約束の口づけ

ねこじゃ・じぇねこ

約束の口づけ

 きっとこの世界は途方もなく広くて、私にとっての当たり前が、他の方々にとっても当たり前であるとは限らないでしょうから、まずは私の故郷についてお話いたしましょう。


 私の故郷は地底にありました。

 御神花ごしんかと尊ばれる美しい巨大花の根元に築かれておりまして、日は当たらずとも神秘的な場所でした。

 統治しているのは美しい女王。けれど、私はそのお姿を見たことはありません。彼女の姿を見ずに一生を終える国民も少なくありませんでしたし、そもそも私の一族は目があまり良くなかったので、うんと近づかなければよく見えないのです。

 それでも、女王様の姿を見たことがある一族の者は、いかに目が悪くともその尊さばかりは流石に伝わるものだと言っていたので、きっと私もお目にかかる機会があったなら、その尊さをもっと深くお伝えできたでしょう。

 しかしながら、残念な事にその機会はとうとうありませんでした。結局、私は生まれ故郷の女王の御姿を知らないまま、新しい王国へと旅立ったのです。


 旅立ちのその経緯をお話する前に、私の身分についてもお話させてください。


 私の故郷には種の異なる二つの民族が暮らしておりました。

 片方はしなやかな褐色の肢体をもつ尊いお方々で、その全員が女王の御血筋でした。そしてもう片方は丸っこくて青白い身体をした種族でして、その一人が私でした。王国の自由民は全員が女王の御血筋で、私たちは彼らの財産──つまりは奴隷だったのです。

 私も最近知ったのですが、奴隷と言いますともっと過酷で、辛いとしか言いようのない扱いを受ける世界も多いらしいのです。しかし、私たちの場合は、そこまで酷い扱いを受けていたわけではありません。

 勿論、自由はありませんし、生き方も生まれた時から決められておりました。しかしそれは、女王の御血筋も同じ事。王国の自由民の女性の大半は仕事に明け暮れておりましたし、男性は一瞬の火花のように短い人生を駆け抜けてはこの世を去っておりました。

 自由民の自由はおそらく己の足で歩きまわれる自由のことなのでしょう。私の一族は目も足も悪かったので、自由民の介助なしには歩けませんでしたので。


 さて、ここまでお話しても、私たちが何故財産とされているのかよく分からないかもしれませんね。そろそろ、私たち一族のことについて語らせていただきます。


 私たち一族は、たった一人の母から枝分かれしていったと言われております。

 女王の御血筋とは違って、父というものがなく、私は母の、母は祖母のコピーとして生を受けました。

 有性生殖をなさるお方々は不思議に思われるかもしれませんが、子を生める年頃になるといつの間にか娘が出来て産んでしまうのが私たちだったのです。

 故郷にいた頃の私はまだ身体がきちんと出来上がっていなかったのか、子を産む機会はありませんでしたが、いつ娘が出来てもおかしくない状況ではありました。

 けれど、目も悪ければ足も悪い私たちにとって、子育てはとても大変です。そのため、子供たちの世話は自由民の方々にすっかり頼っていたのです。


 子供たちは乳離れする頃になると母親から引き離され、御神花の根元に繋がる小さな子供部屋に移されます。

 そこで御神花の汁を啜って暮らし、ある程度成長して大人として認められると、大きな部屋へと移されるのです。

 その後も、子供の頃と変わらず御神花の汁を啜って過ごすのですが、ある程度、身体の成長した私たちには御神花の汁を甘露に変える力が備わるのです。

 その甘露こそが、女王の御血筋を悦ばす貢ぎ物でした。


 甘露の味に違いがあるのかどうか。

 そこについては私もよく存じておりませんが、恐らく違いがあろうともその差異はわずかなものでしょう。

 それに、甘露を捧げる私たちの容姿だって違いはないはずです。

 けれど不思議な事に、甘露を求めて訪れる御方々は、私たちの生み出す甘露の味の違いを殊更に語りたがりましたし、私たちの容姿や声にすら僅かな違いを見つけてはそこに個性を見出していたようです。

 いつの間にか私たちには人気の違いが生じましたし、特定の客が頻繁に訪れるということもありました。

 どうやら私たちとの甘露を巡るやり取りは、女王の御血筋にとって単なる栄養補給ではなく、日々のささやかな楽しみとなっていたようです。


 私のもとにも同じように、馴染み客というものがいくらかおりました。

 訪れる相手に甘露を渡す際、容姿や声を褒められるたびに、恥じらいつつも率直な反応を見せるというそのやり取りは、女王の御血筋だけでなく殆ど部屋を出ることのない私にとっても確かな娯楽だったのです。

