造花に花言葉はありますか?

弓張 みはり

第一章 ようこそ!異世界へ!!

第1話 白のながれ星

ながれ星を見た事が無かった。

僕はいつしか、夢など見なくなっていった。


荒れ狂う冬の夜風に当てられながら、じっとりと黒く染まった空に手を伸ばす。

イメージは、そうだ。木から堕ちたリンゴがふさわしいのかもしれない。

一歩足を踏み出し、眼下に広がる街の灯りに向けてゆっくりと身体を投げ出していく。


恐怖心などなかった。身体が風を切る感覚が心地良かった。そのままゆっくりと堕ちていく。

どぼん。まるで海に飛び込んだかのような気持ちだ。

僕の意識は何かに溶けていき、全身の感覚さえもあちこちに引き伸ばされていく。


そして、そのまま。


いやに長い夢を見たのだった。


✩✩✩


やわらかい日差しが、彼の顔をあたためる。

耳をすませば、鳥のさえずりさえ聴こえてくる。やがて意識を取り戻した彼は、ゆっくりとまぶたを開いた。


目の前に広がるのは、白い巨大な花の群れであった。

僕は何をしていたのだろう?

確かに覚えていることは、あの夜のことだ。

ついに意を決し、ビルの屋上から飛び降りたあの記憶だ。あのビルは確か……十五階建てだったはず。あの高さから落ちて無事な人間などいるわけがない。僕は視線を手足に移した。真横に生えている巨大な木のような花から延びたつるが散々巻き付いているのだが、手足ともどもしっかり揃っている。


そもそも、周囲に広がる光景は何なのだろうか? 視界の下から上をぐるりと見渡していく。

荒れた土の上には小さな赤い花が広がっており、それをむさぼるような形で大小様々な槍のような白い花が咲き狂っている。真横にあるこの白い花など、全長4~5メートルはありそうな高さだ。そう、あまりにも非現実的なのだ。


もしかしてここは、死後の世界なのだろうか。とりあえず立ち上がる。すると、身体の内側から引っ張られるような感覚があった。

ピンと張ったそれのせいで、僕は中腰の姿勢にしかなれなかった。動きを妨げているのは、隣の花から伸びたつるであった。

右腕に巻きついたつるに手を伸ばす。巻きついていると思っていたそれは、実際には僕の腕から生えているものであった。

感触は普通の植物のようだ。冷たく弾力のある触感からは、みずみずしい果実を連想とさせた。


これがある限りは自由に動くことはできない。しかし、身体から伸びているものなのだ。安易に外して良いものなのだろうか?

そんな考えが頭の中をぐるぐると巡るが、背に腹はかえられない。恐る恐るつるを引きちぎる。


ぶちっ。管がちぎれた音がする。しかし奇妙なのは、その音が僕の頭の中でも響いたことだ。ちぎれたつるから手を離す。すると中からやって来たのは、鋭い痛みと大量の血液だった。


「うわっ……!」

全く予想すらしていなかった感覚に身体がよろめく。そしてそのまま尻もちをつく。

はち切れんばかりに張っていたつるはゆっくりとしぼんでいき、枯れたような姿に変化していった。中には血液がいっぱい閉じ込められていたのかもしれない。

やがてつるは更に風化していき、黒い粉のようになって消えてしまった。

薄気味悪い光景であったが、何はともあれ身体の動きを封じ込めていたものは無くなった。


僕はよろめきながら、ひとり裸足で荒れ果てた花畑を進んでいく。数歩進むと、足先に固く乾いた何かがぶつかる感触がした。

下に目線を向ける。それは、先程のようなつるがぐるぐるに巻きついた頭蓋骨であった。


これに触れた足先から、全身に向けて寒気が駆け巡る。

人の骨を見たのはこれが初めてだ。しかも様子がおかしいのだ。目や鼻の穴には縦横無尽につるが入り込んでおり、小さな白い槍のような花が所々骨を突き破って咲いているのだ。


