第76話『伝わらない言葉、伝わる想い』
俺が考え込んでいた、そのとき。
「って、あっコラ!?」
”にゃぁあああ! アタイは自由にゃぁあああ!”
猫が脱走し廊下のほうへ走っていってしまった。
まさか、ケージを閉め忘れていたのか!? しまった、まだ玄関だからと油断していた。
慌てていると、横からのんきな声が聞こえてきた。
あー姉ぇがにへらーと笑っていた。
「かしこいね~猫ちゃん。自分で開けられるだなんて……ぶえーっくしょん!」
「いや、自分で開けたのかよ!? ていうか、見てたなら止めろよあー姉ぇ!?」
どうやら、きちんと閉まっていなかったケージの隙間から手を出して、自力で開けやがったらしい。
相変わらず、なんというお転婆か。
「す、すいませんウチの子が」
「大丈夫ですよ。ちょっと捕まえてきますねー」
母親がもはや慣れた手つきで、あっという間に猫を捕獲して帰ってくる。え、すご。
猫は抱かれた胸の中で、激しく暴れていた。
「ごめんねー、怖いよね。悪い病院に連れて行っちゃったもんね」
体調が戻ってから猫はずっとこんな調子だった。
言葉が通じない、というのはこういうことだ。誤解を解くことができない。
俺が動物たちに伝えられる言葉はかぎられている。
俺が動物たちから聞ける言葉もかぎられているように。
あの動物病院で聞いたような、本能に根差す感情――敵意などはわかるし、伝えられる。
けれど複雑なことを伝え、そしてなにより理解させることは非常に難しい。
だから……。
”離せにゃぁあああ! もっと走らせろにゃぁあああ! 遊ばせろにゃぁあああ!”
こんなことを言っている猫を説得するのはムリだな!
「遊ぶな」というのも違うし。かといって「今はダメ」という”なぜ”を理解させるのはもっと難しい。
「うぅっ、お母さん嫌われちゃった」
母親が「よよよ」と泣いているが、あいにく好感度が低いのはもともとだ。
……とか伝えると、余計に落ち込みそうなんだよなー。
まいった。
俺たちは互いに、
しかし、どうやら解決に言葉はいらなかったらしい。
”なんにゃオマエ、痛いのかにゃ? あっ、こんなとこ怪我してるじゃにゃいか! どんくさいやつにゃ。仕方ないから、アタイが舐めてやるにゃ!”
「え……許して、くれるの?」
悲しむ母親を見て、傷が痛むのだと猫が勘違いをした。
そして傷口を舐めはじめる。
それ、お前が引っ掻いてつけた傷だぞ。
と思ったが無粋なことを言うのはやめておいた。
猫は人間を「大きな猫」くらいに認識しているのだとか。
だから傷を舐めて治そうとしてくれているのだろう。
「ううっ、ありがとゥグっ、ね。許してクゥウウウれて」
母親が変な顔になっていた。
許してもらえたのはうれしいが、舐められるたびにヤスリのようにザラザラとした舌が傷に障るらしい。
そっかー。だからエリザベスカラーってあるんだなー。
舐めることで殺菌されるが、舐めすぎると逆に悪化してしまうから。
母親が名残惜しそうにケージに猫を戻した。
なんだかいい雰囲気になっていた。
「許してくれてありがとうね、猫ちゃん」
”ふぅ、いい仕事したにゃ! 感謝するにゃ!”
お互いになにか誤解しているが……まぁ、いっか!
ハッピーエンドっぽいし!
「それではお返事お待ちしております。どうぞよろしくお願いいたします」
「一緒にアメリカ、行けるといーねー」
言ってマネージャーさんとあー姉ぇが去っていく。
別れぎわの猫はドライなもんだ。
”ご主人、お腹空いたにゃー”
「うぅ、猫ちゃぁあああん! また会おうねぇえええ!」
猫は哀しみを持たない。だから、母親や俺との別れを惜しむこともない。
けれど、こういう別れも悪くはない、と俺は思った。
* * *
……思った、のだが。
翌日、母親がカタログを広げていた。
「あっ、おはようイロハ! ねぇ、あんたどの猫種が好き?」
「え、朝に顔合わせて早々それ? って、ちょっと待って? もしかして昨日、難しい顔してたのってこれが理由!? アメリカ行きの話じゃなくて!?」
「へ? それを決めるのはあんたでしょ。どっちを選んでもお母さんは全力で応援するだけよ? だって、それは”もう決めたこと”だから。それより……やっぱり三毛猫? 三毛猫が好き? どうかな三毛猫!」
「お母さん……」
俺はじぃんとこみ上げてきたものを飲み込んだ。
それから笑顔で返した。
「飼う前提で話をするなぁあああ! わたしはイヤだからな!?」
「えぇ~~~~!?」
もう動物はこりごりだ。
俺は忘れずにワイヤレスイヤホンを持って、学校へ行った。
* * *
《アメリカ行き……ふふふ! ついにイロハにもその話が来たか! ずーっと話したくてウズウズしてたんだ!》
俺は久しぶりに静かな自室であんぐおーぐと通話していた。
猫がいたときはずっと騒がしかったからなぁ。
《もちろん参加するだろ?》
《……》
《……え? まさか、参加しないつもりか? お母さんから許可をもらえたって話じゃなかったのか!?》
《それは、そうなんだけど》
俺は答えを言いよどんだ。
じつはひとつだけ、どうしても参加をためらわせる理由が俺にはあった――。
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