 けれど、その一方で、どこか冷めた思いもありました。

 お客が求めているのは甘露なのであって、私ではありません。

 私がいなくなったとしても、代わりはいくらでもいます。

 私というものを気に入っているのだとお客はいつも言いますが、それは単なるお世辞に過ぎないのです。

 だって、私は母のコピーで祖母のコピーでもあります。

 同じコピーはたくさんいますし、私もまた同じようなコピーをそのうちたくさん産むのですから。


 そこに不満があったわけではありません。

 そういうものだと分かっているつもりでした。

 けれど、時々わたしは女王の御血筋が羨ましく感じてしまうことがありました。

 同じ父母から誕生した彼女らも、それぞれよく似た姉妹でした。故郷にいる間にあまり見る機会はありませんでしたが、彼女らの兄弟たちもまたよく似ていたのでしょう。

 けれど、飽く迄似ているというだけ。同じ血を引いていても、全く同じではないのだということは、毎日訪れるお客を比較しているだけでもよく分かりました。

 個性というのは彼女たちに相応しい言葉であるのでしょう。

 その証拠に、お客の中には私たちについて正直な感想を述べる者も少なくありませんでした。


 はっきり言って違いが分からない。

 誰でもいい、誰だろうと一緒だから。


 分かっていても、面と向かって言われると寂しい言葉でした。

 けれど、同時に有難い言葉でもありました。正直な言葉は私を冷静にさせてくれます。御世辞ばかりを言われて自惚れることがないように、舞い上がる事がないように、心を縛る鎖となってくれるのですから。

 特別でないという事は、決して不幸なことではありません。

 母や祖母のコピーとして生まれた事も、きっと不幸なことではありません。そう自分に言い聞かせて、時折冷めてしまう心を慰め、私は毎日ひたすら甘露を作り続けていたのです。


 そんなある日の事でした。


「ごめんください」


 と、愛らしい声で訪ねてきたのは、初めて見るお客でした。

 珍しい事ではありません。羽化を経て新しく大人の仲間入りをした女王の御血筋が、姉たちに勧められるままに私を訪ねてくることは普通の事でしたから。

 けれど、この度やってきた新顔は、あまり良いと言えない私の目にも、明らかな特徴があったからです。

 彼女には背中に翅が生えていたのです。

 透明の美しい翅が。


「姉に勧められて来てみたの。さっそく甘露をいただける?」


 美しいのは翅だけではありません。

 そのまろやかな声も、容姿も、全てが整っておりました。ここまで美しい方を見たことがないと思うほど。

 きっと彼女は女王の生き写しなのでしょう。そう思うと同時に、私はようやく幼い頃より教養として習ってきたことを思い出したのです。

 女王の御血筋で翅を持つのは基本的には男性のみ。

 そうでなければその御方は、いずれこの王国を旅立ち、新しい王国の女王となられる姫君でしょうと。


「女王様……」


 驚いて呟く私を前に、彼女はくすりと笑いました。


「残念だけれど、まだ女王ではないの。けれどいずれは、ね」


 淑やかな澄まし顔を浮かべる彼女を前に、私はすっかり狼狽えてしまいました。

 まさかそんなお客が来るなんて思いもしなかったからです。

 しかし、やがて、私は自分がとんでもない失態を犯していることに気づき、慌てて姫の前にひざまずいたのでした。


「か、甘露でございますね。お待ちください、ただいま」


 そんな私を姫は落ち着いた様子で見降ろしてきました。


「お願いね」


 穏やかなその声に背中を押され、私はすぐに御神花の根から汁を啜り、姫に見守られる緊張の中でどうにか甘露を生みだしました。


「どうぞお召し上がりください」


 そう言って震える手で甘露を差し出すと。姫は優雅ながらも愛らしい仕草で受け取り、あっという間に飲み干してしまわれました。

 味は他の者たちと変わらないはずです。とびぬけて美味しいはずもありませんし、逆にまずいと言う事もないはずです。

 それでも、私はとても緊張していました。もしも、姫の機嫌を損ねるような味だったらどうしようかと。

 しかし、幸いな事に、甘露を飲み干した姫の反応は私の恐れていたようなものではありませんでした。


「なるほど、これが甘露の味。王国の民の命を繋ぐ大切な味。偉大な母にすら作り出せないもの。ありがとう、美味しかったわ」


 にこりと微笑んでいただいて、私はようやく肩の力が抜けたのでした。

 しかし、姫の好奇心はおそれる私をなかなか解放してはくださらず、用が済んでもなかなか帰ろうとなさりませんでした。


「ねえ、お前。名前はあるの?」

「な、名前ですか? ありません。必要としないので」

「そう、何だか不便ね。姉たちはお前を何と呼ぶの? あだ名とかはあるの?」

「特にこれといったものは……お姉さま方の中には、私をシロちゃんと呼ぶ御方もおられますが──」

「シロ……」


 首を傾げながら姫は言いました。


「確かにお前たちは白いわね。けれど、だからこそ名前としてはいまいちね。皆、シロちゃんだもの。それなら、良い名前をちゃんと考えておかないと。あなたにも必要になるでしょうから」

