第8話
「地獄へ寄っていくか?」
―たしか、閻魔王こと夜摩はそう言った。
だが、閻魔王が死んだ人間の罪業を吟味する閻魔庁を出て、連れて行かれた場所は、東京駅の最深部に横たわるプラットホームだった。
プラットホーム中央のエスカレーター下には、長身のスメラギが背をかがめるとすっぽり嵌りこんでしまう窪みがあり、禍々しい赤いペンキで「関係者以外立入禁止」と書かれたドアがある。カードリーダーが備え付けてあるが、飾りものに過ぎず、ドアノブをひねって扉を向こう側に押せば誰でも地獄へ行くことができる地上との連絡口だ。
地獄へ行くものだとばかりおもっていたスメラギが着いた場所は、来たときと同じ、東京駅の地下構内プラットホームだった。
煮え立つ大釜も、血の池も、針山もなければ、罪人を苛む獄卒の鬼たちの姿も見当たらない。阿鼻叫喚、血しぶきの舞う光景を覚悟してきたスメラギは、拍子抜けしてしまった。
「おい、ほんとにここが地獄なのか?」
「せや」
真紅のハイヒールブーツの踵をカツカツ鳴らしながら、夜摩は先にたってホームを歩き始めた。
ホームで電車を待つ人々が夜摩を振り返る。
豪華な黄金(ブロンド)の巻き毛を揺らし、血の色を彷彿とさせる真っ赤なボディースーツに身を包んだ夜摩は、どうしたって人目をひく。突き出した豊満な胸に、ほっそりとした腰、長い長い脚は、スーパーモデル並みのスタイルの良さだ。
誰が、地獄の閻魔王だなどとおもうだろう。
その身を包む真紅のボディースーツは、人の皮を剥いで縫いあわせたもの、赤はまさに人の生血で染めた色、豊満な胸はとある女の罪人から切り取ったものである。
誰が、そこ行く人が男だなどとおもうだろう。
通りすがりの視線をその身にまとわりつかせ、夜摩とスメラギは、スメラギがたどってきた道をそのまま逆に、エスカレーターを何層にもわたってのぼっていき、やがて地上へと出た。
サラリーマンやOLでごったがえす東京駅は、日常の光景だ。
間違って地上へ戻ってきたのかと思っているスメラギの目の前で、突然、男が悲鳴をあげて倒れた。
男の胸にはナイフが刺さり、血が噴き出している。とっさに駆け出して助けようとするスメラギを夜摩が止めた。男の胸からは、みるみる血が流れだし、あっという間 に広がった血溜まりに男の死体がぽっかり浮かんだ。
すると、死んだとばかり思われた男が何事もなかったかのように起き上がり、歩き出したではないか。
傷口も塞がっている。だが、数メートルも歩かないうちに、再び男は悲鳴をあげて倒れた。先ほどと同じ男にまたしても刺されて倒れたのである。そして同じ光景が繰り返された。男は起き上がり、歩き始める。そして刺され、殺される。血黙りに体を横たえたかとおもうと、また起き上がり……。
気付けば、ビルの谷間で、通りの角で、残虐な行為が繰り広げられていた。
「あの男、通り魔か何かやったんやな」
やはり、ここは地獄だった。
地獄では自分が犯した行いと同じことが、決められた年数の間、くりかえしくりかえしその身に起こる。殺人を犯せば自らが獄卒たちに殺され(しかも自分が行ったのと同じ方法で!)、火を放って人を殺めたのであれば自らも焼き尽くされる。焼き尽くされた後にはまた元通り生身の体に戻って再び灰になるまで焼き尽くされる。しかも死ぬことなく、灰になるその瞬間まで苦痛を味わうのだ。
それはまさに地獄だった。
血の池も針の山も、煮えたぎる大釜もないが、まさしく地獄に違いない。
ありふれた都会の街角で、殺人、強盗、放火…日常の世界では犯罪とされる行為がいたるところで行われている。警察がかけつける様子もなく、獄卒が際限なく罪人を苛む陰惨な光景だけが延々と続いている。
ひっきりなしにあがる悲鳴と、すえた血の臭いにスメラギは吐き気をもよおし、近くのビルの陰に駆け込んだ。
「あんた、大丈夫かいな?」
柔らかな女の声だった。
「しっかりしいや」
情けなくも女の肩につかまって起き上がろうとした瞬間、女はスメラギを突き飛ばし、スプリンター顔負けのスピードでビルの谷間へと消えていった。
「なっ…! 」
尻もちついた瞬間、ジーパンのポケットに入れてあったはずの財布がないのに気付いた。シャツの胸ポケットに入れておいた手紙もなくなっている。
さっきの女だ! やられた、スリだ!
追いかけようと腰を浮かせた瞬間、2、3メートル先で女の悲鳴があがった。
夜摩が女の髪を引き摺って戻ってきた。
「盗(と)ったもの、返しいや」
夜摩は女をスメラギの目の前に、雑巾でも叩きつけるように投げ出した。
女は財布をしっかり抱えたまま
「私のもんじゃが」
と言い張った。
年は40ぐらいだろうか、血走った目を見開き、額にはトタン板の波のような皺がより、乾いてひび割れた唇はかすかに震えている。
女は鬼籍データベースでその写真を確認した宮内小夜子だった。
喉元から胸にかけて茶色の沁みのあるブラウスの胸に抱えた財布の陰に手紙の角がのぞいている。財布は彼女のものではないが、手紙は彼女、宮内小夜子宛のものだ。スメラギが自分宛の手紙を持っていると知ってとっさに抜き取っただけで、財布はついでに盗られたものかもしれない。
「なあ、財布は返してくれないか。手紙は持っててくれてかまわないから」
と言い終わるか終わらないうちに、夜摩が財布ごと手紙を女から取り上げた。女は金きり声をあげ、手足をじたばたさせ、「わしのもんじゃ、返せ」と何度も叫びながら夜摩に飛び掛っていった。
「手紙は皇拓也という男から宮内小夜子という女あてのもんや」
「わしが、その宮内小夜子や」
「皇拓也という男を知っとるんか」
「知っとる、知っとる」
「柏木孝雄の知り合いの男やなあ」
「そやそや」
手紙はもちろんスメラギからのものではない。スメラギは宮内小夜子を知らないし、宮内小夜子がスメラギを知っているはずもない。柏木孝雄の名前にも、夜摩の話に合わせているだけで、特に目立った反応はない。恋人だった男の名前に無反応でいられるものだろうか。
「この嘘つきがっ!」
夜摩の怒号が飛び、女はひっくり返った。
「嘘つきがどうなるか、わかっとるやろな」
夜摩に呼びつけられた獄卒は、泣き喚く女の口を裂き、素手で女の舌を引き抜いた。たちまち鮮血がブラウスに散り、新たな染みを作った。
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