二
「この湯はなんに
「なんに利くかなあ。分析表を見ると、なんにでも利くようだ。──君そんなに、
「純透明だね」と出臍の先生は、両手に
「味もなにもない」と言いながら、流しへ吐き出した。
「飲んでもいいんだよ」と
圭さんは臍を洗うのをやめて、湯槽の縁へ
「どうも、いい
「豆腐屋出身だからなあ。体格が悪るいと華族や金持ちと
「さも喧嘩の相手があるような
「誰でも構わないさ」
「ハハハ吞気なもんだ。喧嘩にも強そうだが、足の強いのには驚いたよ。君といっしょでなければ、きのうここまでくる勇気はなかったよ。実は途中で御免
「実際少し気の毒だったね。あれでも僕はよほど加減して、
「ほんとうかい? はたしてほんとうならえらいものだ。──なんだか怪しいな。すぐ付け上がるからいやだ」
「ハハハ付け上がるものか。付け上がるのは華族と金持ばかりだ」
「また華族と金持ちか。目の
「金はなくっても、こっちは天下の豆腐屋だ」
「そうだ、いやしくも天下の豆腐屋だ。野生の腕力家だ」
「君、あの窓の外に咲いている黄色い花はなんだろう」
碌さんは湯の中で首を
「かぼちゃさ」
「馬鹿あいってる。かぼちゃは地の上を
「屋根へ上がっちゃ、かぼちゃになれないかな」
「だって
「構うものかね、可笑しいたって、屋根にかぼちゃの花が咲くさ」
「そりゃ
「そうさな、前半は唄のつもりでもなかったんだが、後半にいたって、つい唄になってしまったようだ」
「屋根にかぼちゃが
「また
「噴火口は実際猛烈なものだろうな。なんでも、
「うん、起きることは起きるが山へかかってから、あんなに早く歩行いちゃ、御免だ」と碌さんはすぐ予防線を張った。
「ともかくも六時に起きて……」
「六時に起きる?」
「六時に起きて、七時半に湯から出て、八時に飯を食って、八時半に便所から出て、そうして宿を出て、十一時に阿蘇神社へ
「へえ、誰が」
「僕と君がさ」
「なんだか君
「なに、かまわない」
「
「うふん。時に昼はなにを食うかな。やっぱり
「饂飩はよすよ。ここいらの饂飩はまるで
「では
「蕎麦も御免だ。僕は
「じゃなにを食うつもりだい」
「なんでも
「阿蘇の山の中に御馳走があるはずがないよ。だからこの際、ともかくも饂飩で間に合せておいて……」
「この際は少し変だぜ。この際た、どんな際なんだい」
「剛健な趣味を養成するための旅行だから……」
「そんな旅行なのかい。ちっとも知らなかったぜ。剛健はいいが饂飩はひらに不賛成だ。こう見えても僕は身分が好いんだからね」
「だから柔弱でいけない。僕なぞは学資に窮した時、一日に白米二合で間に合せたことがある」
「
「そんなに瘦せもしなかったがただ
「僕はないよ。身分が違わあ」
「まあ経験してみたまえ。そりゃ容易に
「
「煮え湯? 煮え湯ならいいかもしれない。しかし洗濯するにしてもただではできないからな」
「なあるほど、銭が一文もないんだね」
「一文もないのさ」
「君どうした」
「仕方がないから、
「おやおや」
「しかもそれを宿のかみさんが見付けて、僕に退去を命じた」
「さぞ困ったろうね」
「なあに困らんさ、そんなことで困っちゃ、今日まで生きていられるものか。これからおいおい華族や金持ちを豆腐屋にするんだからな。めったに困っちゃ仕方がない」
「すると僕なんぞも、いまに、とおふい、
「華族でもないくせに」
「まだ華族にはならないが、金はだいぶあるよ」
「あってもそのくらいじゃ駄目だ」
「このくらいじゃ豆腐いという資格はないのかな。大いに僕の財産を
「時に君、背中を流してくれないか」
「僕のも流すのかい」
「流してもいいさ。隣りの部屋の男も流しくらをやってたぜ、君」
「隣りの男の背中は似たり寄ったりだから公平だが、君の背中と、僕の背中とはだいぶ面積が違うから損だ」
「そんな面倒なことをいうなら一人で洗うばかりだ」と圭さんは、両足を
手拭の運動につれて、圭さんの太い
「まるで仁王のようだね。仁王の行水だ。そんな猛烈な顔がよくできるね。こりゃ不思議だ。そう目をぐりぐりさせなくっても、背中は洗えそうなものだがね」
圭さんはなんにも言わずに一生懸命にぐいぐい
「こいつは降参だ。ちょっと失敬して、流しの方へ出るよ」と碌さんは湯槽を飛びだした。飛び出しはしたものの、感心の極、流しへ突っ立ったまま、
「あの隣りの客は元来何者だろう」と圭さんが
「隣りの客どころじゃない。その顔は不思議だよ」
「もう済んだ。ああ好い
「ああいい
「なるほどそう遠慮なしに
「あの隣りの客は
「君が華族と金持ちのことを気にするようなものだろう」