「ひ、必要? 私に? 一体どうしてですか?」

「間違ってはいけないでしょう? 私はまだお前たちを見分けることが出来ないの。部屋の場所を間違ってしまったら、違う娘に話しかけてしまうことになる」


 そう言われ、私は思わず失笑してしまいそうになりました。

 失礼と分かっていたので何とかこらえましたが、その時、私は気づいたのです。

 姫はまだ羽化したばかりで、世間の事を──私たちのことをあまり良く理解されておられないのだと。


「間違ってもいいのですよ」


 フォローするつもりで、私は姫にそう言いました。


「私たちは全員がコピーなのですから、間違ったとしても何の問題もありません。さきほどお捧げしたものとそう変わらない甘露が得られるはずですもの」

「いいえ、間違っては駄目なの」


 私の言い方が良くなかったのでしょうか。姫は少し不満そうに言い返してきました。


「味が一緒だろうと意味がないわ。お前に会いに来たいのだもの」

「それでしたら、尚更間違っても構いません。私たちの見分けはつかないものなのです。だって、私はコピーだもの。他の者たちと中身だって変わらないはず……」

「違うはずよ」


 あまりに食い下がられて、私もムッとしてしまったのでしょう。相手が誰なのかを忘れ、こちらもむきになって言い返してしまいました。


「けれど、姫様は私たちの見分けがつかないとおっしゃいましたでしょう? そういうものなのです。皆さま同じですよ。部屋の位置を覚えているだけ。誰だろうと同じです」


 あまりに大人気なかったと気づいたのは、すっかり言い終えた後でした。

 時すでに遅し。姫の表情は直視できないほど芳しくなく、到底罰を逃れられないだろうと覚悟するべきものでした。

 だから、乱暴に腕を掴まれた時は、思わず謝ってしまいました。


「すみません、出過ぎた真似をお許しください」


 しかし、姫は何も返答しませんでした。

 その代わりに、私が思ってもみなかった行動に出たのです。

 腕をぐいと引き寄せたかと思うと、私の手の甲に深く口づけをしてきたのです。予想外の出来事に、私は惚けてしまいました。

 目を丸くした私の表情が、あまりに間抜けだったのでしょうか。姫は唇を離すと、面白がるような眼差しで笑い、急に興味をなくしたように私の手をパッと放して言いました。


「これで見分けはつくでしょう?」


 そう言われて、私はやっと気づきました。姫の口づけを受けた手の甲に、見覚えのない印があることに。


「こ、これは……」

「目印よ。名前がいらないというのなら、付けておかないと」


 息を飲む私の両肩を抱き、姫は言いました。


「お前も少しは聞いたことがあるでしょう。やがて故郷を旅立つ姫は、平民の娘を一人だけ連れて行く権利があるの。気に入った子なら、誰でもいいのですって」


 妖しく微笑まれ、私は思わず惚けてしまいました。けれど、すぐに我に返り、逃れるように目を逸らしてしまいました。

 分かっていたのです。こんな事は遊びのようなものだと。確かに姫の言う通り、王国にはそういう風習はありました。

 けれど、姫が連れて行くのは私であるとは限りません。こんな目印に何の意味があるでしょう。誰だって良いのです。気が変わって、違う娘を連れて行ったっておかしくはないのですから。