恐怖で声すら出なくなる。いや、息すらできない。一歩遅れれば自分もあんな風になっていたのかもしれない。

何なんだ。ここは本当に死後の世界で、しかも地獄なのかもしれない。

ここから逃げなければ。何が起こるかわからない。


僕は走った。とにかく走ったのだ。

この薄気味悪い場所から抜け出したい。とにかくその一心で走り続けた。時より固いものが当たる足の裏の感触など考えず、身体に大小様々な葉が擦れる度に与えられる痛みなどには目もくれず……


一分ほど走ると、目の前にちゃんとした木が現れた。どうやら花畑の際まで走り抜けてきたようだ。そのまま走り抜けるつもりであったが、視界の中央が紫銀色に揺らめいてきた。それを自覚する頃にはすでに遅く、スライディングのような形で倒れ込んでしまった。


「ああ……あの時血を出しすぎたのかも」

貧血気味の時に起こるめまい。それをさらに酷くしたような感覚だった。真横に生える巨大な花に手を当て、全体重を預けてもたれかかる。大きく息をつき、額ににじむ汗を拭ったその時だった。


「だい、じょうぶ……?」

森の方から声が聞こえる。そこに居たのは、赤い長髪の女の子であった。

「天使……」

思わず声が漏れてしまった。どうやら地獄では無かったらしい。


☆☆☆


彼女は自身をアネモネと名乗った。

左目を隠すようにタオルを巻き付けていることだけを除けば、絵本の世界から出てきたような姿であった。変身前のシンデレラのような服装ではあるのだが、そんな事などどうでもいいくらいに顔立ちが整っている。

行くあてもないので、この森を抜けた先にある彼女の村へ行くこととなった。


「まさか……こんなところに人が居るなんて」

小風に髪を揺らされながらアネモネはそうつぶやいた。

「あの場所はね、入っちゃいけないことになってるの。村の人は絶対にだれも入らないし、王都で売られている地図にはこんな場所があるって事すら書かれてないんだよ!?あなたは一体……?」

「僕は……」

ビルから飛び降りたこと、気がついたらこの場所にいたこと。死後の世界だと思っていたこと。そんな事を簡単に伝えた。


「地獄……それって何?」「えっ!」

彼女の純粋な反応から察すると、どうやらこの世界には死後の世界の概念が存在しないのかもしれない。僕は拙い語彙力で彼女に死後の世界について説明をした。


「へぇ……面白い考え方。本当にこの世界の人じゃないみたい!それで、あなたの名前はなんて言うの?」

「名前は……あれ」

思わず歩みを止めてしまった。

だって……いや、意味がわからない。自分の名前が思い出せないのだ。

それどころか自分が住んでいた街の名前も、両親の顔すらもはっきりと思い出すことができなかった。まるで頭の中に濃い霧が立ち込めているかのような感覚であった。


「思い出せない……」

「ええーっ!!」

「僕は、一体誰なんだろう」

「じゃあさじゃあさ!私が名前を付けるってのはどう?なんて呼べばいいのかわからないと困っちゃうし。そうだなぁ、あの花畑に咲いてるのはルピナスって白い花だし……なんか赤い小さな花も一緒にあったような気もするけど、目立つのはルピナスだったし。

