第5話夕刻
「お姉ちゃん、買ってきた」
「ちゃーちゃん、こんばんは」
妹と、彼女の孫娘、短大生の
ちゃーちゃんとは、妹の孫たちが私を呼ぶ名だ。何て呼べばいいか聞かれて、そう呼んで欲しいと願った。
ちゃーちゃんは、かつて従兄弟たちが、伯母である私の母を呼ぶ名前だった。幼かった彼らが「
結局、私は生涯、自分の子を持つことができなかった。一度も母と呼ばれたことがない。
だから、誰かから、母と呼ばれてみたい。
そんな気持ちが心の奥にあって、聞かれた時に思い浮かんだこの名で呼んで欲しいと願ったのかもしれない。
だいぶ日が伸びてきたとはいえ、あたりは日が落ちかけていた。
カアカアうるさいくらいに、カラスが鳴いていて、行き交う車の数も増えてきた。
「優ちゃんが運転してきたの」
「うん、夏休みに免許取れたんだ」
「それはおめでとう。車買ってもらわなくちゃね」
「んふふ」
優ちゃんは意味ありげに笑って、妹を見た。
「どうしたの」
「お婆ちゃんに買ってもらうの」
「そうなの、良かったね」
「お金出すのは爺ちゃんだけどね」
お婆ちゃんこと妹が、苦笑した。
「お姉ちゃん、これね。リンゴとヨーグルト」
妹は、リンゴが十個ほど入った袋と、プレーンヨーグルトを、廊下に置いた。
「ありがとう」
「リンゴ多いかもだけど、安かったから一袋買ってきたよ」
「いいよ。残ったら甘煮にする」
「良かった」
「家に上がらない?」
「うん、もう暗くなるから、このまま帰る」
「そうか、それじゃ、これ、くるみパン」
焼き上がったくるみパン十二個を、袋に入れて渡した。
「こんなにもらっていいの」
「いいよ、また焼けばいいし」
「ありがとう。ちゃーちゃん」
優ちゃんが袋を受け取って、嬉しそうに中をのぞき込んだ。
「そうだ、お金。いくらだった」
代金を払うのを忘れるところだったと思い出して、慌てて聞いた。
「いいよ、パンと交換で」
「そう、それじゃ、そのうちまた焼くね」
二人が帰っていくのを見送りながら、ふうと息を吐いた。
賑やかな妹と優ちゃんの声が無くなって、急に家の中が寒々しく感じられた。
冷えが足もとから上がってきて、背中がゾクゾクした。私は手を交差させ、自分の腕をゴシゴシ撫でてみる。
体を縮めてじっとしていると、少しだけ気持ちが落ち着くような気がした。
ガタガタとひっかかる雨戸を、だましだまし閉めて、サッシの鍵もかけた。節約のため廊下の電気は、常夜灯一つだけにして、茶の間と台所の灯りを点けた。
テレビのスイッチを入れると、夕方のニュースを放送していた。落ちついたアナウンサーの声が、人恋しさを慰めてくれる。
夫が亡くなり、ひとりになってから、夕刻時には心が沈む。夜が更けてしまえば平気になるのだが、なぜか毎日、この時間だけは寂しくなった。
仏壇に線香を手向け、手を合わせた。線香の煙は苦手なのだ。少しむせながら夫の遺影を眺めた。
今日も一日、生き伸びられたみたいよ。
何も言わない夫に肩をすくめてみて、台所へ向かった。
おかずは簡単に、野菜炒めでも作ろうかと思い立って、冷蔵庫にあったキャベツの葉を三枚と、使いかけの人参を刻んだ。
お肉は解凍しなくてはすぐには使えなかったので、冷凍舞茸と、半分だけ残っていた油揚を加えることにした。
舞茸は冷凍したまま、油揚は熱湯をかけて、油抜きをして刻んだ。 IHコンロに、対応のフライパンをのせた。
中華粥を電子レンジで温めている間に、野菜炒めを作った。
温めたフライパンに油揚を入れて炒り、水分を飛ばしてカリカリにした。それを皿に寄せておいてから、ゴマ油を大さじ半分入れ、人参と凍った舞茸を入れて炒め、さらにキャベツも入れて炒めた。
味付けは鰹だしの素ひとつまみと、醤油一回し。 野菜の上にカリカリの油揚をトッピングした。醤油の焦げた香りが空腹を思い出させた。
中華粥が温まる頃、IHコンロのスイッチを切り、野菜炒めが完成した。皿には盛らず、フライパンからそのまま食べる。
夫が健在だった頃も、ふたり暮らしの気楽さ。洗い物の手間を省くと言って、フライパンから直接食べていた。
その頃の手抜きが身について、今でも当時の習いを続けている。
体に熱源が入ったので、冷えていた体温が戻ってきた。スースーしていた首周りがほんのり
洗い物をすませてから、妹に買ってきてもらったリンゴを半分。くし形に切って皿に盛り、お茶と共に茶の間のテーブルに運んだ。
茶の間のテレビは見る人もいないのに、ついたままだった。名前も知らないお笑いタレントが何か騒いでいたが、私には賑やかすぎたのでスイッチを切った。
部屋の中に静寂が訪れる。人の声がしなくなると、家のきしむ音や、何か物が擦れる音など、微かな音が際立ってくる。
私が体を動かせば、また新たな音が重なる。ひとりの部屋も意外に騒々しいものだ。
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