明日香抄
加藤 汐朗
第1話 同棲
十八才の誕生日を迎えたその日、僕は家を追い出された。
家族と何か揉めたとか、そういう訳じゃないんだ。ある事件をきっかけに、両親とはそういう約束になっていたから。
自宅から歩いて十分足らずの、新築で小ぎれいな二階建のアパート。僕の両親と彼女の両親は、折半でここの一室を借りたのだ。
――五月五日の朝。
真新しい布団が敷かれたベッドで、真新しい布団を被った僕は目を覚ました。荷物もほとんど片付き、たたんだダンボール箱が部屋の片隅に積まれている。
目をこすりながら、隣で寝息をたてている
収まりがいいとは、こういう事を言うのだろうか。自分の胸元で、丸くなって寝ている猫がいる、そんな錯覚を覚えた。
家業は江戸時代から続く、由緒ある造り酒屋だ。高校を出たら
親父から言われるだけならまだしも、明日香の両親からも言われる始末で僕は閉口してしまった。杜氏は一人前になるまで十年以上の下積みが必要。正直、大学行ってる四年間がもったいない。
――それを杜氏頭の源さんに相談したら。
『これからの杜氏は大学出ておいてください。それに、坊ちゃんは明日香お嬢ちゃんのこと好きでしょ? いま時あんないい娘いませんよ』
杜氏頭、絶対に親父から何か言い含められてる。そう分かっていても、杜氏として一番尊敬してる人に言われたら従うしかない。
かくして僕は、受験生になることと、許婚との共同生活を約束させられたのだ。
大学に行けば地元を四年間離れることになる。このアパートは、その間に僕が変な気を起こさないよう、既成事実を積み上げる為に両家が仕組んだ策略と言える。
中学生の頃は将来の伴侶を、十才の時から親に決められた事に反発した時期もある。けれど今は、自分で言うのも恥ずかしいけど、違うんだ。
ひとつ年上の、准看護師でもあり幼馴染で、許婚でもある明日香。僕は彼女を必要としていた。とりたてて美人というわけでもないが、明日香といると居心地が良い。
肩肘張らずに普段の自分でいられる、お互いの良いとこ悪いとこを受容した上での付き合い。天命を全うするまで寄り添うなら、こんな女性がいいと気が付いたのだ。
平安時代の貴族は成人した夜、何歳か年上の女性が添い寝したらしい。それが初体験になり、相手が正妻となる。現代に於いてそれを体験する事になるとは、夢にも思わなかったけど。
もっともお互い初めてという事もあり、婚前交渉は難航を極めたのだが。
思い出したら恥ずかしくなってきた。朝っぱらから何考えてるんだ僕は。トイレに行こうと、明日香を起こさないようにそっとベッドから出ようとした。
――が。
彼女の目がうっすらと開いた。
カーテンの隙間から朝日がうっすら差し込む中、僕を眩しそうに見る明日香の頬が淡い桜色に染まる。毛布を引き寄せ、胸元を隠す仕草が可愛らしかった。彼女もきっと、恥ずかしいんだろうな。
「
「ん?」
「私で、よかったの?」
小学生の頃から、何度も繰り返して来た問答。
『明日香ねえちゃんは僕のお嫁さん』
『ほんとに? ほんとに? わたしでいいの?』
『明日香ねえちゃんがいい』
彼女は僕と一夜を共にした今でも、この問答をしたいらしい。
年上の女房は
年下の相方を甲斐甲斐しく面倒みてくれて、上手に
すり減る事のない金属の草鞋を履いてでも、ほうぼう探し回ってステキな年上女性を探せ。昔の人はそんな女性観と恋愛観を持っていたんだなと、感心してしまう。
「明日香でないと、困る」
彼女の瞳がゆらめき、小さな手が僕の腕を取って引き寄せた。同じ質問をしようかと思っていたけど、もうその必要はなかった。女性の体って、どうしてこんなに柔らかいんだろう。
「お腹空いたでしょ。ブランチになっちゃうけど、何食べたい?」
ストーンウォッシュのジーンズをはき、スウェットパーカーの袖に腕を通しながら明日香が尋ねてきた。
一応は気を遣い背を向けていたけれど、衣擦れの音で明日香の動作が何となく分かる。自分の日常に無かった音。自分のテリトリーに新しい生活の音が入り込むって、なんだか刺激的。
冷蔵庫の電源は入っているが、引っ越したばかりで中身は空っぽに等しい。歩いてすぐの所に郊外型のスーパーがある。明日香は買出しに行くつもりなのだろう。
クラスで野郎どもと、理想の女性像を話すことは珍しくない。よく出てくるのは、料理上手で綺麗好き。
僕は黙って聞き流すが、これはかなりハードルが高いと思う。何故って、お料理自体が台所を散らかす行為だからだ。
意識的に訓練しない限り、多くの女性は大抵どっちかに偏る。バランスが取れてくるのは、結婚してからだとお袋が言ってた。
でも明日香は、中学の頃からバランスが取れていた。
「安全な食材で、コテコテの日本食がいいな」
僕のリクエストに、明日香が両手を口に当ててころころと笑った。
「あははは。ここでマックとかケンタとか言い出さない所が克己らしい」
「そんなに可笑しい?」
「ううん、私は嬉しいの。安全な食材は難しいけど、がんばる」
机に置いていた財布と携帯をつかみながら、明日香がウィンクした。
はて、そんな難しいのだろうか? 疑問を抱きつつも、彼女が買い出しに行くならお供せねばと、僕もベッドの脇に脱ぎ捨ててあった服を手繰り寄せた。
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