ルピナスで良いんじゃないかな!?」


「良いんじゃないかなって言われても……」

正直名前の善し悪しはわからない。あの大きな花の話をされて、気味の悪い頭蓋骨を思い出してしまって少し嫌な気持ちなってしまった。

けれど、なんだかあだ名(愛称?)を付けられたようで嬉しかった。


「じゃあ、その名前でいいや」

「ホント!じゃあルピナス、今日からよろしくね」

ちょうど森の出口に差し掛かっていた。木漏れ日で輝いているのか、はたまた彼女の持つ力なのかはわからないけれど、その笑顔はとても輝いて見えた。


☆☆☆


「おじいちゃーん、帰ったよー!!」

「おう、お帰り」

薄い赤色の頭髪をした男性は椅子からゆっくり立ち上がり、入口の方へ顔を向けた。立派な髭をたくわえた、まるで仙人のような姿だった。


孫娘の帰宅に笑顔の祖父は、こちらの姿を見るとなぜか表情が一転してしまった。

カラン……乾いた音が部屋に響く。彼女の祖父が驚きのあまり杖を落としたのだ。

「おお……その方は。アネモネ、その方はいったいどこから」

「ルピナスの花畑にいたの。この子、名前が無いんだって。だからルピナスって呼……」

「アネモネ!!」

彼女の祖父が声を荒らげる。とても腰の曲がった老人とは思えない声量だ。それに驚き、僕もアネモネも身体を揺らしてしまった。


「いや、すまんかった。アネモネ、その方をまだ誰にも見られてはいないだろうな」

「うん……みんな仕事中で村にはいなかったし」

「わかった。これから外に行く時はその方にローブを着せなさい。特に髪の毛は見られないように。あなたも、それを守ってくだされ」

「わかりました……」

「それさえ守ってくれるなら、しばらくこの村におってもいい」


というわけで、しばらくこの村の世話になることが決まったのだった。

この村の名はルビル村。標高が少しばかり高く、村の周辺はルベウス大森林という名前の森に囲まれている。

その標高の影響もあって気温が低く、またろくに平地が確保できないこともあり村民は羊を飼ったり、森林の方で木を切って生計を立てているようだ。

幸いにも王都からはそれほど離れておらず、定期的に商人が行き交う程には人が住んでいる。しかし、若年層はほとんど住んでおらず、アネモネの同世代は存在せず、子供は八歳の子がたった一人いる程度らしい。

アネモネはその村で村長である祖父と二人で羊を飼って暮らしている。

他の村民と共に仕事をしてはいるが、若い人間など彼女ぐらいであり、彼女がほとんど一人で駆け回っているような状態だ。

しばらくの間世話になる代わりに仕事を手伝う。そんな生活が始まった。


雑務や力仕事なども大変だが、一番大変なのは一日の終わりの頃の仕事だ。

日中羊は広い柵の中で放し飼いのような状態であるが、夕方には牧羊犬と共に村に近い囲いのなかに追って戻していく。これは夜間にオオカミなどから襲撃を受けないようにするためだ。


これが……最初の一日、二日は本当に大変だった。

羊が言うことを聞くどころか、牧羊犬すら僕の指示を聞かないのだ。突然現れたローブ姿の男など不審極まりないので当然といえば当然だ。

「ちょっ、待って……うわああっ!!」

時には牧羊犬に飛びかかられ、時には羊が全く違う方向に行ってしまったり。

文字通り二転三転もしたわけなのだが、やがて驚くことに羊が僕の指示を聞くようになっていったのだ。


「はい。こっちだよ。」

ピーッと指笛を鳴らし、一箇所に集めた羊達を誘導していく。牧羊犬など使わずとも、うまく誘導が出来るようになった。


「ルピナス……すごい!」

それを見たアネモネや村民たちが感嘆の声をあげる。

「私でもそんなことできないのに。いいなぁ……羨ましいなぁ」

「あはは。でもその代わり犬は言うこと聞いてくれないんだけどね」

背後からグルルルル、といったような唸り声が聞こえてくる。ああ、牧羊犬と目が合ってしまった。案の定牧羊犬は僕に向かって飛びかかってくる。それを見てアネモネ達が笑う。ちょっと、見てないで助けてってば!!


ああ、楽しい。

こんなに楽しい毎日は久しぶりだ。

こんな生活がずっと続けばいいのに。

心の底からそう思う毎日だった。


けれど、時には悲しい時もある。


僕がこの村にやって来て、ちょうど14日目のことだ。その日はいやに物静かな朝だった。

アネモネと共に羊の囲いへ向かうと、まだ子供の小さな羊がぐったりと倒れ込んでいた。

この子羊は……そうだ。初めて僕に懐いてくれた羊だった。やけにねじれた小さな角が印象的だったので、外見的にも忘れることはない。

「病気だったのかな……?あんなに元気だったのに。ごめんなさい。はやく弔ってあげるからね」

アネモネの声には、普段の弾けるような感情が乗っていなかった。いや、当たり前だ。


「この子の……僕は名前は知らなかったけど。お墓を作ってあげよう」

「名前……?」

アネモネは不思議そうな目でこちらを見つめてくる。ほんの少しの間、誰も何も発さない静寂が訪れた。


「この世界ではね、私たち人間以外に名前なんてないんだよね」

冷たくなった子羊の頬を撫でながら彼女は続ける。

「私たち人間は産まれた時に名前を貰うの。親や兄弟がつけるんじゃなくて、産まれたその時、周りの人には声が聴こえるの。もちろんそれは小さな本人にも聴こえていて、そこで花の名前を貰うの」