「僕のは深い原因があるのだが、あの客のはなんだか訳が分らない」
「なに自分じゃあ、あれで分ってるんだよ。──そこでその小手を取られたんだあね──」と碌さんが隣りの
「ハハハハそこでそら竹刀を落したんだあねか。ハハハハ。どうも気楽なものだ」と圭さんも真似してみる。
「なにあれでも、実は慷慨家かもしれない。そらよく
「海賊らしくもないぜ。さっき
「木枕をして寐られるくらいの頭だから、そら、そこで、その、小手を取られるんだあね」と碌さんは、まだ真似をする。
「竹刀も取られるんだあねか。ハハハハ。なんでも赤い表紙の本を胸の上へ載せたまんま寐ていたよ」
「その赤い本が、なんでもその、竹刀を落したり、小手を取られるんだあね」と碌さんは、どこまでも真似をする。
「なんだろう、あの本は」
「
「伊賀の水月? 伊賀の水月たなんだい」
「伊賀の水月を知らないのかい」
「知らない。知らなければ恥かな」と圭さんはちょっと首を
「恥じゃないが話せないよ」
「話せない? なぜ」
「なぜって、君、
「うん、又右衛門か」
「知ってるのかい」と碌さんはまた湯の中へはいる。圭さんはまた槽のなかへ突立った。
「もう仁王の行水は御免だよ」
「もう大丈夫、背中はあらわない。あまりはいってると
「ただ立つばかりなら、安心だ。──それで、その、荒木又右衛門を知ってるかい」
「又右衛門? そうさ、どこかで聞いたようだね。
「ハハハハこいつはあきれた。華族や金持ちを豆腐屋にするんだなんて、えらいことを言うが、どうもなんにも知らないね」
「じゃ待った。少し考えるから。又右衛門だね。又右衛門、荒木又右衛門だね。待ちたまえよ、荒木の又右衛門と。うん分った」
「なんだい」
「
「ハハハハ荒木、ハハハハ荒木、又ハハハハ又右衛門が、相撲取り。いよいよ、あきれてしまった。実に無識だね。ハハハハ」と碌さんは大恐悦である。
「そんなに
「可笑しいって、誰に聞かしたって笑うぜ」
「そんなに有名な男か」
「そうさ、荒木又右衛門じゃないか」
「だから僕もどこかで聞いたように思うのさ」
「そら、落ち行くさきは
「いうかもしれんが、その句は聞いたことがないようだ」
「困った男だな」
「ちっとも困りゃしない。荒木又右衛門ぐらい知らなくったって、
「腕力や脚力を持ち出されちゃ駄目だね。とうてい
「君は第一平生から惰弱でいけない。ちっとも意志がない」
「これでよっぽどあるつもりなんだがな。ただ饂飩に
「ハハハハ
「しかし豆腐屋にしちゃ、君のからだは奇麗すぎるね」
「こんなに黒くってもかい」
「黒い白いは別として、豆腐屋はたいがい
「なぜ」
「なぜか知らないが、箚青があるもんだよ。君、なぜほらなかった」
「馬鹿あ言ってらあ。僕のような
「荒木又右衛門か。そいつは困ったな。まだそこまでは調べが届いていないからね」
「そりゃどうでもいいが、ともかくもあしたは六時に起きるんだよ」
「そうして、ともかく饂飩を食うんだろう。僕の意志の薄弱なのにも困るかもしれないが、君の意志の強固なのにも
「なにこのくらい強硬にしないと増長していけない」
「僕がかい」
「なあに世の中の
「しかしそりゃ
「なあにかまわんさ」
「君はかまわなくってもこっちは大いにかまうんだよ。そのうえ旅費は奇麗に折半されるんだから愚の極だ」
「しかし僕のお
「可愛想に。一人だって阿蘇ぐらい登れるよ」
「しかし華族や金持なんて存外
「また身代りか、どうだい身代りはやめにして、ほんとうの華族や金持ちの方へ持っていったら」
「いずれ、そのうち持ってくつもりだがね。──意気地がなくって、理屈がわからなくって、個人としちゃあ三文の価値もないもんだ」
「だから、どしどし豆腐屋にしてしまうさ」
「そのうち、してやろうと思ってるのさ」
「思ってるだけじゃ
「なあに年が
「ずいぶん気が長いね。もっとも僕の知ったものにね。
「時にあの髯を抜いてた爺さんが手拭をさげてやって来たぜ」
「ちょうど好いから君ひとつ聞いてみたまえ」
「僕はもう湯気に上がりそうだから、出るよ」
「まあ、いいさ、出ないでも。君がいやなら僕が聞いてみるから、もう少しはいっていたまえ」
「おや、あとから竹刀と小手がいっしょに来たぜ」
「どれ、なるほど、揃って来た。あとから、まだ来るぜ。やあ
「僕はともかくも出るよ」
「婆さんがはいるなら、僕もともかくも出よう」
風呂場を出ると、ひやりと吹く秋風が、
「あすこへ登るんだね」と碌さんが言う。
「鳴ってるぜ。愉快だな」と圭さんが言う。
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