 だから、期待なんてするわけにはならなかったのです。


「御戯れを。何も私でなくたって良いではありませんか。ひょっとしたらこの後で、もっと容姿が愛らしくて、美味しい甘露を生みだせる娘が見つかるかもしれませんのに」

「随分と疑い深いのね。誰であろうと一緒とさっきお前も言ったのに」


 姫はくすりと笑い、無理やり目を合わせてきました。


「お前の事を教えてくれた姉がいると言ったでしょう? お前が生まれた日と私が生まれた日は同じなのですって。両方の世話をしたから覚えているって言っていたの」


 そう言ってから、姫はようやく私を解放してくれました。

 緊張ですっかり膝の力が抜け、そのまま寝台に座り込んでしまう情けない私を、姫はじっと見下ろしながら言いました。


「掟では無理強いしても良い事になっているけれど、それでは気分が悪い。しばらく時間をあげる。ついて来るのか、来ないのか、ゆっくり考えておいて」


 そして、姫が退室した後も、私はしばらく放心状態になっておりました。

 いつものように馴染みの客たちに甘露を振舞う間も、心の中にはずっと姫に言われた言葉と、手の甲に残り続ける目印のことが渦巻いていたのです。

 これまで私はずっと個性というものを当たり前に持つ女王の御血筋を羨んでおりましたが、いざ、違うものを与えられるとこんなに恐ろしいのかと震えてしまいました。

 全てが母のコピーであったはずの身体に残る目印は、不思議な事に擦っても消えませんでした。

 仮に消えたとしても、姫によって心に刻まれた期待は簡単に消せるものではないでしょう。


 そうです。私は怖かった。

 けれど、怖い以上に既に期待を埋め込まれてしまっていたのです。

 だから、どれだけ時間を与えられようと、意味はありませんでした。そもそも、私の意思に関わらず、答えは一つしかあり得なかったのかもしれませんが、意思に反して攫われてしまうという心配はないまま、約束の時を迎えたのです。

 結局、私の心配を余所に、目印が消えることも、姫の気が変わる事もありませんでした。


「いいのね?」


 短いその問いに頷いた時、私の運命は大きく変わりました。

 未来の女王に抱えられ、王国を去っていく間、あらゆる者たちが私たちに敬意を示しました。

 小さな部屋の世界しか知らなかった私にとって、王国の中ですら広すぎるように思えて、私はひたすら怯えていました。そんな私を姫はしっかり抱きかかえ、名残惜しさを微塵も見せずに生まれ故郷を旅立ったのでした。

 旅立ちの際、私は生まれて初めて、故郷の御神花の全貌を眺めることが出来ました。立派なその花の色と形は目が悪くとも分かりました。

 記憶に焼き付いたその花にひっそりと別れを告げると、少しだけ恋しい気持ちが生まれました。けれど、姫はその気持ちが深まるより前に、背中の翅で空高く飛び上がっていきました。


 地底の世界しか知らなかった私にとって、外の世界は身を竦めてしまうほど広大でした。

 何もかも眩しすぎることは、目の良くない私にも伝わりましたし、一生に一度きりの経験となる空を飛ぶ体験も、私には勿体ないと心底感じるほど刺激的なものでした。

 姫に抱えられながら旅をした時間はさほど長いものではありません。それでも、私はこの短い間に、これまで想像もしなかったような経験をしたのです。

 風の感触も、攻撃的な日の光も、色とりどりの世界も、雨の冷たさも、そして姫と殿方との刹那的な婚礼も、全てがあっという間でした。

 そして、新しい王国を築くのに相応しい御神花の発見も、心が洗われるほど感動的なものでした。

 故郷のものに勝るとも劣らない輝きを放つその御神花は、きっと若かったのでしょう。何者の王国も築かれておらず、地上も地底も静かな世界が広がっておりました。


「ここにしましょう」


 そして姫の──いいえ、新しい王国の女王のひと言で、何もなかったその世界に、無名の王国は築かれたのです。

 背中の翅が抜け落ちると、姫は誰の力も借りることなく地底に部屋を築いていきました。御神花の根元に大きな部屋を築くと、私の寝台を作ってくれました。

 新しい御神花の汁の味は、故郷のものに勝るとも劣らない味で、私が生み出す甘露もまた、同じく質の良いものだったようです。

 そこで私たちはしばらく二人きりの世界を楽しみました。恋人のように、夫婦のように、甘いひと時を過ごしたのです。

 今となっては懐かしいほどに静かな日々でした。けれど、それから程なくして、王国は賑やかになっていきました。

 新しい女王の血を引く新しい王国の民たちが増えていくと同時に、私の娘たちも次々に産まれました。

 そして、私たちの新しい王国は今日まで続く大国となっていったのです。


 女王とふたりで王国の発展具合を耳にしながら、私はふと、故郷の事を思い出すことがあります。

 今頃、あの場所はどうなっているのでしょう。今も変わらず、変わらぬ日々が続いているのでしょうか。

 あのままあの場所にいたとしても、私は幸せだったでしょう。安心したまま一生を終えたでしょう。

 そう思うと時折、あの生活が無性に恋しくなることはありました。けれど、自身の王国の発展を聞いて満足そうに微笑む女王の横顔を見ていると、すぐに思い直すのです。

 この笑顔を間近で見られるのなら、やっぱり選ばれて良かったのだと。

 そして、私は必ず自身の手の甲を見つめるのです。

 代わりなどいくらでもいたはずの私に、特別な未来を約束してくれた目印。かつて姫だった彼女の約束の口づけは、消えないまま今もずっと残り続けています。

 その目印を見つめていると、ほんの短い期間であった旅立ちのあらゆる記憶が蘇り、自ずと微笑みが浮かぶのです。そして、必ず思うのでした。


 これからも、女王の御傍で甘露を作り続けていたい、と。

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