彼女が語ったのは、にわかには信じ難いこの世界のルールなようだ。


「その名前は絶対。変えることなんて許されてないし、自分で何かに名前をつけるだなんて……あっ」

頬を撫でる彼女の手がぴたりと止まった。

「私、にやっちゃったじゃん」

「えっ……」

何かしらの上位存在が名前を与えてくる。

それは神に近しい何かなのでは無いのだろうか?

無意識ではあるが、彼女はそれを破ってしまったのだ。神の設けたルールに違反した物には壮絶な運命が待ち受けているものだろう。具体的に何のエピソードがあったかは思い出せないが、そんな神話をどこかで聞いたような気がする。


彼女がそのルールを破ってしまったきっかけは。ああ、僕のせいだ。


顔から血の気が引いていく。自分でも顔が青ざめていくのがわかる。そんな僕を心配するようにアネモネは顔を近づけてきた。

「でも大丈夫じゃないかな。私が産まれた時には家の周りにアネモネの花が咲いたみたいだし、ルピナスの周りにはルピナスの花が咲いていたでしょ?だったら元々その名前を貰ってたんじゃないかな?」

「そうなのかな……うん。そうだといいね」


僕が目覚めたあのあの場所には、確かにルピナスの花が狂い咲いていた。結果オーライで何事もなければ良いのだが、不安感が拭えなかった。

胸に引っかかるのは……あの小さな赤い花だ。目立ちはしないけれど、あの花畑にはルピナス以外にもう一種の花が確実に咲いていた。もしもその花が僕を象徴づけるものであるとするならば。


いいや、やめておこう。各しょうがない。考えすぎだ。考えるだけでどんどん不安になってしまう。

そのせいか、その日の仕事は手がつかなかった。



その日の晩のことであった。

「アネモネ、あいつから手紙が来たようだ」

彼女の祖父がアネモネへ手紙を渡す。

「へぇ……あっ!お父さんからだ。なになに……なるほど」

「この子の父親は王都で医者をやっている。毎年休みが取れると、ここまで帰ってくるんじゃ。それに合わせて王都まで迎えにいき、ついでに村の産物を売りに行く。それをここ数年ずっとやっていたんじゃが……今年はまずいことが起きた」

立派な髭に手を当て、悩んだ様子で彼女の祖父は続ける。


「今年は森の獣がかなり気を荒くしておってな、いつもなら産物を運ぶために何人か男衆の力を借りてはおったが、今年は多数村を離れる訳にはいかんのだ。同行できて一、二人程度じゃろう。そこでだ。お主の力を借りたい」

「えっ!ルピナスも一緒に来てくれるの!」

彼女が目をきらきらと輝かせる。

「わかりました。ご一緒させてください」

彼女と一緒にいると楽しい。だからこその行動ではあるのだけど、誰かから必要とされていることが嬉しかった。人の役に立っている瞬間こそが、一番自分の存在理由を実感できて僕は好きなのだ。


☆☆☆


その日は誰よりも早く起きていた。

目覚まし時計などない世界で早く起きる能力が身についたわけではなく、単純にそわそわして眠れなかっただけなのだ。

まるで……遠足やクリスマスが楽しみで眠れなかったり、早く起きてしまう子供のようだ。けれど、なんでこんな気持ちになっているのだろう。得体の知れない気持ちを抱えながら、布団を畳んでローブを身につける。


