第16話

 恋人の生死がわからないまま死んだ女は、もしかしたら自分のもとをたずねてくるかもしれない恋人を待って、この世にとどまり続けるのではないか――

 スメラギは、死神の手を逃れ、幽鬼となった女こそが、宮崎老人を介して託された柏木孝雄の手紙を渡す相手だと確信した。

 沼田小夜子、旧姓宮内小夜子は、恋人、柏木孝雄がたずねてくるかもしれないと待ち続けている―

 スメラギは手紙の住所をたずねた。宮内小夜子が柏木孝雄を待っているとしたら、手紙が届けられたはずの場所だろう。


 戦前の住所で宮内小夜子の実家があった場所は、いまや都内屈指の交通量を誇る幹線道路になっていた。

「ここかよ……」

 スメラギが絶句するのも無理はない。

 そこは見通しのいいにもかかわらず、事故が多発する交差点だった。スメラギが覚えている限りでは、確か数年前に、交差点の先の喫茶店にハンドルを切り損ねた車が突進し、客と車を運転していた男が犠牲になったはずだ。その後も事故は起こっているようで、歩行者信号のたもとには、真新しい花束が供えられている。

 信号が赤に変わり、スメラギは霊視防止のメガネをはずし、ダッシュボードに投げ捨てた。たちまち、歩行者の数が増える。自分が死んだとわからずに事故現場にとどまり続けている幽鬼たち…。

これだから事故現場は……

 愛車、ビートルのハンドルをにぎる手に汗がにじんだ。

 ダッシュボードには、メガネと、宮崎老人から預かった宮内小夜子あての手紙がのっている。

 金曜の夜の繁華街。夜が深まるにつれて、とこからか人が沸いて街にあふれだす。仕事帰りのサラリーマンにOL ― 仕事を背後に、週末の開放感をすぐ目の前にして、その開放感の放つ甘いかおりにすでに酔いはじめている。

 足取りのおぼつかないサラリーマン、抱きかかえられるようにしてようやく体を縦に保っているOL、ろれつのまわっていない舌で何かを叫んでいる初老の男性、肩を組んでは歌らしきものを歌っているらしい学生たち。信号が変わったというのになかなか歩道にたどり着かない人々にまじって粛々と横断歩道をわたる人々の姿がある。

スーツを着ていたり、作業着だったり、なかには制服のようなものを身につけていたりと、その職業はバラバラだが、共通するのは全員が男で、背丈も同じほど、顔つきもそれぞれ少しずつ似通ったところがあるようにみえる。年ごろも20代前半から30歳にはなってはいないだろうとおもわれる。

 スメラギの目にだけみえている、事故の犠牲者たちだ。

 突然の事故で死んだことを知らずにこの世に留まり続ける幽鬼たち。霊のみえる体質に生まれついたスメラギには生きた人間と変わりない姿で見えている。だが、その体は酔っ払いたちの体をすり抜けて歩道へとあがっていく。

 周囲のまばゆいネオンに溶け込みかけている信号の光が青に変わり、スメラギは愛車ビートルのギアを入れ、アクセルを踏み込んだ。

 進行方向の道路中央に、女が立っている。

 自分と視線があってもたじろがないスメラギを、女は不思議そうにみつめていた。スメラギはスピードを落とさず、交差点を走り抜けた。

「柏木って男からのアンタあての手紙をあずかってるぜっ!」

 開け放した窓から叫んだ声は、周囲の喧騒に掻き消されてしまった。だが、スメラギは確信していた。彼女の耳には聞こえていると。

車ごと女の体をすり抜けたとたん、車内の温度が急激に下がり、吐く息がたちまち白く煙る。

「柏木さんからの手紙って?」

宮内小夜子だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る