紀元節

 南向きのであった。明るいほうを背中にした三十人ばかりの小供が黒い頭をそろえて、塗りばんながめていると、廊下から先生がはいって来た。先生は背の低い、目の大きい、せた男で、あごからほおへかけて、ひげじじむさえかかっていた。そうしてそのざらざらした顎のさわる着物のえりが薄黒くあか付いて見えた。この着物と、この髯のしように延びるのと、それから、かつて小言を言ったことがないのとで、先生はみなから鹿にされていた。

 先生はやがて、白墨を取って、黒板に記元節と大きく書いた。小供はみんな黒い頭を机の上に押し付けるようにして作文を書きだした。先生は低い背を伸ばして、一同を見回していたが、やがて廊下伝いに部屋を出ていった。

 すると、後ろから三番目の机の中ほどにいた小供が、席を立って先生の洋卓テーブルそばへ来て、先生の使った白墨を取って、塗り板に書いてある記元節の記の字へ棒を引いて、そのわきへ新しく紀と肉太に書いた。ほかの小供は笑いもせずに驚いて見ていた。さきの小供が席へ帰ってしばらくたつと、先生も部屋へ帰ってきた。そうして塗り板に気が付いた。

だれか記を紀と直したようだが、記と書いてもいんですよ」と言ってまた一同を見回した。一同は黙っていた。

 記を紀と直したものは自分である。明治四十二年の今日でも、それを思い出すと下等な心持ちがしてならない。そうして、あれが爺むさい福田先生でなくって、みんなのこわがっていた校長先生であればよかったと思わないことはない。

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