二百十日
夏目漱石/カクヨム近代文学館
一
ぶらりと両手を
「どこへ行ったね」
「ちょっと、町を
「なにか
「寺が一軒あった」
「それから」
「
「それから」
「銀杏の樹から本堂まで、一丁半ばかり、石が敷き詰めてあった。非常に細長い寺だった」
「はいってみたかい」
「やめて来た」
「そのほかになにもないかね」
「べつだんなにもない。いったい、寺というものはたいがいの村にはあるね、君」
「そうさ、人間の死ぬところには必ずあるはずじゃないか」
「なるほどそうだね」と圭さん、首を
「それから
「どうも寺だけにしては、ちと、時間が長すぎると思った。馬の沓がそんなに珍らしいかい」
「珍らしくなくっても、見たのさ。君、あれに使う道具がいくとおりあると思う」
「いくとおりあるかな」
「あててみたまえ」
「あてなくっても
「なんでも七つばかりある」
「そんなにあるかい。なんとなんだい」
「なんとなんだって、たしかにあるんだよ。第一
「それからなにがあるかい」
「それから変なものが、まだいろいろあるんだよ。第一馬の
「爪だもの。人間だって、平気で爪を
「人間はそうだが馬だぜ、君」
「馬だって、人間だって爪に変りはないやね。君はよっぽど
「吞気だから見ていたのさ。しかし薄暗い所で赤い鉄を打つと奇麗だね。ぴちぴち火花が出る」
「出るさ、東京の真中でも出る」
「東京の真中でも出ることは出るが、感じが違うよ。こういう山の中の鍛冶屋は第一、音から違う。そら、ここまで聞えるぜ」
「聞えるだろう」と圭さんが言う。
「うん」と
「そこで、その、相手が
「ふうん。とうとう小手を取られたのかい」
「とうとう小手を取られたんだあね。ちょいと小手を取ったんだが、そこがそら、竹刀を落したものだから、どうにも、こうにもしようがないやあね」
「ふうん。竹刀を落したのかい」
「竹刀は、そら、さっき、落してしまったあね」
「竹刀を落してしまって、小手を取られたら困るだろう」
「困らああね。竹刀も小手も取られたんだから」
二人の話はどこまでいっても竹刀と小手で持ち切っている。黙然として、対座していた圭さんと碌さんは顔を見合わして、にやりと笑った。
かあんかあんと鉄を打つ音が静かな村へ響き渡る。
「まだ馬の沓を打ってる。なんだか寒いね、君」と圭さんは白い
「僕の小供の時住んでた町の真中に、一軒
「豆腐屋があって?」
「豆腐屋があって、その豆腐屋の
「寒磬寺というお寺がある?」
「ある。今でもあるだろう。門前から見るとただ
「誰だか鉦を敲くって、坊主が敲くんだろう」
「坊主だかなんだか分らない。ただ竹の中でかんかんとかすかに敲くのさ。冬の朝なんぞ、霜が強く降って、
「海老のようになるって?」
「うん。海老のようになって、口のうちで、かんかん、かんかんと言うのさ」
「妙だね」
「すると、門前の豆腐屋がきっと起きて、雨戸を明ける。ぎっぎっと豆を
「君の
「僕のうちは、つまり、そんな音が聞える所にあるのさ」
「だから、どこにあるわけだね」
「すぐ
「豆腐屋の
「なに二階さ」
「どこの」
「豆腐屋の二階さ」
「へええ。そいつは……」と碌さん驚ろいた。
「僕は豆腐屋の子だよ」
「へええ。豆腐屋かい」と碌さんは再び驚ろいた。
「それから
「門前の豆腐屋というが、それが君のうちじゃないか」
「僕のうち、すなわち門前の豆腐屋が腰障子をはめる。かんかんという声を聞きながら僕は二階へ上がって布団を敷いて
隣り座敷の小手と竹刀は双方とも大人しくなって、向うの
「あれは
「一生懸命にやったら半日ぐらいで済むだろう」
「そうはいくまい」と碌さんが反対する。
「そうかな。じゃ
「一日や
「そうさ、ことによると一週間もかかるかね。見たまえ、あの
「あれじゃ。古いのを抜いちまわないうちに、新しいのが生えるかもしれないね」
「とにかく痛いことだろう」と圭さんは話頭を転じた。
「痛いに違いないね。忠告してやろうか」
「なんて」
「よせってさ」