時間にしてみれば朝方の4時ぐらいであったと思う。羊の方へ向かい一人で朝方の雑務を終わらせる。もう手馴れたものだ。


一時間ほど経つと、寝癖でボサボサの髪のアネモネがやってきた。

といっても今日は僕ひとりで二人分の仕事を終わらせてしまっていたので、そのまま共に彼女の家へと帰った。

朝食はパンと、昨晩の残りのシチューだった。朝食が終わる頃には彼女の眠気は覚めていったようで、普段の彼女の調子に変化していった。


そんな彼女と朝食の片付けをしている最中のことであった。

「ねぇ……」

皿を洗うアネモネが口を開いた。


「おじいちゃんには内緒にしてほしんだけどさ…!このあと私と村の外れにある神殿に行かない?」

彼女の祖父は食事を終えると、今さっき外に出ていったのであった。

「内緒ならもっと小さな声じゃないと」

無邪気そうな彼女の様子を見ていると、自然と笑みがこぼれてしまった。

「わかった。昼までには帰ろうね」

出発は昼頃だ。それまでに帰れば問題ないだろう。かくして、僕とアネモネは村の外れにある神殿へ向かうことになった。


僕はそそくさに支度を済ませた。アネモネも支度の大半が終わっていたみたいで、あれから15分もしないうちに家を出発してしまった。

そして、高台にある神殿へ向かうのであった。


アネモネは、この村にまつまる風習と神殿について話してくれた。

「普段は……あの神殿には入っちゃいけないんだよね。村では1年に4回お祭りがあるんだけど、その時だけは入っても許されるの」

「普段入っちゃいけない場所なのに、そんなところでお祭りをするの?」

「うーん。お祭りっていうか、儀式みたいなものなんだよね。ルビル村では、死んじゃった生物の魂はその場所に留まるって考えがあるんだよ。だからその魂たちを連れて、神聖な神殿に還しにいくの。そうすれば、死んじゃった人達はまた生まれ変われるんだって」

彼女の口から語られたのは、代々伝わるこの村の風習であった。

内容からして、ルビル村の死生観は輪廻転生の考え方によく似ているのであろう。だから地獄や天国の概念が存在していないのかもしれない。


「だけどね?ルピナス。それって年に4回しかやらないの。あなたがここにくるひと月前にそのお祭りが終わったばっかりだから、次は2、3ヶ月後になっちゃうんだよね。そうしたらさ、それまでの間あのの魂はひとりぼっちでさまよい続けることになっちゃうでしょ?それって可哀想じゃん?」

彼女は方から下げていたカバンから小さな鈴を取り出した。あの子羊が身につけていた物だ。彼女はそれをぎゅっと握りしめると、もの悲しげな、感傷的な表情を浮かべるのであった。


「アネモネは……優しいね」

「そうかなぁ……?私は当然のことだと思うし、本当は勝手に入っちゃいけないわけだからなぁ。お願い。皆には絶対内緒だからね?」

手のひらを顔の前で合わせて、お願いのポーズをするのだった。

「もちろん。そんなことなんてしないよ」


ああ、本当にいい子だなぁ。

僕は心の底からそんなことを思うのであった。



そんなことを話しているうちに、村を離れてから5分くらいは経過しようとしていた。

二手に分かれている道に出た。

初めてアネモネと出会った花畑に続く道とは別の道へ向かって足を進めていく。


その道を少し進むと、ふいにアネモネは口を開いた。

「勝手に神殿に行くのは初めてじゃないんだよね。一番最初は私がまだ小さい頃。6歳くらいだったと思う。その神殿に行ったことがあったの。ルピナスと初めて出会った花畑もそうなんだけど。行くな!って言われてる所ほど行きたくなっちゃうんだよね。やっぱりさぁー、自分の目で見てみたいっていうか」

「あー、そういうのあるよね……」


「でもやっぱり、入るなって言われてるところに入ると良くないこともあるんだよね。うん……まぁ、いいや。その話は後でね。神殿に行ったのは今でも後悔してるけど。少なくとも、私はあの花畑に行ったことは後悔してないよ。」

彼女の真っ赤な瞳に見つめられる。

胸の高鳴りが止まらない。まるで、身体全体の感覚が心臓に集まっているかのような感覚だ。


「だって……あなたに出会えたんだから。私さ、こんな所に暮らしてるもんだから同い年くらいの子に出会ったことなんて一度もなかったんだよね。王都に行った時に何度も何度も友達と遊んでる子を見て、どれだけ羨ましい、って思ったか!」

