみたい」


「そうですか……」


 そう言うやいなや璃子は立つ。

 六蔵を待たせてはいけないから。

 そして、妙に手に馴染むその重さを畳から引き抜いて、懇願の目で訴える母の心臓を、肋骨に阻まれる無様は見せず正確に突き刺した。

 さながら介錯を担う役人の様ですらあったその姿。


 それを見て六蔵は満足気に頷く。


 この日から彼と彼女は分かち難く結びついてしまった。

 これをなんと呼べば良いのか。


 愛。


 それは間違いない。


 共犯者。


 それも正しい。


 しかし、最も適するのは共依存だ。

 六蔵は璃子の従順な点と、しかし本質的に非人間的で虫の様な忠義に惹かれ、璃子はその六蔵に全てを捧ぐ奉仕の精神を見せる。


 きっと璃子は今ここで自害しろと言われればそうするし、体を鬻げひさげと言われればそうする。六蔵を刺し殺せと六蔵自身に命じられても事実としてそうするだろう。

 発育と共に人間臭さを得たところで本質は変わらない。


◆◆◆◆


耨歹・咬邵廟ぬがつ・こうしょうびょう


 それは舘脇家の秘術。

 有数の才を持つ術者にのみ伝授さるる。

 これを今、舘脇家で扱えるのは当主舘脇宜嗣たてわき のりつぐの他に、次男:源次、六男:六蔵のみ。


 その最大にして稀有なる特徴は『悪魔』の限定的な受肉にある。

 己の魔力をあらかじめ馴染ませた建造物へ『外象魔術』を起動。悪魔を住まわす己が『内象世界』と接続、建物内部への拡張を果たし、建造物丸々全てを『内象世界』の一部として異界化。

 現世から切り離して、そこへ呼び込んだ者を隔離する檻。


 であれば術者の精神内でのみ十全に活動できる『悪魔』は実体として肉を持ち、今、この伽藍堂の百貨店の中を飼い主の命に従い跋扈ばっこする。

 それが天井の向こうから響く轟音の正体。

 群れを成してやってくる。


 その状況下、璃子は標的を見つめて思う。


(私のやる事は2つ。『悪魔』と共闘し標的の消耗、手札の開示を誘う事。そして……)


 同じくこの異界に入った六蔵の元へ近寄らせない事。


 この『耨歹・咬邵廟ぬがつ・こうしょうびょう』の弱点と言えるかは微妙だが、標的を罠で転移させ、その後『悪魔』を中で動かすには術者自身もその中で『悪魔』の召喚と命令の下知げじをこなす必要があった。


 無論、六蔵自らは外で待ち、全てを璃子に任す選択肢もあったが、それでは決定打に欠けると判断。


 そして、


——咎人狩り9日目、20:00


「後藤沙耶香さん……ですよね?」


 一応璃子は確認の一声をかけつつ、しかし若干えづきつつも睨みつけ敵意を忘れないその綺麗な女性の顔を見て、必要がなかった事を確信。


 胃の内容物を女性が吐き出した際、口元のマスクを引き剥がしたからだ。

 実は顔をちゃんと見て追いかけたわけじゃ無い。

 そこだけ気掛かりだった。


 万一人違いでも、ここまで見られたら殺さなきゃいけないし、それは申し訳ない。


 だから、安心した。

 これで容赦なくれる。


 そして抜き身の刀を構える……様な真似はしない。次の挙動をわざわざ読ませる必要はない。


 そして何より天井の奥から鳴り響いた濁流の如き『悪魔』の行群を利用すべきだろう。


 それに紛れて……


◆◆◆◆


 最早逃げ場がない事を沙耶香は悟った。


 ぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞうぞう——とエスカレーターの上から坂を駆け下る様に高きから低きへ水が流れる様に群れを成して迫るのは、群勢。

 悪魔の群勢。

 蟲の群勢、異形の群勢。

 奇形の群勢。奇想の群勢。


 舘脇六蔵の属性『照応』、カテゴリ『群像』の内象世界で育まれた悪魔どもは大方その様な形を取っていた。

 現実から切り離され、およそこの世のどれとも似つかぬ姿のそれらはまさに悪夢そのもの。

 蟲……しかしすり鉢状の口が全身の表皮に無数に位置する小型犬サイズのそれ。

 異形……全身から鉄針の毛が生えた四つ脚の何か。頭は無い。

 奇想……形容し難く形を変え、常に膨張収縮を続ける肉の触手の絡みつき。サイレンの音をがなり立てる。


 悪魔が魔術師の精神で育てられた場合、それは術者の思考や価値観の影響をまざまざと受ける事になるが、それが美しい姿形の事はない。

 いずれも人の内面とはかくの如きものである、一皮剥けば皆醜いと厳然たる事実を白日に晒す。


 それが順次エスカレーターを駆け下ったそばから、攻撃対象を外れる璃子をわずかに迂回して彼女の周辺だけに空間ができ、しかし回り込んだそれらは一目散に沙耶香へと。


 沙耶香は左手でベルトポーチの中を漁る。

 もはや刃物一振り、内象魔術の運用如きで凌ぎ切れる状況ではない。


 『外象魔術』には『外象魔術』で対抗する。


 そうして落ち着き払ってゆったりと——そう見えたのはこの危機的状況であまりに悠長に見えたから。

 並の高等魔術師なら物量に押し潰される状況で、実際手早く取り出したのは透明な石。

 ダイヤモンド。

 ただ、それはある意味で極限に圧縮された死の概念そのものとも言えた。


 そもそも魔術師が宝石を魔術起動の『触媒』に使うのは珍しくない。メソポタミア文明にしろ古代エジプトにしろ宝石に神秘を見出す宝石幻想という思想は魔術の発展に一躍を買った。


 ただそれは宝石が天然石であった場合の話。

 沙耶香がこの時取り出したのは人工ダイヤモンド。

 それはある物質を工学的手法で高温高圧のプレスを成したものだ。

 それは即ち人骨を素材としている。


 更に、ここではとっておきの品が必要と考え、父、盧乃木美樹鷹の遺骨から作られたダイヤを取り出した。

 生前、盧乃木家継承の『死』の属性を宿した美樹鷹の骨から作り出された宝石は、それだけ沙耶香の魔術と相性が良い。


 そしてあらかじめ刻み付けた術式を自身の魔力で励起した。

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