第8話 遠ざかる距離

 ヘティリガ皇城から無事に帰還したヴィオレッタは、ルクアーデ子爵邸に足を踏み入れる。

 こうして見ると、随分とすたれている邸宅だ。比較的近くにある村で、密かに幽霊屋敷ゆうれいやしきと呼ばれていることは、兄のヴィロードには内緒にしておこう。ヴィオレッタはそう思いながら、邸宅の扉を開け放った。


「あ?」

「………………」


 ヴィオレッタは一度開けた扉を閉めてしまった。何かよからぬものが視界を占領せんりょうした気がするが、ヴィオレッタの見間違いであろうか。皇帝とふたりきりで会ったことに大きな疲れを感じているのだろう。きっと、今のはまぼろしだ。

 ヴィオレッタは無理やり結論づけて、先程と同じ力の強さで扉を開け放つ。ただでさえ老朽化ろうきゅうかしている扉が、バンッと今にも壊れそうな勢いで音を立てた。


「……なんであなたがここにいるのよ」


 残念。見間違いではなかったようだ。ヴィオレッタは、驚愕の表情を浮かべながら、僅かに軽蔑けいべつの色を混じえた瞳で眼前がんぜんの人物を睨みつけた。

 扉の向こうに佇んでいたのは、なんとルカであった。その隣には、ヴィロードもいる。ヴィオレッタは、自分の縄張りをおかされた気分となり、ルクアーデ公爵が死刑に処された時以来となる圧倒的な不快感を感じた。


「別に……なんでもいいだろ」


 聞こえなくはないが、小さな声だ。毛穴のけの字も見えない白い頬に赤みがさす。目が合うだけで簡単に人を気絶させてしまうような、切れ長の瞳。希少価値きしょうかちが高い宝石よりも、神話の世界の美しい秘境ひきょうよりも、ずっとずっと綺麗なターコイズブルーが、生き生きとするように煌めいていた。明らかに照れている顔に、ヴィオレッタの眉間に寄せられた皺がさらに深くなる。怒気を示す顔か、無を映した顔しか見たことがなかったため、レアな照れ顔だと不覚にもキュンとしてしまった自分を気持ち悪く思ったのだ。しかし、さすがのヴィオレッタも、なぜルカが照れているのかはよく分からなかった。

 ルカはしっかりと顔を背けているものの、感じ取ることもできない小さな視線をヴィオレッタに送っていた。青と赤の対比の美を体現している彼女に見惚れてしまっているのだ。だが、知っての通りルカは、素直ではない。「綺麗だ。さすがは俺の婚約者だ」と彼女を褒めることもできないのだ。

 照れるルカと不機嫌なヴィオレッタ。そしてその空気に呑まれそうになっている可哀想なヴィロード。ヴィロードはなんとかして、この重たい空気を入れ替えようと、乾いた口を開いた。


「おかえり、ヴィオレッタ」

「えぇ」

「皇帝陛下とお話はできたか?」

「できたわ」


 ヴィロードはよかった、と安堵あんどの息を吐く。

 皇帝は、父の仇である先代皇帝を殺してくれたとは言え、公共の、それも凱旋パーティーという祝福の場を血で塗りたくった男でもある。そんな男に、大事な妹が呼び出されたともなれば、ヴィロードも気が気ではなかった。ヴィオレッタが無事に邸宅に帰って来たということが、何もなかったという証拠なのだが、ヴィロードは美しい妹が心配で仕方がないのだ。

 一体なんの用事だったのか、と続けて問いかけようとしたその時、体全体に重圧がのしかかる。息をすることさえも苦しく、考えることさえもままならない。ヴィロードは以前にもこの重圧を感じたことがあった。


「おい、どういうことだ」


 重圧の正体とは、ルカの殺気である。ヘティリガ帝国の繁栄と守護の心臓として名を馳せて来た《四騎士》。その高貴なる《四騎士》歴代の中でも、騎士王ルカは僅か18歳にして頂きに君臨するほどの力を誇るのだ。戦場で相見あいまみえれば、あまりの殺気と圧倒的な力に屈し、腰を抜かしてしまう。そして、たちまち命を奪い去られる。そんな男の殺気など、一介いっかいの貴族にしか過ぎないヴィロードとヴィオレッタが体感していいものではないのだ。

 ヴィロードと同様、ヴィオレッタも、震えこそしないものの、額に小粒の汗をかいている。


「答えろ、クソ女。皇帝に会ったのか?」

「……それが、何?あなたに関係ないでしょう」

「テメェ……。何考えてやがんだ」

「何を考えているかですって? 早くあなたがここから出て行ってくださらないかしらということを考えているわ」


 売り言葉に買い言葉。暴言は止まらない。

 ヴィオレッタの反抗に、ヴィロードは内心生きた心地がしていなかった。


「あぁ、いいこと教えてあげる。私、皇帝陛下から直々にお話し相手として任命を受けたの」

「………………」

「ちなみに給与ももらえるそうよ。あなたなんかと一緒にくだらない舞踏会やらパーティーやらに参加するより、ずっと有効な時間だわ」


 ヴィオレッタはそう言いながら、髪飾りを取る。はらり、と落ちるのは、消えることのない炎で彩った髪。美麗びれいなウェーブを描いて落ちていく様は、なんとも言い難い美しさがあった。ヴィオレッタは、取った髪飾りをルカに投げつける。トンッと騎士服に当たると、重力に従って地面へと落ちてしまった。ルカは、それを拾い上げる。そして何も言うことなく邸宅を出て行った。悲鳴を上げる扉がバタン、と閉まった時、ヴィロードが息を吸う。長らく息を止めていたらしく、相当辛そうであった。ヴィオレッタは、ルカが出て行った扉を見つめたあと、無言できびすを返した。

 ふたりの距離は、縮まるどころか、遠ざかる一方である。

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