ああ、ダメだ。顔が赤くなってしまう。

なにか言葉をかけなければ。けれど、気の利いた事は何も思いつかなかった。


落ち葉で覆われた道に、少しばかり朽ちた石畳が顔を覗かせてきた。前を向くと、ギリシアの神殿のような……かなり年季の入った神殿がたたずんでいた。


「ほら、もうそろそろ着くよ。………って!そんなに赤くならないでよ。困ったなぁ……私だって結構恥ずかしいんだよ……?」

目を逸らし、彼女は恥ずかしそうにうつむいた。しかし、赤い髪から覗かせる小さな耳も赤く染まっていた。



神殿の周りには、やけに棘が鋭い赤い薔薇がびっしりと咲いていた。

それをかきわけて進むのだから、指や太ももがちくりと痛む。ただ、周囲をぐるりと囲んでいるだけであって、内側には赤い薔薇は咲いていなかった。


「私さ、黙ってたことがあるんだよね」

アネモネは左目に巻いているタオルに手を向け、慣れたような手つきでするりとほどいた。

出会ったあの時から、ずっと隠していた左目。最初こそは奇妙にも思ったが、今となっては何とも思わなくなっていた。

彼女はゆっくりと目蓋を開き、隠されていたがあらわになる。


左目の瞳には……円状のピンク色に光る紋章のようなものが刻み込まれていたのだ。

「それは……」

刻まれた無機質なそれに動揺したのか、僕は息を飲んでしまった。


「子供の頃、前にこの神殿に一人で来たことがあったって話したでしょ?あんまり覚えてないんだけど、その時左目を怪我して気を失っちゃって……その後こうなってたの」

アネモネの左目の紋章が光を帯び、怪しくゆらめく。それはまるで風に揺られる炎の動きを彷彿とさせた。


「だから……隠してたんだよね。他の人に見られたらなんて言われるかわからないから。ある意味、私もあなたと同じだと思うんだ。初めてできた友達も、私と同じような秘密を持ってるって知ったあの時。実は嬉しかったんだよね。ねぇ、そのローブ、取ってもらえる」


「……うん」

胸のところにあるボタンを外し、僕の姿を隠し続けていたそれを外す。ローブを軽く畳んで、床に置こうとしたその時。やけに暖かい風が吹いた。

周囲の木の葉や、赤い花びらが風に舞いあげられる。彼女の長い髪もゆらめいていく。


「きれいだね……」

本当に。こんな言葉しか思いつかなかった。

けれど、それは心の底から出た本心だ。


「きれいなのは、やっぱりルピナスの方だよ。最初に出会った時もそうだったけど、やっぱり女の子みたいな顔してるよね」

「ええっ!やめてよ……言われるならかっこいいって言われたかったかも」

「あはははっ。だって、本当なんだもん」


アネモネは外周の薔薇に向かって二、三歩歩いた。くるっとこちらの方に身体の向きを変える。

「ねえ……」

アネモネはそのまま続ける。

「あなたがこの後どこにいくのか、それは私にはわからないし、どんな事を選んでもあなたの自由だと思う。けれど毎年一回だけは……私と一緒にこの薔薇みたいな、きれいな花を見に行きませんか?」

ニコッとほほえみ、僕の方へ左手を伸ばす。

太陽の光にあてられて、いや……あてられていなくてもきらきら輝く彼女の笑顔は、どんな花よりきれいだった。


それまで言葉に出来なかった気持ちが。やっとこの気持ちが何なのかわかったしまった。

ああ僕は、僕は……この子に恋をしてしまったんだ。生まれて初めて抱いた恋心だった。


本当に素敵な提案だと思う。一年に一回、アネモネときれいな花を見に出かけるのだ。やはり命が薫る春に行くべきか、いや……寒色の花が顔をだす夏も捨てがたい。少し趣向を変えて秋の色付く木の葉も一緒に見るのも素敵だと思うし、冬に咲く花だってこの世には存在しているのだ。