「よけいなことだ。それより何日掛ったら、みんな抜けるか聞いてみようじゃないか」
「うん、よかろう。君が聞くんだよ」
「僕はいやだ、君が聞くのさ」
「聞いても好いが詰まらないじゃないか」
「だから、まあ、よそうよ」と圭さんは自己の申し出しを
一度途切れた村鍛冶の音は、今日山里に立つ秋を、
「あの音を聞くと、どうしても豆腐屋の昔が思い出される」と圭さんが
「ぜんたい豆腐屋の子がどうして、そんなになったもんだね」
「豆腐屋の子がどんなになったのさ」
「だって豆腐屋らしくないじゃないか」
「豆腐屋だって、
「そうさな、つまり頭だからね」
「頭ばかりじゃない。世の中には頭のいい豆腐屋が何人いるか分らない。それでも
「それじゃなんだい」と碌さんが小供らしく質問する。
「なんだって君、やっぱりなろうと思うのさ」
「なろうと思ったって、世の中がしてくれないのがだいぶあるだろう」
「だから気の毒だというのさ。不公平な世の中に生れれば仕方がないから、世の中がしてくれなくてもなんでも、自分でなろうと思うのさ」
「思って、なれなければ?」
「なれなくってもなんでも思うんだ。思ってるうちに、世の中が、してくれるようになるんだ」と圭さんは
「そう注文どおりにいけば結構だ。ハハハハ」
「だって僕は今日までそうしてきたんだもの」
「だから君は豆腐屋らしくないというのだよ」
「これからさき、また豆腐屋らしくなってしまうかもしれないかな。
「なったら、どうするつもりだい」
「なれば世の中がわるいのさ。不公平な世の中を公平にしてやろうというのに、世の中がいうことをきかなければ、
「しかし世の中もなんだね、君、豆腐屋がえらくなるようなら、しぜんえらい者が豆腐屋になるわけだね」
「えらい者た、どんなものだい」
「えらい者っていうのは、なにさ。たとえば華族とか金持とかいうものさ」と碌さんはすぐさまえらい者を説明してしまう。
「うん華族や金持か、ありゃ今でも豆腐屋じゃないか、君」
「その豆腐屋連が馬車へ乗ったり、別荘を建てたりして、自分だけの世の中のような顔をしているから駄目だよ」
「だから、そんなのは、ほんとうの豆腐屋にしてしまうのさ」
「こっちがする気でも
「ならないのをさせるから、世の中が公平になるんだよ」
「公平にできれば結構だ。大いにやりたまえ」
「やりたまえじゃいけない。君もやらなくっちゃあ。──ただ、馬車へ乗ったり、別荘を建てたりするだけならいいが、むやみに人を
「君はそんな目に
圭さんは腕組をしたままふふんと言った。村鍛冶の音はあいかわらずかあんかあんと鳴る。
「まだ、かんかん
「君の腕は昔から太いよ。そうして、いやに黒いね。豆を
「豆も磨いた。水も
「踏んだほうが謝まるのが通則のようだな」
「突然、人の頭を張り付けたら?」
「そりゃ
「
「そうさな。謝まらさすことができれば、謝まらさすほうがいいだろう」
「それを気違のほうで謝まれっていうのは驚ろくじゃないか」
「そんな気違があるのかい」
「今の豆腐屋連はみんな、そういう気違ばかりだよ。人を圧迫したうえに、人に頭を下げさせようとするんだぜ。本来なら向が恐れ入るのが人間だろうじゃないか、君」
「むろんそれが人間さ。しかし気違の豆腐屋なら、うっちゃっておくよりほかに仕方があるまい」
圭さんは再びふふんと言った。しばらくして、
「そんな気違を増長させるくらいなら、世の中に生まれてこないほうがいい」と
村鍛冶の音は、会話が切れるたびに静かな里の端から端までかあんかあんと響く。
「しきりにかんかんやるな。どうも、あの音は寒磬寺の鉦に似ている」
「妙に気に掛るんだね。その寒磬寺の鉦の音と、気違の豆腐屋とでもなにか関係があるのかい。──ぜんたい君が豆腐屋の
「聞かせてもいいが、なんだか寒いじゃないか。ちょいと
「うんはいろう」
圭さんと碌さんは
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