そんな素敵な光景が、少しばかり思い起こされた。そして、願うならば……たった一日ではなくて、何日も。


答えはもちろん……言うまでもない。

彼女の手を取るために、手を伸ばす。


しかし、僕は伸ばした手を止めてしまった。

何か良くないことが起ころうとしている。本能がそう告げるような不快感を感じてしまったからなのだ。

いきなり手を下げてしまった僕を見て、アネモネの表情が疑問と怪訝に曇りゆく。

その時だった……


アネモネの右半身から、なぜか赤い光が漏れていたのだ。彼女の身体の所々には太い血管のようなものが盛り上がり、それがうねうねとうごめいている。それは赤く光り輝いていた。

アネモネの表情が更に曇る。皮膚の下に広がる不快感をはっきりと知覚してしまったのだ。


「えっ……なにこ、れ」

彼女はか弱い声でつぶやいた。右半身が更に光り輝き、膨張に耐えきれなくなった左頬がぱっくりと裂けてしまった。そこから強い光が顔を覗かせる。僕の視界を赤い光が埋め尽くす。あまりの光量に、彼女の姿を塗りつぶされてしまった。


ばん!!


破裂するような音が花畑に響き渡った。

そして、すぐさま「ぱしゃっ」というような水音が鳴った。何やら生ぬるい何かがこちらに向かって飛んできたような気もする。


「アネモネ……?」

目に付いた何かを袖で拭い、おそるおそる目蓋を開いた。

彼女の姿は消え去っていた。


いや違う。消え去ったかのように見えてしまったのだ。


狂い咲く赤薔薇はさらに赤黒く染められ、彼女がいた位置の周囲にはこれもまた赤黒い色をしたゼリーのようなものが散乱していた。


足を震えさせながら、僕は一歩足を踏み入れる。そしてもう一歩。

辺り一面に散らばる何かを、よりはっきりと視界に入れることができた。そして、それが何なのかわかってしまった。


それは肉片やら臓物やら、生物の残骸なのであった。

息が詰まってしまった。現実が受け入れられない。僕の呼吸は次第にペースを早め、肺が苦しくなっていく。

膝から力が抜けてしまった。僕はがっくりと膝をついてしまう。

無意識に右手を薔薇と薔薇の隙間に滑り込ませてしまった。表皮でイバラの棘が突っかかり、突っ張ったような感触がする。


こつん。何か硬いものが僕の指先に触れてしまった。震えてはいるが、自由な左手を薔薇の中をかき分ける。


そこでやっと、と目が合ったのだ。


「あああぁあぁああっ!!!!」

自分でも信じられないような声が出た。

絶叫。これ以上の表現が見つからないほどの、喉が避けるような叫びだった。顔から血の気が引いていく。


アネモネの首は……右半分が無惨にも吹き飛んでしまっていた。

涙を流しているその瞳からは生命の灯火が消え、流れた涙や滴る血潮ばかりがきらきらと輝いている。なのに、あの左目の紋章だけはじっとりと怪しい光を放っていた。


理解が追いつかなかった。悲しみ、恐怖、様々な感情で脳みそがぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。思考に揺さぶられている頭が痛い。

涙を出しすぎたせいで、下のまぶたが焼けるように痛い。歯の音がガチガチと噛み合わない。

再び花畑に風が吹き、赤薔薇の花びらが舞い上がる。バラバラになってしまった彼女の残骸が更にあらわになる。


風が止んだ。

瞬間、この世のものとは思えない寒気を目の前から感じ取った。混乱している頭でも鮮明に分かりきるような悪寒だ。

目を上げるとそこには、右腕を突き出したイバラまみれの骸骨が浮いていた。


「あ……あっ………」

瞳など当然なく、肉の残りカスがこびり付いたしゃれこうべと目線が合う。瞳など無いのに、ぽっかりと空いた穴と目線が一致したのだ。

骸骨は血まみれの右腕をゆっくりと下ろすと、ルビル村の方にへとゆっくりと浮遊して行った。


もう何の体液なのかも分からないくらいに、めちゃくちゃに彼女の飛沫を浴びた服がじっとりと重い。身体中が湿っているので、風が吹くと寒気がする。

さらに赤く染まった花畑には、空を割くような風が吹き込んでいた。

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